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変わってゆく「わたし」と、変わらない「わたし」

ぼくらは常に「わたし」からしか世界を観ることができない。

「わたし」という視座。

で、「わたし」は変わっていないと錯覚して生きている。

わたしがどう感じるか

わたしが世界をどのように捉えているか

どういうフィルターで世界を観るかは、選ぶことができる。

それについては小林正観さんや、武田双雲さんや、新田祐士さんなど多くの人が語っている。

この「わたし」という視座のフィルターは自分で選ぶことができる。


実はこの「わたし」

そもそもカラダの影響をもろに受けている。

脳が壊れれば、人格としての「わたし」は別人レベルで変わってしまうでしょ。

本人がそれをどこまで認識できているのかは分からない。


小便を我慢していればイライラしてくる。

肝臓の気の通りが悪くなれば怒りっぽくなる。

腰椎3番の弾力が失われれば決断できなくなる。

手首が硬い人は人の話を受け入れることができなくなる。

酷いかゆみを伴う皮膚病になればこころ静かに、穏やかにって

難易度がすごく高いゲームになる。

後頭骨の左側が落ちていれば

頭の中の空想は劣等感や自己否定に働く。

落ちているのが右側なら

頭の中はサディスティックな方向へ連想が広がる。

腎臓に気が通らなくなれば陰気になる。


自覚はなくとも

「わたし」という視座の感受性は知らず知らずのうちに

カラダの影響を受けている。

知らず知らずに、変わっている「わたし」の感受性。



90代のおじいさんが野口晴哉先生に言った。

「先生だけはわたしを年寄り扱いしないで欲しい。

周りはもう死んでも大往生とか言うけど

やっぱりわたしは死にたくないんです。

きれいな女性がそばにいると嬉しいし、

わたし自身は20代のころと何も変わっていないんです。

だから先生だけはわたしを年寄り扱いしないで欲しい。」


カラダは意識が入っている空の箱だからね。

語源である空霊(からだま)。

意識は時間の経過の影響を受けない。

臨死体験したり、幽体離脱した人が

外から自分のカラダを眺めていたと語ることが

意識が死の影響を受けてなくて、カラダに所属しているものではないことを示唆してる。

このおじいさんは変わらぬ意識体である「わたし」を

先生に感じ、見ていて欲しかったわけ。

もちろん老いてくれば

性エネルギーは動かなくなるし

感受性は変ってくるのだけど

世界を観察している意識そのものは変わらない。


世界には幸も不幸もない

「わたし」がどう色付けしているかだけ。

自分で選べるフィルター、世界の捉え方

カラダの影響を受けている感受性

意識本体そのものは不変。

死ねば意識はカラダを出ていく。


ぼくらが「わたし」に自分で働きかけられるのは

感受性が歪まないように

居心地の良いカラダであるってこと

つまりホメオスタシスが発動できる整体でいるってこと。


現実創造をしやすくなる

楽しいフィルター

感謝フィルターで

世界をみるってこと。


「わたし」に出来ること

大切なことはその2つだけなような気がする。








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