〈六か国語を操る華僑のゲイ〉と、〈黒いノースリーヴの”D”〉
INDONESIA
連作:1
〈六か国語を操る華僑のゲイ〉と、〈黒いノースリーヴの”D”〉
NORTH JAKARTA
北ジャカルタ/スカルノ・ハッタ国際空港/ ”CHINA BRIDGE”
1
15:00
Jakartaのスカルノ・ハッタ国際空港の国内線到着ロビーを進み、ターンテーブルで二泊三日の衣類を詰め込んだスーツケースをピックアップして、そのまま出口ゲートへ直線に進み、BLUE BIRD TAXIの乗り場を目指す
わたしの前にタクシーの客引きがさっと現れて、タクシーのドアを開けてくれる。素早く乗り込み、運転手に行先を告げる
”PIKエリア”へ——
”PIKエリア”
Pantai Indah Kapuk
インドネシア語で”美しい海岸の椰子の木”を意味する、ジャカルタ湾を臨む北西に位置するこのエリアは、この国に住む華僑たちが”支配する”街でもある
この国の政治と経済の中枢を、その隠然とした力で”支配している”と広く伝えられている華僑たち——
遥か以前に大陸からやってきた高名な占い師が、”PIKエリア”を
”龍珠”——つまり、”ドラゴン・ボール”と名付け、華僑たちがこのエリアに群がった
なぜならばそこは、風水で成功が約束された土地だからだ
”龍珠”
爆発的に人口の流入が増えつつあったこの”PIKエリア”
当時の華僑の長老たちの決断はおそらく素早かったに違いない
ひとが集まれば資本が集まりだす
資本が集まりだせば必要になるのは飲食店と住宅地
腹が満ちれば、眠る場所が必要になる
家族が形成されると次に教育施設、その次に家族で休暇を楽しむための様々
なアクティヴィティを備えた娯楽施設
そしてさらに海外からの資本をかき集めるために急ピッチで湿地帯を埋め立てて造られたのが
ジャカルタ湾を利用した広大なビーチ・リゾート・エリア
——”Ancol”
そして”PIKエリア”の中心地に鎮座するのが巨大な中華寺院
赤と金のどギツすぎる色の組み合わせ
華僑たちの新年の挨拶
恭喜發財——”お金が儲かりますように”
人が流れ、街が蠢く・・・
この国の華僑たちは鋭く先を見越し、ジャカルタ湾に「人口島」の建設を始め、それを含めたジャカルタ北西の湾岸地区一帯が次第に有象無象の人々の間で”PIKエリア”と呼ばれ始めたのだ
しかしたとえ華僑たちでも、人工島の立案と建設にはインドネシア政府の、それも中枢の認可が必要だったはずだ
それは国の在り方を左右するほどの壮大な「計画」だったに違いないからだ
なぜならここはインドネシアの「首都」なのだから
”世界屈指のメガ・シティー”なのだから
”東南アジアの喧騒の中心地”なのだから
そして先だってジャカルタは”世界最悪の大気汚染の都市”の称号も得ている
大統領選にも強い影響力を持つといわれる”PIKエリア”の華僑の力
しかし政府の認可だけでは「人工島」は完成しないはずだ
それには気が遠くなるほどの莫大な資本が必要とされるに違いない
かれらはその巨額の資金を、いったいどのようにして生み出したのだろう
噂は尽きない
大陸や香港から流れ込んできたブラック・マネーや、若い移民たちが結成した新興の犯罪組織が社会の裏側で流れる汚れた熱い金を莫大な投資として注ぎ込んだとか、最新型のディジタル機器を使いこなす若い犯罪集団がネットワークを利用した詐欺行為で世界中から金を盗み出したとか・・・
いずれにせよ、強烈な光を放ち続けるこのエリアには、都市伝説では収まり切れない、対照的で等量の質量を持つ漆黒の闇が広がっているに違いない
しばらく前に、土曜日の午前中にインドネシア語を教えてくれる若い先生に訊いてみた
——”近々、”PIKエリア"に住む華僑の友人に会いに行ってくるよ。
実際のところ、”PIK”とはどういうエリアなのだろう”
現在30歳で、国立大学で日本語を教えている先生は、20代の若い頃にジャカルタの日本資本の居酒屋でマネージャーとして奮闘していたと聞いていたのだ
店舗は中央ジャカルタと”PIKエリア”
日によってはその二つの店舗を掛け持ち、生きた日本語を学びながら二店舗のマネジメントをしていたのだ
先生はいった——
——”世界中から観光客が押し寄せてきているエリアです。特に”PIK2”には世界中の飲食店が集い、今まさに飲食店の大戦争が——
わたしは慌てて先生の話を遮りこういった
——”そんなことは知っている。実際のところ治安状況はどうなのだろうか”
先生の目が一瞬鋭く光って、こう続けた
——”観光客が観光エリアに行くぶんには何の問題もないでしょう。英語も十分に通じるので、さわまつさんが行っても大丈夫でしょうし、華僑の友人がいるのならばなおさらです。
しかし、例えばですが・・・これはわたしも知人から聞いた話です。確証はありません。いいですね?”
