猛毒の雨が降り注ぐジャカルタの中華街、そこに集いし怪物たちとの晩餐会
連作:4
連作:5
猛毒の雨が降り注ぐジャカルタの中華街チャイナタウン、そこに集いし怪物たちとの晩餐会
INDONESIA
NORTH JAKARTA
中華街
11
灯台と猛毒の雨
19:00-20:00
<六ヶ国語を操る華僑のゲイ>の友人ーJeanがハンドルを握る漆黒の車体の車は、人工島”PIKエリア”の北西部の湾岸を、再び心臓部の中華街へ向けて走っていた
窓の外は、酸性雨
それもかなり酷い土砂降りの状態で、フロントガラスのワイパーが激しく左右に動いている
今夜予約を入れてあった飲茶レストランの時間にはまだ早かったこともあり、Jeanがわたしに気を利かせてこの郊外の湾岸地区の夜の工業地帯まで車を走らせてくれたのだ
激しい雨が叩きつける車窓から見たその景色は、まるで世界の終わりを思わせるような荒廃した無人の土地のようにわたしには見えた
岬の突端に立つ灯台は不気味な緑色の光を放ちながら周期的に車内を照らし出す
そのたびにわたしは何度か後方をふり返り、どうにかこの不気味な灯台を撮影してみたいと思ったが、わたしの技術ではこの雨を避けて撮影することはできない
再び車内を灯台の閃光のような緑色の光が照らしだし、Jeanの横顔までを緑色に染め上げた後、Jeanは小さく不敵に微笑みながらこういった——
——”さわまつさん、随分と気に入ったようですね
もしよければ明日の朝にでもまたここへ案内しますよ”
緑の光を帯びた大粒の雨が、間断なく車窓を叩きつける
そしてどろりと流れ落ちていくそのさまは、どこか猛毒の雨を思わせた
そして——
ここジャカルタの心臓部”PIKエリア”は悪くないのかもしれない
混沌と喧騒——世界の中心地を思わせる中華街
そしてそこから車で30分も走れば、今度は世界の終わりを思わせる光景が広がっている
インドネシアでもかなりいろいろな土地を見てきたが、再訪したいと思える土地に巡り合うことは意外と少ない
この土地にはひょっとしたら「何か」があるのかもしれない
わたしの渇きを癒すような何かが・・・
この地はもしかしたら、華僑たちだけでなく、このわたしにとっても——
NORTH JAKARTA
中華街
12
心臓部のレストラン
20:00-20:30
極めて「食」にうるさいJean Mespladeがわたしを案内してくれたのは中華街のど真ん中の老舗の香港飲茶のレストランだった
石段を数段登り、巨大な木製の扉を開けて中に入ると、まさにそこは香港を思わせるような内装で、多くのひとびとで賑わっていた
窓辺に無造作に吊るされた焼豚/水槽の中を泳ぐ様々な色をした魚介類/香辛料の匂い/漢語表記の屏風/チャイナドレスを着たお店のスタッフたち
高い天井は全て鏡張りで、巨大なホールには大小無数の中華式の丸テーブルが並び、地元客や観光客の歓声がホールの壁に反響して聞こえてくる
聞こえてくる言語はもちろんインドネシア語、英語、そしておそらくは中国語、そしてわたしには何語か判別できないどこか遠い国の言葉・・・
テーブルの間にはスリットの入った原色のチャイナドレスを着たお店のスタッフが、微笑みながら片手に湯気を立てる料理の皿を持ち、各テーブルを回遊魚のように廻っている
フロアの要所には髪を整髪料で綺麗に固め、黒い長袖のジャケットを着た男性マネージャーたちが立ち、ホール内を見渡しながらインカムでどこかと通信している
そして奥の厨房と思しきガラスの向こうでは中華鍋が炎を上げ、色とりどりの野菜と肉が舞っている
ふたつあるやはりガラス扉を、チャイナドレスの女たちが激しく出入りし、時折怒気を含んだ声までもが厨房の奥から聞こえてくる
——なんて活気のあるレストランなのだろう・・・
Jeanが案内してくれるので、どこかの小洒落た高級店を予想していたが、良い意味で大きく期待を裏切られたような気がした
かれの人柄と考えが透けて見えるような、活気溢れるレストランだった
