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本能寺の変1582 第141話 15信長の台頭 8三好の衰退 天正十年六月二日、明智光秀が織田信長を討った。その時、秀吉は備中高松で毛利と対峙、徳川家康は堺から京都へ向かっていた。甲斐の武田は消滅した。日本は戦国時代、世界は大航海時代。時は今。歴史の謎。その原因・動機を究明する。『光秀記』

第141話 15信長の台頭 8三好の衰退 

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畠山方は、勢いづいた。

 大勝である。
 「悦ぶ事、限りなし」
 これで、一挙に、形勢が逆転した。
 今度は、畠山氏が優勢になった。

畠山高政は、河内を取り戻そうとした。

 三好氏に奪われた、己の領国。
 その奪還を目指す。

  残る人々、散々に、成りにければ、
  高屋城も自落し、
  飯森(盛)の外の城々、一つも残らず、聞き落ちにしける、

  岸ノ和田城に、安宅摂津守冬康ありけるが、続く勢もなければ、
  明ける日、明けて、退(の)ければ、
  畠山方、細川刑部大輔、入城しける、
  是れは、藤孝の養父なり、

畠山氏は、飯盛山へ攻め上った。

 元の主は、安見宗房。
 今は、長慶の居城になっている。

  かくて、畠山方、大なる勝ち軍(いくさ)して、悦ぶ事、限りなし、
  さらば、しばらく休みて、
  三好修理大夫長慶の籠りし飯盛を、取り巻ひて、責め落とせとて、
  同年(永禄五年)四月五日より、打ち立ち、
  同五月十九日まで、日々に、責め戦ひけり、  

長慶、危うし。

 実休、死す。
 大きな衝撃が走った。
 かなり、堪えたものと思う。
 四兄弟は、二人になった。
 ・・・・・。

松永久秀が動いた。

 敵は、勢いを増すばかり。
 「危うい」 
 「急がねば」
 この時、久秀から、後詰について、意見具申があったという。 

  松永弾正久秀は、大将長慶の前に来りて、申しけるは、

  実休、打ち死にありて、
  高屋城・岸和田城も落城して、
  此の城をば、八重・九重、取り巻き、
  惣責(総攻)めにすべしと、申し候、

  急ぎ、後詰の勢を催し、敵を追い払ひ給へ、
  と、申しけれども、

長慶は、飯盛山に籠城した。

 長慶は、動かない。
 否、動けない。
 守りに徹するのみ。

  長慶、少しも、騒がず、
  色紙・短冊、取り出し、
  和歌を吟詠しながら、

長慶は、久秀を重用した。

 久秀は、大和の支配者。
 信貴山城主。
 この頃は、六角承禎への備えとして、三好義興とともに、京都方面に
 配置されていた。

  万事は、和主(わぬし=お前)にまか(任)するなり、
  よきにはからへ、と宣(のたま)ひける、

久秀は、後詰の軍勢を編成した。

 急ぎ、諸勢を掻き集めた。

  松永弾正、方々え催促して、

三好義興が後詰の総大将である。

 反撃開始。
 義興、この時、二十一歳。

  【参照】15信長の台頭 2尾張統一 119  

  三好筑前守義興を大将とし、
  同(三好)日向守政康(長逸)・三好久助(弓介)・
  同下野守(政生まさなり)・同備中守、

義興は、四国勢と合流した。

 彼らは、尼崎に上陸していた。

  四国衆は、三好山城守康長・安宅摂津守冬康、

 安宅冬康は、三好四兄弟の三番目。
 淡路島水軍を有している。

 【参照】15信長の台頭 2尾張統一 119   

三好方は、畠山勢を挟撃しようとした。

 飯盛山に、長慶の軍勢。
 これを攻める、畠山。
 後詰、義興率いる合流軍。 

  松永弾正は、申すに及ばず、八千余騎、馳せ集まり、
  渡辺川(淀川)を渡り、
                         (「足利季世記」)


 ⇒ 次へつづく 第142話 15信長の台頭 8三好の衰退 


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