わたしは頷くと、先生はアイスティーを一口飲んでこう続けた
——”たとえば何かビジネス・・・そうですね、さわまつさんが日本料理屋を開店させようとするオーナーであったとしたら、いささか問題が生じます。
チャイナ・ギャングとどうしても関りが生じてくるのです。”
——”チャイナ・マフィアじゃなくて?”
先生は首を横に振った
——”どういう呼び方をしようが性質は本質的には同じです”
——要するに、用心棒代、つまりみかじめ料みたいなもの?
——”みかじめ料”の意味がよくわかりませんが、さわまつさんがいわんとしていることはよく理解できます。
まぁ、そのようなものでしょうね
しかし何がどうあれ、犯罪組織と関係ができてしまうのが問題です
”PIKエリア”は世界中の禁制品が集まるエリアでもあります。麻薬や銃器はもちろん、盗難品でもある美術品、象牙などのワシントン条約で禁じられている珍奇な動物や剥製品、陶器などの古美術品などあらゆる全てが手に入るといわれています”
しかしそうであれば、おそらくは東南アジアの大都市全てがそうなのではないか。かつて暮らしたヴェトナムのホーチミンもおそらくは同じ性質を有していたはずだ。それを暗い側面と言い換えてよい。先生にそう指摘すると、先生はそれを認めたうえでこう付け加えた
——さわまつさん”RED MARKET”って言葉の意味をご存じですか”
知らない
先生は授業用のノートに恐ろしい漢字を現出させた——”臓器売買”
——”この国の・・・それがイスラム系であれ中華系であれ、ギャングの怒りを買うと、死体は永久に見つかりません。
山に埋められたり、海に沈められるのではなく、内臓を全て引き抜かれRED MARKETで捌かれると言われています
ジャカルタは残念ながらその一大市場やその世界の中心地と呼ばれています
世界的にみてもこのような異質で異様な首都はないでしょう
髪の毛はもちろん、センチメートル単位で皮膚にまで値段がつくのです
彼らは怜悧であるのと同時に合理的でもあります
金に換えることができるあらゆる全ては——死体をも無駄にしません。全てを金に換えてしまうのです
あらゆる全てを
この国の年間の行方不明者の数などは、実際に警察も正確に打ち出せていません”
一瞬、”PIKエリア”に行くのは止めておこうかと青ざめた瞬間、先生は軽快にこう締めくくった
——”怖いですねー。怖いから早速今日の授業をはじめましょうねー”
——PIK area, North Jakarta——
タクシーは黄昏時の海岸線を走り、目の前にLinggi Bridge
通称、”CHINA BRIDGE”が見えてきた
橋の向こうに、別世界ともいえる巨大な”PIKエリア”の輪郭が浮かび上がる
この人工島には、高級住宅地、商業地帯、中華街、湾岸地区、そして家庭教師の先生を借りれば、”世界中の飲食店の大戦争”が起きている新興のニュータウン、”PIK2”が控えている
”CHINA BRIDGE”
この橋が”世界最悪の渋滞”を引き起こすらしい
主に中央ジャカルタからPIKに車で向かうひとの波と、その逆の波がこの橋付近で激しく交差し、身動きが取れなくなるのだ
交通を「生き物」だとすると、ここで生じた動脈の詰まりはまず中央ジャカルタを麻痺させ、そこから発生する東西南北の血管までをも詰まらせ”世界最悪の渋滞”を引き起こすのだ
ジャカルタにはそれを解消するための「奇数・偶数制度」(ナンバープレートの奇数・偶数によって交互に進むことが許可される制度)と
「3 IN 1」(1台に三人以上乗車している場合のみ通行が許可される)が導入されているが、もちろん付け焼刃で何の機能もしていない
その法律が施行されると即座に闇市場に偽造ナンバープレートが溢れかえり、小さな赤子を抱えた”ジャッキー”と呼ばれる老若男女が道端に立ち並び、運転手と「交渉」を始めたのだ
それが小さな赤子であれ、もちろん「3 IN 1」の人数としてカウントされるからだ
PIK AREA
NORTH JAKARTA
”CHINA BRIDGE”
2
16:00
TAXIがCHINA BRIDGEを渡り始めたときに、わたしのバッグの中のスマートフォンが振動しはじめた
WAの着信。発信者の名前——”Jean”
〈六か国語を操る華僑のゲイ〉の友人の名だ
もちろん本名ではない。しかしだからといって、偽名や仮名でもない
英語名だ
人口二億七千万を抱え、多民族国家であるここインドネシアでは一部の華僑たちは好んで英語名を持つ
それは独特の高低の響きをもつ中国語は、アルファベットを多用する外国人には発音が難しいからともいわれているし、やはり多民族国家でもあるこの国ではより円滑にコミュニケーションを取りやすくするために必要だともいわれているが、真相はわからない
——”Jean?