入り口左手のカウンターの奥から濃紺のチャイナドレスを着たお店の女性がわたしたちの前に現れると、Jeanはインドネシア語で自分の名を名乗り、予約していることを伝えると、相手の女性は一瞬戸惑い、普通語でJeanに何かをいった
Jeanもすぐさま普通語に切り替え、彼女といくつか言葉を交わした後に、真横にいたわたしに今度は日本語に切り替えてこういった
——”さきほどお話ししたぼくの友人Dianaが後10分ほどでこの店に到着します。それまではウェイティング・バーでビールでも飲んで待ち、彼女が着いたら個室に移りましょう”
案内されたウェイティング・バーの内装はかなり洗練されていた
扉を閉めると外のホールの騒音が見事にシャットアウトされ、空調が隅々にまで効きわたり、冷んやりとして心地よい空間だった
照明の光量は計算しつくされたように絞られ、温かなオレンジの照明がワインレッドのレザーソファに艶やかに反射し、どこか親密な雰囲気を醸し出している
小さな音で聞こえてくるのは、おそらくはアート・テイタムのピアノ・ソロ
この古風なジャズもまた、見事にこのフロアに調和しているようにわたしには感じられた
Jeanはいった——
——”ここのウェイティング・バーはぼくは本当に好きなんです。この店は
仕事でもプライヴェートで友人とも来ますが、いつも約束の時間より早く来て、ここでビールを飲みながら本を読んで待つんです”
それは確かによさそうだ
全く同じことをしてみたくなる
ソファ席ではなく、カウンターにJeanと横並びに座ると、さきほどとは別の、抑えられたグリーンのチャイナドレスのバーテンが現れ、彼女にJeanは生のビンタンビールを二杯注文した
ほどなく先に、小皿に盛った搾菜を、また別の色のチャイナドレスを着た女性が運んで来たが、Jeanは彼女に向かって小さく穏やかに何かをいうと、その女性は柔らかく微笑みながら今持ってきた小皿をそのまま持って後方へ消えていった
やがてビールが運ばれてきて、Jeanとグラスを合わせる
それは泡のきめの細かな見事なビンタンビールだった
ここインドネシアではイスラム教の教義で、イスラム教徒は一切の飲酒が禁じられている保守的な国だが、しかしもちろんこの国民的ビールのビンタンは流通はしている
わたしも週末には政府から販売認可を受けた限定された酒屋か外資系のスーパーマーケットで買うが、日本や諸外国では当たり前の生ビールを提供する店は、少なくともSemarangでは一か所のレストランしかわたしは知らなかった
この日は喉も乾いていたこともあり、この店の、このウェイティング・バーで飲む生のビンタンビールの一口目は、それはほとんど犯罪的な美味しさだった
ふたりでビールを味わっていると、さきほどのグリーンのチャイナドレスを着た女性が、今度は白いナッツが盛られた小皿を持って現れ、Jeanになにごとかをいって確認すると、カウンターにその小皿を置いて静かに立ち去っていった
そしてわたしは何気なくひとつかみしたそのナッツを口に運ぶと、その衝撃的な美味しさに思わず声をあげた
——”こっ・・・これは・・・うまい”
Jeanはしてやったりの顔でわたしの横顔をみながらこういった
——”そうでしょう?これはバリ島のナッツなのです。この味を知ったらもう他のナッツは食べることができません”
不思議なナッツだった
見た目は日本のどこででも購入できそうな落花生の皮を剥いて抽出しただけのような姿で、特徴的なのはやや白いくらいなのだが、奥歯で噛んだときに
最初にカリッと小気味いい音を立てると、あとはそれを裏切るようなサクサクの触感なのだ
塩加減もまた絶妙だった
Jeanはいった——
——”最初に持ってきてくれたあの搾菜もかなり美味しいのですが、さわまつさんにはまずこのナッツを食べてもらおうと思って
これはGELAELでも販売しているので、Semarangでも購入可能です
・・・店に頼んで、今夜少し持ち帰りますか?”
