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本能寺の変1582 目次中 斎藤道三の下剋上 3光秀の青年時代 161~166 天正十年六月二日、明智光秀が織田信長を討った。その時、秀吉は備中高松で毛利と対峙、徳川家康は堺から京都へ向かっていた。甲斐の武田は消滅した。日本は戦国時代、世界は大航海時代。時は今。歴史の謎。その原因・動機を究明する。日本史、信長公記、斎藤道三、足利義昭、武田信玄、上杉謙信。『光秀記』

目次中 斎藤道三の下剋上 3光秀の青年時代 161~166 

161 1540年代 光秀の青年時代。
   織田信秀と今川義元の戦いが始まった。   
162 織田信秀が内裏に修理費四千貫を献上した。   「多聞院日記」
   鉄炮伝来。                    『鉄炮記』
163 朝倉孝景と織田信秀が頼純を支援した。
164 道三は、頼純に従属する姿勢を見せた。 
   道三の娘が頼純に嫁した。            「春日文書」165 信秀は、信長に那古野城を与えた。        『信長公記』
166 道三が、頼純を殺害した。            『信長公記』 


目次  1~317
目次大 1~317

目次大 斎藤道三の下剋上 152~176 
目次中 斎藤道三の下剋上 152~176
目次小 斎藤道三の下剋上 152~176


信長と、ともにあった十五年。
永禄十一年1568~天正十年1582。
光秀を知ることは、信長を知ることである。

          ⇒ 次回へつづく 

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