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<六ヶ国語を操る華僑のゲイ>、だけでは収まりきれない「何か」がある


<SPIEGEL>入り口(2022)








その男とは1年前にここスマランで知り合った




わたしが週末にひとりでよく通う、歴史地区のBAR&BISTROの<SPIEGEL>でのカウンターでのことだ

1895年にこの場所で開店したオランダ・コロニアル調の、巨大な円形の店内

石造りのどこか、古い図書館を思わせる中央カウンターで、本を読みながらビンタン・ビールを飲んでいると、いくつかスツールを空けた左隣から、その男に、こう話しかけられた


”すいません。そのQRコードのメニューをこちらに頂戴したいのですが?”


それは綺麗な英語で、わたしは目の前にあったそのメニューをとり、手を伸ばし、男に手渡しながら簡単に小声でこう応じた

 ”enjoy!"(どうぞ、と)

するとその男は一瞬驚いたような顔をし、つぎに微笑みながら日本語で

”じゃあ、こっちのほうがいいですよね。ありがとうございます”

こいつ。この中華系の男——
わたしの目が鋭くなった
こいつまさか、今の一言だけでわたしの日本語訛りの英語を見破ったというのか
たったひとつの英単語で

もちろん、英語の発音が正しくないというのは自分でわかりきっているが、わたしのことを韓国人でも中国人でもなく、即座に日本人だと断定してきたことに驚いたのだ

何者だ、この男

数秒、その男の横顔を見つめていたが、男はスマートフォンでQRコードを読み取りメニューをスワイプし始めた

その夜はそれっきりでそれ以上言葉を交わすことはなく、わたしは読書の世界に戻っていき、顔を上げるとその男はいつの間にか姿を消していた




SPIEGEL中央カウンター(2022)



それから度々、金曜日の夜の同じ店でその男を見かけるようになった


大抵の場合、その男は連れの恋人と思しき女性と2人で来ていて、わたしと目が合うと”ああ、あのときの”という感じでお互いに軽く目礼を交わすだけだったが、ある晩、その男は一人でカウンター席に座りカクテルを飲んでいた


KOTA LAMAの金曜日の雨の夜



雨季のど真ん中の、激しい雨が降る夜だった

ちょうど雨脚が強まり、雨宿りを兼ねて通りの人々が次々と店内に流れ込んできて喧騒に満ち、空席はその男の隣のカウンターしか空いていなかった
 その席にわたしがつくと、ほとんど間を置かずにその男がこう話しかけてきた
それは綺麗な日本語だった

”ここスマランで、あなたのような日本人を見かけることはとても珍しいです。しかもここ<SPIEGEL>で。
ジャカルタでは大勢の日本人を見かけますが・・・いや、それをいうなら日本人は世界中にいるか・・・”

文法的にも発音的にもほとんど完璧な日本語だった
訊けば住まいはジャカルタで、しかも多くの華僑たちが支配するジャカルタ北西の人工島を含む湾岸地区ー<PIKエリア>

なぜ、「支配する」と書くのかは文字通りの意味で、この国では政治的にも経済的にも華僑の隠然たる力で動いていると広く伝えられている

その<PIKエリア>には昔、大陸から高名な占い師がやって来て
そこを”龍珠”-つまり”ドラゴンボール”と名づけ、華僑たちが群がった

なぜならばそこは、風水で成功が約束された<運命の土地>”The Land of Destiny”だからだ

莫大な資本と投資力、世界中に広がるネットワーク、子孫に与える高水準の教育環境で次世代のエリート戦士たちを育て上げ、その<PIKエリア>から世界中の経済に睨みを効かせ、影響を与え続けているという


このとき訊いた話では、この男はわたしとこの店で会った当時は、仕事の為に一か月ほどスマランに滞在していたらしい

古い町並みが続く、KOTA LAMA歴史地区のメイン通り
迷路のような路地にはアンティークショップや自家焙煎のコーヒーショップ、現代美術館などが並ぶ(2022)


いくらかの打ち解けたやりとりの後で、その男になぜわたしのことが日本人だと即座に断定できたのかを訊いてみた

”簡単です。”enjoy”を日本人は”e"で発音しますが、本当は”i”なのです。
”injoy"。あるいはその中間。
少なくともわたしがイギリスで学んだ限りは。日本人は不思議と・・・おそらくはいわゆる和製英語の発音なのでしょうが、そうした傾向があります。そしてわたしは「言語」に強い興味があるのです”

言語に興味が?
それはどういうことなのだろう

その後に男が語った内容は衝撃的だった
しかもその衝撃は二重の衝撃だった

男は幼い頃からいわゆる耳がよく、何の抵抗もなく次々と外国語を覚えていったらしい
環境も良かった
それはもちろんインターナショナルスクールで、多国籍の友達に多く恵まれ、その中で同級生たちが話す母国語を、長い時間をかけて内部で熟成することができたからだ

