本能寺の変1582 第156話 16光秀の雌伏時代 2美濃と越前 天正十年六月二日、明智光秀が織田信長を討った。その時、秀吉は備中高松で毛利と対峙、徳川家康は堺から京都へ向かっていた。甲斐の武田は消滅した。日本は戦国時代、世界は大航海時代。時は今。歴史の謎。その原因・動機を究明する。『光秀記』
第156話 16光秀の雌伏時代 2美濃と越前
◎美濃は、斎藤道三の時代。
◎光秀の少年期~思春期の頃。
◎道三は、下剋上の道を突っ走った。
1530年代~1540年代。
力こそ、正義。
弱肉強食の時代。
正に、何でもアリの世界だった。
道三は、野望に燃えていた。
下剋上の道を突っ走る。
【参照】12光秀と斎藤道三 1光秀の少年時代 小
第79話
1530年代、光秀の少年時代~思春期。
長井長弘、死去。
長井新左衛門、死去。
ここで、長井新九郎規秀が表舞台に登場する。
道三の国盗りは、父子二代にわたるものだった。
父新左衛門が基盤をつくった。 「春日文書」
道三が完成させた。 「春日文書」
道三は、目的のためには、手段を選ばぬ男だった。 「春日文書」
◎天文三年1534、織田信長が生まれた。
尾張の戦国大名、織田信秀の嫡男として。
【参照】12光秀と斎藤道三 1光秀の少年時代 小
第80話
尾張では、織田信秀が勢力を拡大していた。 「言継卿記」
織田氏のルーツは、越前にあった。
尾張は、八郡。 『信長公記』
尾張の守護は、斯波義統。
上四郡は、岩倉織田氏。 『信長公記』
下四郡は、清洲織田氏。 『信長公記』
信長の織田弾正忠家は、清洲織田氏の家老だった。
信長は、下剋上の申し子。
信秀は、尾張随一の実力者に成り上がった。 『信長公記』
信長が生まれた。 「イエズス会日本年報」
◎光秀は、信長より十±四歳ぐらい年上である。
大永四年1524±四年 - 天文三年1534 = 十±四歳
【参照】11光秀の年齢 5結論 小
第77話
☆光秀の年齢は、五十九±四歳ぐらい。
◎この年齢差が、本能寺の変の一因になった。
そう、考える。
人間は、歳の多い順から、死んでいく。
光秀が、先。
信長は、後。
これが、自然の摂理。
是非に及ばず。
これについては、後述する。
◎土岐頼純の反撃が始まった。
天文四年1535のこと、という。
頼純、十二歳の時。
【参照】12光秀と斎藤道三 1光秀の少年時代 小
第81話 1/2
道三が主の長井氏を殺害した。 「春日文書」
道三の国盗りは、父新左衛門の代から始まった。『信長公記』
道三は、土岐頼芸を利用した。 『信長公記』
頼芸は、道三の野心に気づいていない。
光秀は、これらのことを知っている。
土岐頼純の反撃が始まった。
朝倉孝景が頼純に援軍を派した。
美濃は、内乱状態になった。
土岐頼芸と頼純が和睦した。
長井新九郎規秀(道三)は、斎藤新九郎利政に名を改めた。
「春日文書」
◎光秀は、まだ、頼純に仕えていない。
光秀は、頼純と同じ世代。
この時は、十二±四歳ぐらい。
これでは、まだ早い。
家臣としては、若すぎよう。
⇒ 次へつづく 第157話 16光秀の雌伏時代 2美濃と越前
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