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与えて終わり。それが、優しさかも知れない

そろそろ立場的に、人間について理解しないといけないフェーズになったので、『優しさ』にフォーカスして考えてみました。

今回は、fūun代表・『わしお』がお送りする、『優しさ』についての振り返りと少しの自戒についてです。

真ん中が、わしおです。

「よーし、今週からオフィス出社してバリバリ仕事するぞー!」と意気込んだ先週の月曜日。それはそれは見事に体調を崩しました。

社内ミーティング中に「なんか手が腫れてて突き指みたいな痛みがあるんだよね〜」と呑気に発したわたしに、メンバーが「溶連菌じゃない!?」との一言で、体温計をオンしたら綺麗に38.5度を記録しました。

急いで病院へ駆け込んだものの、上がり続ける熱。下がらない熱。
地獄のような一週間でした。

ウチの猫たちはいつも通りだった。

今週になってもまだ喉の腫れがひきませんが、溶連菌疑惑はなんとか抑え込めたようです。
病院でも、このまま経過が良ければ薬を飲みきって完治。とのお墨付きをもらい、生き延びました。

一週間サボってしまったので、note再始動します。

『優しさ』とはなんなのか?わたしの経験則と偏見に基づいて語っていきたいと思います。

幼少期にもらった『優しさ』

わたしは、幼少期(生まれてから4-5年)に、兄から多大な優しさをもらいました。
仕事ばかりしていた父の代わりに、3つしか離れていない兄が運動会の親子競技に参加してくれたり、買い物などで家を空ける母の代わりに手を繋いで一緒に留守番をしてくれたり。

かく言うわたしは、寂しがることがなかったので何も気にしていなかったようですが、そんな兄がいたおかげでいつも寂しさを感じずにいられたのかもしれません。

また、幼少期から比較的多くのお兄さんお姉さんや大人と関わる機会が多く、たくさんの人に可愛いと言われて育ったおかげで、この後の数十年の苦悩があってもある程度は人に優しくできる人間になったのだと思っています。

いわゆる反抗期が長期化した原因

さて、そんな幸せそうなわたしですが、非常に長い反抗期を迎えています。
どれくらい長いかというと、小学校4年生(9歳)からおよそ18年間くらいですね。つい最近まで反抗期だったということになります。

始まりは、学校の宿題を一切やらない、というものです。学校が大嫌いだったわたしは、幼少期に育った福岡から岡山に引っ越したのを起点に、学校に行きたいと思ったことが一度もないほど嫌いになりました。

土地柄、人柄が合わなかったんでしょう。
ここを発端として、学校の先生というのも全般嫌いになりました。

わたしは何でもかんでも兄と一緒にしたいという気持ちが昔からあったのですが、年を取るとともに兄との関係性も変わっていくのは当たり前なのにそれに耐えられなかったのでしょう。

自分の思いと反して男女の隔たりが大きくなっていくことや、それに伴ってできることやできないことが増えていくこと。
集中力が欠如していたわたしにとって、学校は勉強をしにいくところというのも大きな壁になったように思います。

小学校4年生で学校の先生に泣かれ、親に宿題をやっていないことがバレて怒られ、学校をサボっていたこともバレて怒られ、、悪循環に入り、大人になっても解決できないほどになりました。

それでも『優しくしてれる』人はたくさんいた

優しくしてくれる人というのは、たくさんいます。それを自分が受け入れるか否かです。

例えを挙げると、わたしの今の一番の友だちである女の子がいます。その子と出会ったのは高校2年生でした。2年生の頃は文理合同クラスで、文系と理系が半分ずついるという学年で唯一のクラスでした。合同クラスのため科目が分かれていて移動教室が非常に多いのですが、移動教室などはいつも一人でした。わたしは特に気にしていなかったのですが、それを気にかけてくれた女の子が頻繁に声をかけてくれていたんです。

対してわたしは「うん」とか「はぁ」とかしか返事をしなかったので、そのうち声をかけられなくなったのですが、大学もたまたま同じところに行くことになり、通学や休憩時間にいつも一緒にいて話しかけてくれました。半年くらい経ってやっとわたしは心を開いたのですが、それまでの期間ずっと一人で喋ってくれていたのです。

いつ考えても、これは相当な根気強さと優しさだと思います。わたしが受け取っていなかっただけで、常に優しさを提供してくれていたのです。

『優しさ』🟰『エゴ』??

わたしは、優しさはエゴになり得ると思っています。

上記で挙げた通り、優しさは自分が受け取るか否か、であるのであれば、自分が人に優しくするときも、相手が受け取るか否かは相手が決めるのです。

わたしの例はかなり特殊というか、本当に捻くれているというか、見る人によっては人としてどうなの?という感じだと思いますが、受け取ってくれるのが当然と思って与えていると「なんでこんなに優しくしているのに」「この人のためを思ってこんなにしてあげているのに」という思考が生まれ、与えたものが単にエゴになってしまう可能性があります。

本当の『優しさ』とは

これらの経験から、わたしは本当の優しさというのは、与えることを幸せだと感じ、見返りを求めずに与えることだと思っています。

優しさとして受け取ってくれることすら不要なのです。
与えて終わり。それが本当の優しさなのではないか。と今のわたしは考えて実践しています。

与えたものを素直に受け取って、感謝までされた日には嬉しさでいっぱいになります。

なので、わたしは与えるものも自分で制御しています。無理をしない。与えたいものだけを与えたい人にだけ。そうやって自分が与えすぎて苦しくならないようにしています。

自己犠牲の精神ではない

前職で働いていた会社で、部下の一人から「自己犠牲的だね」と言われたことがあります。

確かに、誰よりも長時間働いて、誰もが嫌がる立場にいたという自覚はあって、誰よりも頑張っていた自信もあります。だけど、自己犠牲を払っていると思ったことは一度もなく、自分にできることを限界までやって、それが少しでも誰かのためになっている実感で嬉しかっただけなのです。

とても綺麗事のように聞こえるかもしれませんが、自分のできる範囲のことを6割くらいの力でやっているだけだったので、わたしとしてはまだ4割サボっているくらいの気持ちでした。

他者から見て「自己犠牲的」と思えるほど頑張っているように見えたのはむしろラッキーだったかもしれません。

でも、あくまで自己犠牲の精神も不要だと思っています。自分が潰れるほどみんな頑張らなくていいし、たまたまわたしが潰れない人間だったので他の人より長い間頑張れただけの話です。

健康第一で無理をせず人に優しくいる

結構不健康な生活を送ってしまっているので、あまり人に言えないのですが、まずは健康第一です。自分が健康であってこそ人に与えられるものも増えると思います。
それから、無理しない程度に優しくいることです。「敵を作らない」というのが社会で生きていく上では大事だと思っているので、敵を作らない程度に優しくいられればいいと思います。

メンバーに『優しさ』は特に求めていませんが、人を気にかけたり、お互いを大事にするということは弊社の社風として大切にしています。それが結局『優しさ』ですよね。
弊社のメンバーはもう十分に優しいので、これからもこの雰囲気を大事に会社を運営していこうと思います。

最後に、こういう事してます。

最後に。fūunでは今こういう事しています。

ちょっとでも『!』となった方は、ぜひこちらも読んでいただけたら嬉しいです。

以上、『わしお』からお送りしました!


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