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#自分
私達は気づかないでやっている事があります
よくあるのが、丸くおさめる為にやっている事
丸くおさまるんだったら良いんじゃない?
そう思う人もいると思う
でもその為に
自分を犠牲にしていませんか?
周りの機嫌をとる事ばかり考えていませんか?
自分の機嫌をとる事がそれよりも大切
最もむごい虐待は、過保護・過干渉かも知れない
我が子に暴力を振るう親もいます。
子供を一個の人間と認めず、人格を尊重することが無いから、暴力を振るいます。
周囲から見ても、はっきりとわかり易く現れるのが、この肉体的な虐待です。
虐待という言葉を知らない人は、今の世の中には、ほとんど居ない訳で、人前で子供をぶったりする親は、昔に比べると随分少なくなっていると思います。
虐待は、少なくなったのでしょうか?
虐待が少なくなったのでは無く、
情緒未成熟な親は、思い通りになる人形が欲しい
肉体的な虐待にせよ、心理的な虐待にせよ、
幼少期に虐待を受けた人は、自分であること、を取り上げられた人です。
その子に虐待をした親もまた、幼少期に「自分であるな」と、嫌という程、擦り込まれた人、なのです。
「自分であるな」とは、自分の感情を持つな、ということです。
親の望む様に感じ、親の望む様に考え、親の望む様に生きる子供は、
情緒未成熟な親にとっては、この上なく都合の良い存在です。
この人から、どう思われているだろう?
他人から、どう思われているのかが全く気にならない人は、そうそういないと思います。
社会生活を営むということは、他者と関わり合う、ということですので、
他人の目を100%意識から排除するには、人里離れた山奥に籠もるか、無人島に渡るか、でもない限り不可能でしょう。
道を歩けば、他人とぶつからない様に歩きますし、
ドアに鍵を掛けて、自分の部屋に引き籠もる生活をしていても、
ドアの外の家族の気配を
優れた子で在りなさい、でも私より劣った子で在りなさい
子供に起きた良き事を、親が我が身に起きた事の様に喜ぶ、
親子の情愛が織りなす景色の中でも、特に尊い情景なのではないか、と思うのです。
我が事の様に喜ぶ事が出来るには、親が子供を一個の独立した人、として感じていることが必要です。
親が子供という存在を「尊重」している、という素地が出来上がっていないと、
「我が事の様に」喜ぶ、では無く、「我が事を」喜ぶになってしまいます。
どういう場合か、と