わたしはそれは断り、再びこの魔法がかかったようなナッツを食べながら外資系スーパーのGELAELで必ず買う強い予感を感じた
そしてこうも思った
この男・・・
この〈六か国語を操る華僑のゲイ〉・・・Jean Mesplade
ひょっとしてわたしは、彼の掌で今夜は踊り続けるのかもしれない、と
そしてJeanのスマートフォンが鳴った
その短い親密なやりとりだけで相手が誰だかわかった
Jeanの幼馴染のDianaがこのお店に到着したのだ
NORTH JAKARTA
中華街
13
Jean、忘我を喰らう
20:30-22:00
お店の巨大な木製の扉を、内側から外に向かって開けると、ちょうどエントランスの石段をひとりの若く美しい女性が登ってきた
外は傘の必要まではない霧雨に変わっていた
雨にやや濡れた長い黒髪と黒いノースリーヴ、黒い細身のパンツ、黒いパンプス、肩からかけた小さな黒いエナメルのバッグ
その女性がJeanの幼馴染の
〈四か国語を操る華僑の女性〉だ
さきほどJeanの車内のBluetoothを効かせたスピーカー越しにわたしも彼女とは少し話をしていた
——はじめまして。唐突に申し訳ありません。わたしはDiana Halimと申します
いえ、日本語は日常会話程度のレヴェルなのですが・・・
いえ、しかしわたしはうまく敬語が・・・もう忘れてしまっていて・・・
もしもそれでも構わないのであれば
もしもそれがあなたへの失礼にならないのであれば・・・
今夜わたしも一緒に食事に同席したいと思っているのですが、いかがでしょうか
Jeanはわたしの古い友人なのです
——はじめまして。敬語などわたしはちっとも構いません。
もしお越しになるのであれば歓迎いたします
ぜひ一緒に食事しましょう
雨が降っているのでくれぐれもお気をつけてお越しください
Dianaは正統派の、いわゆる中華美人なのだろう
切れ長で大きな瞳と、雨に濡れたストレイトの黒髪
霧雨を帯びた全身が、微かな湿り気と白い輝きを放っているようにわたしには見えた
加えて、電話で話した際の、こちらが畏まってしまうような礼儀正しさがそのまま姿として表れている
彼女は石段の最上段に立ち、微かな呼吸の乱れを整えながら——
微かに濡れて湿った、黒く艶やかな長い前髪を、彼女は左手のピアニストのように長く白い指でゆっくり左耳にかきわけてこういった
——”さわまつさんですね?はじめまして。さきほどお話しさせて頂いた、わたしはDiana Harimと申します。今夜は突然——”
顔立ちの美しさよりもむしろ、全身に溢れている率直な生命力のようなものに注意を引かれる
Jeanは手早く彼女にわたしを紹介し、次にわたしを彼女に紹介して再び扉を開け、Jean、Diana、わたしの順で再び
店内に入る
巨大なフロアを、濃紺のチャイナドレスを纏った若い女性スタッフに先導されて横切り個室へと通される
中はかなりゆとりのある広さで、しかし中華式の丸テーブルはかなりコンパクトな設計だった
華僑の多いここインドネシアには無数の中華料理屋があり、わたしもSemarangでよく利用するが、ときどき困るのがテーブルが大きかった場合だ
大きすぎると対面の相手の声が聞こえづらく会話しづらいからだ
小さな丸テーブルの中央にJeanが座り、わたしとDianaは向かい合う形で座ると、すぐにチャイナドレスのスタッフがJeanにメニューを持ってきた
Jeanはいった——
——”さわまつさん、何か特別召し上がりたい食事はありますか?
