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『瓢箪鯰』


『瓢箪鯰』


チェ・ゲバラのTシャツを着た私は、日当たりの悪い陰気な六畳間で断食五日目みたいな顔をしていた。
すると、突然、父が部屋に入ってきて、
「今日からオレが英語を教えてやっからァ!」
と言った。それは私の中学の英語の成績がクソレベルなので、父がついに業を煮やしたらしかった。
父は隣の部屋から埃まみれの椅子と使い古した英和辞典を持ってきて、私の学習机の横に座った。
そして、私が学校で使っている英語の教科書を仏頂面でパラパラとめくると、パッと指を差して、
「どれ。まずはこの英文から読んでみろや」
と言った。それは、「This punk rock music is very interesting to me.」という短い英文である。



私はそれをボソボソと読み上げた。すると父は、かぁぁぁぁ、と言って、顔をしかめてから、
「ほーでねー!これはインタレスティングだ。インタレスティング。興味深いという意味の英単語だ!基礎中の基礎だべや。こんなこともわからないのか、低脳めッ。この、あんぽんたん。ダメ息子!」
そう言うと、私の学習机を平手でバンバンと叩いた。父は家族に内緒で、町の英会話教室に通っている。愛人がその英会話教室のオーストラリア人の先生だからである。だから、英語の発音が良いのだ。
元来、父はケチな男であり、家族にはお金を使いたがらないくせに、自分は英会話教室に通って浮気をしたり、仕事の出張先でひとりで高級ホテルに泊まり、寿司や鰻重などをたらふく食べて贅沢をしているような浅はかな男だった。だから、父の英語の発音が無性に癇に触った。私は苛々しながら、ふたたび、インタレスティングと発音したが、父は英和辞典の角で私の側頭部をおもいきり殴ってきて、
「インタレスティング!インタレスティング!アクセントは前だべや。インタレスティング!」
と言うと、タコクラゲみたいな頭を掻いて、
「インタレスティング!インタレスティング!インタレスティング!インタレスティング!」
と連呼した。父のその声が鼓膜に響くと、私は脳波が乱れるように思考がぼやけて、烈しい眩暈に襲われた。そして、インタレスティングという単語が骨の髄に刻印されているような不快な戦慄が走った。


父の「インタレスティング!インタレスティング!」という狂的な連呼は階下まで響いていたらしく、心配した母が階段の下から遠慮がちに、
「おとうさんたち、夕飯の準備ができてますよ。今夜は近所の阿久津さんからいただいた米沢牛のすき焼きですよ。みんな、リビングで待ってるから、早く降りてきてちょうだい。待ってますからぁ」
と声をかけたが、病的に昂奮している父は、部屋の襖を細目に開けて、階段の下にいる母に大声で、
「やかましいわ、黙れ!オレらはあとで食うから、おまえらだけで先に晩飯を食っててけろォ!」
と言った。その後も四十分あまり、父の拘泥する発音で「インタレスティング!インタレスティング!インタレスティング!インタレスティング!インタレスティング!インタレスティング!インタレスティング!インタレスティング!」を執拗に繰り返した。だから、私も一心不乱になって、「インタレスティング!インタレスティング!インタレスティング!インタレスティング!」と声に出した。


すると、段々とその「インタレスティング」という単語が何のことだが訳がわからなくなるほど精神が錯乱してきて、ある時点で、インタレスティングのアクセントを閑却してしまった。何も考えずにインタレスティングと発音する。途端に父は激昂し、
「ほーでねー!何回言ったらわかるんだ田舎者!」
と言って、私の肩を拳で殴った。私は嘔吐を催した。そのとき、父の口から鯰のような臭気がした。
私は父の胃が腐っているのではないかと思った。
また、父の目は黒目が肥大したように真っ黒だった。その不気味な目でにらまれると、意識が混濁し、耳鳴りがして、足下からぐらぐらという強い揺れを感じた。六畳間が円を描くように踊っている。
「また地震か。怖いけどもう慣れた。五分後には何事もなかったかのように僕たちは生きるんだから」と言って、根本が折れるほど奥歯を強く噛んだ。


しばらくすると、じいちゃんが足音を立てずに階段を上がってきて、私の部屋の前へくると、
「お二人さん。いい加減にそのへんでやめにして、飯でも食ったらどうだ?休み休みやろうや…」
と言った。襖越しに聞こえるじいちゃんの声は重くて静かだった。しかし、父は反発するように、
「とおさん!オレたちはあとで食うから、とおさんたちだけで勝手に食っててけろォ!今はこいつの勉強中なんだから、邪魔すんでねー、この輪入道!」
と青筋たててじいちゃんに怒鳴りつけると、私の勉強机に飾ってあるキョンシーの人形を襖に投げつけてから、勉強机を平手で叩いて奇声を発した。


じいちゃんは、「このきちがいがッ」と捨て台詞を吐いて、階段をドカドカと降りていった。そして、そのまま玄関から外へ飛び出したらしく、玄関先から庭まで続く玉砂利を荒々しく踏み荒らしていた。
玉砂利のうるさい音が窓ガラスの向こうから私の部屋まで聞こえていたが、突如として烈しい雨が降ってきて、玉砂利の音はすぐに雨音に掻き消された。


          〜了〜



愚かな駄文を最後まで読んでいただき、
ありがとうございました。
大変感謝申し上げます。

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