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ハードボイルド書店員日記【184】

ハードボイルド書店員日記【184】

「すいません、抜けます」

GWの真っ只中。通常よりもやや大きいハヤカワ文庫のカバーを折っていられたのは開店から20分までだった。

「絵本を3か所に配送したい」という小柄な老婦人が来た。送料がどれだけかかっても構わない、孫に贈りたいとのこと。遅番が出勤する13時半までは3人しかいない。店長が伝票の作成や梱包のためにカウンターから離れ、残りはふたり。電話がずっと鳴り続けている。

そしていま、客注

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私小説「ハードボイルド書店員の独り言」

雨上がりの朝七時。誰もいない路地を歩く。

タバコの残り香が鼻孔を掠める。湿ったアスファルトに自転車が踏みつぶした吸い殻。舌打ちはいつしか堪える方に過半数を譲った。

今日は昨日よりも混むだろう。

連日前年比を超えている。外国人観光客のおかげだ。彼ら彼女らが買うのは帆布を使った鞄。北斎や写楽や鹿苑寺のポストカード、そして文房具各種と期間限定で並べている動物のぬいぐるみだ。イングリッシュブック? 

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ハードボイルド書店員日記【183】

ハードボイルド書店員日記【183】

「求人情報誌は置いてますか?」

学習参考書を品出ししていた平日の午後。棚はすでにパンパンだ。下の収納スペースも氾濫寸前。売れる時期なのはわかる。だが取次が毎週補充してくれるのにここまでストックを持つ必要があるのか。返品が増えるばかりで環境にも悪い。嫌な世界だ。

小柄な女性に声を掛けられた。白いプルオーバーパーカーに黒縁メガネ。同年代かもしれない。

「昔はいくつかありましたが、現在はほぼフリー

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ハードボイルド書店員日記【182】

ハードボイルド書店員日記【182】

「月末に○○書店がオープンするね」

週刊誌を買いに来た常連の老紳士がレジで呟く。

春休みが終わって落ち着いた平日。尤も数週間後にはゴールデンウィークがやってくる。「お客さんは、自分が休んでいる時に周りが動いていることを当然と考える」メンターが年明けの朝礼で話した言葉を噛み締めた。

「知りませんでした。教えていただいてありがとうございます。すぐ近くですか?」
「高速道路を挟んだ反対側だね。△△

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ハードボイルド書店員日記【181】

ハードボイルド書店員日記【181】

「『あさいち』売れてますか?」

日曜の午前中。嵐の前の静けさを感じつつカバーを折る。3月下旬から4月上旬は書店が最も混む時期のひとつだ。

カウンター脇のPCで何やらチェックしている児童書担当に問い掛けた。彼女は昼過ぎまでのシフトで働くパートである。

「いや動いてないね。何でだろう? 私の置き方が悪いのかな」
「そんなことはないと思いますけど」
考え込んでいる。

「『あさいち』って福音館が復

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ハードボイルド書店員日記【180】

ハードボイルド書店員日記【180】

「国に何かしてもらおうとは思わないよ」

書店以外にも苦しい業界はあるからねえ。メンターは同意を求めるように視線を合わせ、口元から金歯を覗かせた。

11坪の町の本屋。かつて指導してくれた人がひとりで支えている。いまでも店長としか呼べない。心の中では永遠にメンターだ。

「SNSの活用とカフェの併設、読書イベントっていうのが経済産業省の掲げる解決策として最初に来ることに疑問を感じませんか?」
「仕

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ハードボイルド書店員日記【179】

ハードボイルド書店員日記【179】

「使えますか?」

平日も賑わう春休みの午後。鼻の奥と眼球がムズムズする。カウンターを出て文庫エリアの前を通り過ぎる際、中学生ぐらいの小柄な男性に声を掛けられた。赤いリュックを背負っている。自治体から配布されたであろう「図書カードNEXT ネットギフト」の大きな紙を差し出された。