ここは基本的に何でも美味しいのですが、肉よりは海鮮の方が有名です
お酒もビールはもちろん、紹興酒とワインも充実しています”
——”料理はすべてJeanに任せるよ。飲み物はまだビールで大丈夫”
Jeanは頷き、Dianaと額を寄せながらメニューを捲り普通語で話しながら料理を決めていった
そのふたりのその親密な姿をみていると、もしもJeanがゲイでなかったら、このふたりは美男美女の理想的な恋人同士なのになと、わたしは思ったりしていた
三人でまずは生のビンタンビールで乾杯すると、次々と料理——
まずはさまざまな色彩に彩られた前菜が運びこまれてきた
運ばれてきた料理を箸で摘まみながらビールを飲んでいると、DianaはまじまじとJeanの泣き腫らした目元を見つめていた
夕方よりだいぶ腫れは引いているように思えたが、かれの目元にはまだ赤い痕がうっすらと残っていたのだ
今夜の主賓はもちろんわたしではなく、また紅一点のDianaでもなく、確実にJeanだった
Jean Mesplade
さきほど車内でJeanと彼の間に何があったのかのおおまかなアウトラインは聞いていたが、細部までは聞いていなかった
DianaはまるでJeanの母親か姉のような温かな表情で、同時にだから本当に困ったように眉を顰め、綺麗な日本語でこういった
——”もう別れなさい・・・その方がいいわ”
Jeanはビールを一口飲み、左手で頬杖をつき途方に暮れたような表情をしてぼんやりと天井を眺めた
この〈六か国語を操る華僑のゲイ〉の友人、Jeanの彼にわたしは会ったことがなかった
しかし、写真では見たことがあるのだ
去年の暮れ、わたしが二回目のJAKARTA旅行を計画したときにこのJeanにコンタクトを取り、一緒に中央ジャカルタで食事でもしようと思っていたのだが、そのとき彼はバリ島にいた
彼と一緒にバリ島で休暇を過ごし、おそらくはサーフィンでもしていたのだろう
ビーチサイドのウッドデッキで彼と弾けるような笑顔で肩を組み合った写真がわたしのスマートフォンに送られてきたのだ
わたしはゲイではないので、やや複雑な心境でその写真をジャカルタのデザイナーズホテルのベッドに寝ころびながら見ていたが、その彼の姿をみて、実は同時にこのような感想をもっていたのだ
嫌だな、と
一切面識のない相手に対して嫌だなとは、我ながらそうした感想を持つのはどうなのだろうとは思うが、写真をみた第一印象ではこうも思ったのだ
遊んでそうだな、と
これまでの人生の中で往々にして、なぜこのように素敵な女性がこんな男と付き合うのだろうと疑問に思ったことは度々、ある
散々振り回されたあとに、最後には傷しか残らないような相手とどうして付き合ってベッドで裸で抱き合ったりするのだろうかという疑問だ
それはもちろん当事者同士がよければ、外部のわたしの感想などはどうでもいいのだが・・・
そしてJeanと彼の仲睦まじい写真からもそうした危うさをわたしは感じ取ってしまったのだ
もちろんこのことはJeanには一切話していない
Jeanのような繊細なタイプが、逆に奔放なタイプな恋人を求めるということも世の中には往々にしてあるのだ
最後に泣かされなければいいのだが・・・
と思ったのが、その写真をみたときの最後の感想だった
DianaはJeanの彼とは何度かここ中華街で会い、食事をしたことがあるとのことだった
そして彼女もわたしとほとんど同じような印象をJeanの彼に抱いており、以前からふたりの行方を心配していて、Jeanには率直にもう別れたほうがいいよと忠告していたようだった
そして今回ー昨夜、わたしが第一印象として抱いていた、彼の浮気が発覚し、このJeanの心を乱しに乱していたようだった・・・
この夜は主賓のJeanがそうした状況を抱えていることもあり、どちらかというとしっぽりとした雰囲気だったが、こればかりは仕方がなかった
この国では異邦人であるわたしの、唯一の現地人の友人なのでなんとか彼の力になってあげたかったが、最終的な判断はやはりJean自身で下すしかない
こうした恋愛絡みの話は、いうまでもなく当事者同士の問題なので、第三者は本質的な関与はできない
ただアドヴァイスを与えるだけだ
