本能寺の変1582 第157話 16光秀の雌伏時代 2美濃と越前 天正十年六月二日、明智光秀が織田信長を討った。その時、秀吉は備中高松で毛利と対峙、徳川家康は堺から京都へ向かっていた。甲斐の武田は消滅した。日本は戦国時代、世界は大航海時代。時は今。歴史の謎。その原因・動機を究明する。『光秀記』
第157話 16光秀の雌伏時代 2美濃と越前
土岐頼純が越前から美濃大桑城に入った。
反撃開始から、三年後。
天文七年1538のことらしい。
頼純、十五歳の時。
稲葉山の北方、三里半の地(凡そ14km)。
光秀は、この時、十五±四歳ぐらい。
まだ、少し早いような気がするが・・・・・。
【参照】12光秀と斎藤道三 1光秀の少年時代 小
第81話 2/2
頼芸は、六角定頼と手を結んだ。
六角氏は、定頼→義賢(承禎)→義治とつづく。
定頼は、浅井亮政と対立していた。
浅井氏は、亮政→久政→長政とつづく。
土岐頼純が越前から美濃大桑城に入った。
織田信秀が今川氏の那古野城を奪い取った。
斎藤利政(道三)は、左近大夫を名乗った。
実権は、斎藤左近大夫利政(道三)が握っていた。
◎天文十二年1543、鉄炮伝来。
それまで、誰も見たことのなかった新兵器。
これを境に、戦いの有様が劇的に変化する。
天正三年1575、長篠の合戦。
その、32年前の出来事。
【参照】目次小 12光秀と斎藤道三 3光秀の青年時代 小
第83話
1540年代、光秀の青年時代。
織田信秀と今川義元の戦いが始まった。
第一次小豆坂の合戦。 『信長公記』
織田方の勝利である。 『信長公記』
信長は、この戦いを忘れない。
徳川家康、生まれる。
織田信秀が内裏に修理費四千貫を献上した。 「多聞院日記」
信秀には、経済力があった。
鉄炮伝来。 『鉄炮記』
斯くして、日本と西欧が繋がった。
◎光秀は、土岐頼純の家臣だった。
この年、光秀は、二十±四歳ぐらい。
これならば、十分である。
おそらく、光秀は、この頼純に仕えたものと思う。
◎光秀にとって、越前は、馴染み深い国だった。
頼純にとって、越前は、母の生国、また、自身の故郷。
最も、頼りとする、きわめて、重要・大切な国であった。
光秀は、そのような頼純の家臣。
「美濃国住人、土岐の随分衆なり」
なのである。
【参照】9光秀という男 2立入宗継の証言 小 53 54
【参照】11光秀の年齢 3土岐の随分衆 小 72 73
正に、主家、危急存亡の秋(とき)。
光秀もまた、美濃・越前間の山中路を幾度も往還したことだろう。
以上の観点から、
光秀にとって、越前は、馴染みの深い国だったように思う。
このように考えれば、光秀と越前の関係がより明確化する。
如何だろうか。
⇒ 次へつづく 第158話 16光秀の雌伏時代 2美濃と越前
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