なんだかフランス人みたいな名前じゃないか”
と、この友人を揶揄したことがあるが、Jeanはそんなことはもう言われ慣れています、とでもいうように苦笑しながらこう返した
——”中華名の本名に”ジャン”が入るのです。だから、Jeanなのですよ”
このJeanとはわたしが住んでいるSemarangで知り合った
当時も今もよく通う歴史地区のダイニングレストラン〈SPIEGEL〉でだ
小さなきっかけで短く会話をするようになり、ある雨の晩、店が込み合う週末のカウンター席で数時間まとまった会話をし、親しくなったのだ
その夜別れた後で、Jeanは住まいのある”PIKエリア”に戻っても、ごく稀にオンラインで日本語の語彙や発音、効果的な言い回しを尋ねてきて
わたしが教え、逆にわたしもごく稀に英語やインドネシア語の即効性の高い言い回しを尋ねるようになったのだ
電話の向こうで、Jean Mespledeはいった——
——”15:30に空港を出たのでしたら、今頃はCHINA BRIDGEを渡っているのでしょうか”
27歳のマルチリンガルの男は鋭い
もっとも後で訊いたことによると、それはかれに限ったことではなく、ジャカルタに住む機知に富む主にビジネスマンは、時間帯と場所によってはかなり正確に移動時間を読むことができるらしい
それは必要に迫られたジャカルタの”世界最悪の渋滞”を回避させるサバイバル術でもあり、ご多聞に漏れずJeanも新興企業の若い幹部でもあった
Jeanは続けた——
——”ぼくもこれから家を出るところです。20分後にホテルのロビーで待ち合わせましょう。ぼくと合流して、その後にチェックインした方が何かとスムーズにいきます”
心なしか、このJeanの声にいつもの軽快さがないように思えた
何かあったの?
そう訊いてみると、意外にも2秒間の沈黙があった
電話での2秒間の沈黙は、意外と長く感じる
Jeanは続けた——
——”まぁ・・・それは・・・”
冗談半分で尋ねてみただけなのに、正鵠を射てしまったらしい
しかも電話では話しにくそうな雰囲気が濃厚に立ち込め始めていた
——”さわまつさんのご滞在には関係のない、ごく個人的なことで・・・まぁ、お会いした後で・・・おいおい・・・話を聞いてください・・・”
いつも自信に満ち溢れ、爽やかな立ち振る舞いのこの友人の身に何かが起こっているらしい
Jeanは先ほどまでの不安に滲ませた声を払拭するかのように、いつものように軽快な口調で笑ながら電話をこう締めくくった
——”とにかくようこそ”PIK”へ!!
歓迎します。
もちろん、わたしが造り上げた街ではないのですが”
この〈連作〉は——
この日これから会う〈六か国語を操る華僑のゲイ〉のJeanと、その幼馴染の親友で、同じく華僑の〈黒いノースリーヴの”D”〉の物語だ
結末から先に書くと、もちろんわたしはこの”PIKエリア”で危険な目に合うこともなく、だから内臓をRED MARKETで売られることもなく、また、犯罪組織と関わり合うことも一切なかった
時系列だけでいえば、このふたりと私を含めた三人で、中華街の飲茶の有名店の小さな円卓で六時間も話し合っただけの物語なのだ
全員が全員、その夜はかなりお酒を飲んだが、少なくともわたしの意識はいつまでもクリアで、彼らの語ってくれた話の内容は細部まで思い出せる
それは〈多様性〉に関する話だった
もっといえば、〈性に関する多様性〉の物語だ
このふたりに対して、わたしにはいつまでも尽きない興味があった
その一部始終を、以下の連作として書き記し、執筆が終了次第に
順次公開していく予定だ
NEXT
この連作に繋がる
前日譚
続編
連作:2
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連作:3
続編
連作:4
続編
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続編
連作:6
続編
連作:7
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