この男が自在に操れる言語は

中国語(普通語)、広東語(香港)、インドネシア語、英語、日本語、韓国語

しかもそのほとんどをビジネスレベルまで叩きあげているらしい
三か国語を操れる人を指して、「トリリンガル」といったはずだが、六か国語となると何というのだろう(マルチリンガル)

もうひとつの衝撃は男の年齢が若干27歳だということ
そして仕事はもちろん、スタートアップ企業

男が流暢な日本語を話せるということもあり、こちらも思いっきり、そして遠慮なく日本語で話せるので、その夜は遅くまで話し込んだ

SPIEGEL中央カウンター(2022)



その夜以降、かなり不定期ではあるが、WAを使って「交換教授」をすることになった
オンライン上でわたしが男に請われるがまま日本語の効果的な言い方と発音を教え、男がわたしにインドネシア語と英語の、やはりすぐに使える即効性の高い言い回しを教えてくれるようになったのだ


この男に対しては尽きない興味があった
男には<六ヶ国語を操る、華僑のゲイ>では収まりきれない「何か」が間違いなくあった

あの夜、カウンターで飲んでいるときに訊いてみた

”今夜は恋人は一緒じゃないの?”

男は小さく”あぁ・・・”と呟き、さらりと続けた

”彼女はスマランの事務所に勤めるわたしの部下です。わたしの恋人ではありません。わたしはゲイです”

これにも驚かされた
別にゲイという少数の性的志向者に驚いたのではない。世界的にLGBTの開放の流れは認識していたが、以前として中華圏では保守的で、ときに厳しい差別があるという話を知識として持っていたからだ

そのことを指摘すると、男はこう返した

”確かに大陸の方ではまだまだ保守層に受け入れられていません。まだ時間がかかるでしょう。しかしわたしはジャカルタ生まれのジャカルタ育ちです。周りにもゲイはいます。そして両親のルーツはマレーシアにあります”




SPIEGEL中央カウンター(2022)


それから男は、わたしがジャカルタ旅行をスケッチする際には、いつもWAで的確な情報を与えてくれた

<日本人がひとりで近づいてはならないエリア>
<昼間でも近づいてはならないエリア>
<夜間は特に近づいてはならないエリア>
<泊まるべきデザイナーズホテル>
<行くべきカフェ>
<行くべきレストラン>
<撮るべき夜景>

”近づいてはならないエリア”は、男いわく、”命の危険があるエリア”と示唆し、それはいささか大げさかなと思っていると、男は具体的なエリア名と通りの名を告げ、かつてそこで何が起こったのかの詳細を教えてくれた

それは妙にリアルで生々しいエピソードだったが、それもそのはずで、男の実兄がそこでジャカルタの麻薬戦争に巻き込まれ、銃弾を受け絶命したことに拠るらしい・・・

偶然知り合い話すようになったこの男
一筋縄ではいかない人生を送っていそうだ

この男に対する尽きない興味とは、おそらくこう言い換えてよい

”若干27歳で、わたしの何倍も濃い人生を送っているに違いない”


KOTA LAMA歴史地区、金曜日の夜(2022)


その男ー友人が今週は再びビジネスでスマランにやって来て、連絡をもらい
明日は祝日で休みでもあるので、今夜は<SPIEGEL>で待ち合わせることに


実に一年ぶりに会うことになる

テーブルではなくやはりカウンターに陣取り、ビンタン・ビールで乾杯


ムール貝のナポリ風/フレンチフライ/エスカルゴとバゲット/苺
赤ワインはナパのジンファンデルのボトルをシェア、食後のエスプレッソ


ムール貝はどこの国で食べても美味しい


お互いの仕事とインドネシアでの生活、ジャカルタとPIKエリア、危険地帯、イスラム系のテロ組織と中華系のマフィア、交換教授についての様々な話を聴かせてくれ、久しぶりの会食も興味深く終わり、食後にトイレに立ち席に戻り店員に会計を頼むとー

わたしが席を立った隙に、男が済ませてしまったらしい・・・

この<手口>は、先月の帰国時に母の古希のお祝いで、その母にやられた
<手口>そのものだ

このわたしを出し抜いて一杯喰わせるとは、こいつもなかなかやる
いや、今後はもう少しわたしが気をつけなければならない
最近はこの手にひっかかってばかりだ

ひとまわり以上も年下の相手に払わせるわけにもいかず、支払いを強く申し出たが、男はなんでもないといった様子で首を振りこう締めくくった

”今夜はありがとうございました。次回こそはぜひ、ジャカルタで会いましょう。来られる際は連絡をください。PIKエリアのチャイナ・タウンの面白い場所をご案内しますよ”

<PIKエリア>か

たぶん、そのうち行くことになるのだろう
そこでお返しすればいい

そして、この男・・・何か・・・小説の主人公のモデルとして使えるのかもしれない

いやいや、その前にジャカルタの<PIKエリア>で会い、この続編に繋げてみるのが自然な流れなのか

END





続編:1





続編:2






続編:3






続編:4





続編:5





続編:6




続編:7〈完結編〉





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