「ご利用いただけます」
「この部分だけでも?」
四隅に印刷されたQRコードを指で差す。
「はい。ただレジの機械がなか

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ハードボイルド書店員日記【178】

ハードボイルド書店員日記【178】

「オカダの本、ある?」

静かな平日の午前中。レジにふたりは要らない。抜けて品出しを続ける。隙間時間を見つけてやらねば終わらない。明日は明日の荷物が来るのだ。昼休みを削り、店長を困惑させるのは気が引ける。そこまでする義理もない。

新刊と売れた分の補充だけならどうにかなる。問題はそれ以外だ。本部が注文し、大人の事情でしばらく返せぬ謎の17号ダンボール8箱。仕入れ室に置き場所はなく、棚下のストックも

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ハードボイルド書店員日記【177】

ハードボイルド書店員日記【177】

「俺もひとつ訊いていいすか?」

春の襟足が目立ってきた週末の昼。外国人に「イングリッシュブック?」と訊かれ「ノー」と返す。渋い顔をされた。気持ちはわかる。少し前に店長へ提言した。答えは「これ以上荷物を増やしても人員が」だった。私がやると伝えたが、仕入れと返品も大変だしと返された。

先日訪れた某観光地のお店は、村上春樹の洋書フェアを開催していた。ワンフロアで同じくらいの広さだ。いろいろ面倒なのは

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ハードボイルド書店員日記【176】

ハードボイルド書店員日記【176】

「ピーターラビットの500円を5枚、1000円を3枚。1枚ずつ包装ね」

図書カードがやけに売れる月末の昼。今度はサングラスをかけた常連の老紳士だ。レジを打とうとしたら「あと1500円を7枚」と言われた。
「1500円のものはございませんが」
「知ってる。だから1000円と500円を1枚ずつで7組」
ならば「1000円を10枚、500円を12枚」と伝えてくれる方が助かる。組み合わせは包む段階で教え

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ハードボイルド書店員日記【175】

ハードボイルド書店員日記【175】

出勤の日に寒気が戻る

「いらっしゃいませ」
「ちょっと面倒なこと訊いていいかしら?」
「どうぞ」
「太宰治を大好きな女の子に小説以外でオススメの本、何かある?」
「ございます」
「え、本当に? 小説じゃないのよ。漫画とかも駄目よ」

「とか」がどこまで含むのか気になる

「こちらなどいかがでしょうか」
「『まさかジープで来るとは』って何? エッセイ?」
「せきしろさんと又吉直樹さんによる自由律俳

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ハードボイルド書店員日記【174】

ハードボイルド書店員日記【174】

「これはおかしいでしょ」

4月並みに気温が上がった休日。昔の職場へ足を運ぶ。某スーパーマーケットの2F。児童書コーナーの脇から入った。

「こどものとも」などの福音館書店の月刊誌が面陳されている。本来は定期購読のみで返品できない商品だ。版元の了承を得たのだろう。現物が1冊も店にないものをいきなり年間予約というのは敷居が高い。

黒いスニーカーの先端が、日本史及び世界史のエリアへ向く。己が担当し、

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ハードボイルド書店員日記【173】

ハードボイルド書店員日記【173】

書店の1日は荷開けから始まる。

雑誌と新刊、そして補充分。雑誌は付録を付けて棚に出す(コロコロコミックやゼクシィみたいに大量に入るものは、積める分だけ開ける。残りは仕入れ室にストック)。書籍は新刊と補充分を分け、ジャンルごとに長机の上へ置く。置けなくなったら各担当が使うブックトラックへ移す。

すべての書店が同じ方式で動いているわけではない。都内の大型店だと雑誌と新刊は前日の午後に入る(雑誌とム

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ハードボイルド書店員日記【172】

ハードボイルド書店員日記【172】

「ない? ああそう」

閑散期の平日。しかし荷物は多い。先月ひとり辞めたから尚更そう感じる。混み具合に留意しつつレジを抜け、品出しを急ぐ。昼休憩を半分削るという切り札が脳裏を掠めた。だがよくよく考えたらそんなカードは配られていない。あったとしても私には見えない。少なくとも最低賃金でサービス早出を繰り返す非正規書店員の手元には。

「取り寄せもできないの?」「すんません」「そこは『申し訳ございません

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