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本能寺の変1582 第54話 9光秀という男 2立入宗継の証言 天正十年六月二日、明智光秀が織田信長を討った。その時、秀吉は備中高松で毛利と対峙、徳川家康は堺から京都へ向かっていた。甲斐の武田は消滅した。日本は戦国時代、世界は大航海時代。時は今。歴史の謎。その原因・動機を究明する。『光秀記』

第54話 9光秀という男 2立入宗継の証言 

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立入宗継は、朝廷の御蔵職。

 宗継は、京都の商人、金融業者。
 大永八年1528生まれ~元和八年1622没。   
 代々、禁裏の御蔵職(おくらしき)をつとめた。
 米・銭・物品の保管・管理・出納等がその役目である。 
 
 永禄七年1564と同十年1567、御料所の回復と御所の修繕を
 依頼するため、正親町天皇の綸旨を、信長に届けている。
 このことが同十一年1568の、信長の上洛へと繋がった。
 
 また、山中の土豪磯貝久次は、宗継の舅にあたる。
 光秀の幕臣時代、久次は、その配下だった。
 「兼見卿記」にも、度々登場する。 

 宗継の菩提寺、清浄華院に、勤王を顕彰する石碑がある(上京区寺町通
 広小路上る)。

立入宗継は、光秀のことをよく知っていた。

 宗継は、商人である。
 情報に聡い。
 光秀との接点も、度々、あった。
 知らないわけがなかろう。

 永禄十二年(1569)四月。
 
光秀が京都奉行になったばかりの頃。

 光秀は、秀吉ら織田家の重臣と連署の上、山国庄の押領問題について、
 裁定を下した。
 以下は、その時の、書状である。
 宛先は、禁裏御蔵職立入宗継。

 おそらく、この頃が、最初の出会いになるのであろう。

  禁裏御料所山国庄の事、数年宇津右近大夫(頼重)押領仕り候を、
  今度信長糾明を遂げ、宇津に違乱を停止すべくの由申し付け、
  両御代官へ信長朱印を以って申し渡し候、
  前々の如く御直務として仰せ付けられるべきの由、御収納相違有る
  べからず候、
  宇津かたへも堅く申し遣わし候、
  此れらの旨御披露有るべく候、
  恐々謹言、
                     木下藤吉郎
      四月十六日             秀吉(花押)
                     丹羽五郎左衛門慰
                        長秀(花押)
                     中川八郎右衛門
                        重政(花押)
                     明智十兵衛慰
                        光秀(花押)
       立入左京亮(宗継)殿
                        (「立入宗継文書」)

 なお、これについては後述する。

光秀は、美濃の出身である。

 「美濃国住人、土岐の随分衆なり」、とある。
 
土岐氏は、美濃の守護。
 光秀の明智氏は、その家臣。
 すなわち、美濃在住の武士であった。

光秀は、美濃に親戚がいた。

 吉田兼見の日記から、そのことがわかる。
 兼見は、吉田神社の神主である。

 場面は、元亀三年1572、十二月十一日、京。

 この日、京都は大雪だった。
 七寸は、3×7≒21cmほど。 
 光秀は、美濃の親類のため兼見に祈祷を依頼した。
 この時の、光秀の所在は、よくわからない。
 築城中の坂本にいたのか。
 それとも、京。
 否、岐阜城の軍議に出ていたのかもしれない。

  十一日、雪降る、七寸計り、
  明智十兵衛尉、折帋を以て申し来たり、
  云く、
  濃州より、親類の方、申し上げるなり、
  山王の敷地に、新城(坂本城)を普請せしむなり、
  其れ以来、不快なり、
  今度、別して祈念の儀憑み入るの由、申し来たるなり、
  鎮札・地鎮、調え遣はすべきの由、返事しおわんぬ、
                          (「兼見卿記」)


 「濃州より親類」とは、一体誰なのだろうか。
 光秀の父方・母方・兄弟の縁者なのだろうか。
 それとも、光秀の妻方の関係者か。
 いずれにしても、美濃に在住の縁者である。
 それも、光秀に祈祷を依頼できる間柄。
 となれば、関係は濃い。

 また、「山王の敷地」とは坂本のこと。
 「新城を普請」とは、築城中の坂本城をさすものと思われる。


 ⇒ 次へつづく 第55話 9光秀という男 3土岐氏 


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