そしてこのJeanは、おそらくはGUESTでもあるこのわたしに気を使ってなのか、努めて明るく振舞おうとしていたが、それは逆に痛々しいだけで、何度か話題を変えようとして話が逸れることもあったが最終的にはやはりどうしてもこの話に戻ってきてしまうのだ・・・
Dianaがそれに一役買っていたこともある
Jeanの幼馴染は真剣にかれのことを心配していたのだ
Jeanはなんとかこの湿っぽい雰囲気を振り払おうとし、呼び鈴を鳴らして店の人間を呼びワインリストを取り寄せた
Jeanが選んだ赤ワインはボルドーのHAUT-MEDOCだったが、ここインドネシアの小さな不思議のひとつはテイスティングが人数分に振舞われることだった
ひとりでテイスティングで味わうことをよしとせず、わたしが経験してきた限りでは、必ず人数分用意され満場一致を確認したうえで正式な注文となりグラスに注がれる
そしてこの夜はJeanはかなりお酒を飲んでいた
ワインの前には紹興酒のボトルもほとんど独りで開けていたし
HAUT-MEDOCの前はよく冷えたChablisも三人で空けていた
Dianaもお酒が強かった
ただJeanと違ったのは、白い急須に入った緑茶を取り寄せ、ワインを飲みながらまるでインターバルのようにときおりお茶に口をつけ身体の内部のバランスをとるような飲み方だった
そしてこのDiana
その細い身体の一体どこに食物が吸収されるのかを不思議に思うくらいの旺盛な食欲だった
それも、実に美味しそうに食べるのだ
Dianaはいった——
——”初対面のさわまつさんにこういうはずかしいことはあまり言いたくはないのですが・・・わたしは一日に五回食事をします”
五回!?
Dianaに訊いてみた
——”でもどうして太らないのですか?”
昔から何をどれだけ食べても太らない体質らしく、一切体形が変化しないらしい
羨ましい限りだ
Dianaは続けた——
——”仲の良い友人と一緒に食事をするのが、わたしの一番の楽しみなのです。もちろんそれは、誰でもそうだとは思うのですが”
間違いなかった
料理に関してはほとんどJeanが選び、それも一度にまとめて頼むことはなく、目の前の料理の進み具合をみながらまるで熟練の指揮者のように絶妙な塩梅で注文し、それに対してDianaが量をHALFにするか、一人前にするのかを決めてから呼び鈴を鳴らした
それは見ていて実に気持ちの良い絶妙なコンビネーションのようにわたしには感じられた
小さなテーブルに入れ代わり立ち代わり色とりどりの料理の皿が並べられては下げられ、その大部分はDianaが実に美味しそうに食べ、こちらの食欲も増すような素敵な光景だった
Jeanはいった——
——”さわまつさん?Dianaって面白いでしょう?”
わたしは微笑んで頷いた
長く海外で生活していて、独身だということもあり普段はひとりで外出してひとりで外食することが多い
孤独だとは思うが、しかし寂しくはなかった
屋台やレストランやバーでひとりで食べたり飲んだりは日常茶飯事だが、食事しながら本を読むのがなかば習慣になっていることもあり、ひとりでも全く平気だった
そしてあくまでわたしが見てきた限りでは、この資質を持たない者はやがて帰国することになる
これまでヴェトナム・スペインで何人、何十人とみてきた
孤独・・・それしか適切な言葉は思い浮かばないが、肉親や友人たちと実際的に引き離される距離を強制的に生み出す海外赴任には、まずその資質・・・耐性があるのかどうかを問われる
もっとも、通信技術の発達の恩恵で、それは流動的ではあるのだが、しかし孤独に耐えうる強さがなければ、それが日本からどれだけ近い距離にある海外であるのかを問わず、撤退ー帰国を余儀なくされるはずだ
それは逆説的に、その資質さえあれば、別に言葉ができなくても、それは重大な問題ではないようにも思える
言葉と言語・・・くだらない・・・今でも本当にそう思う
それらは常に副次的な問題でしかなく、本質に迫って脅威となるような問題ではないのだ
それは間違いない事実だった
わたしが見てきた限りでは言語は一切論外で、検討の枠外の話だった
それは後からいくらでも学ぶ余地をもつからだ
本当に重要に思えるのは孤独に耐えうる強さの有無だけで、それは少なくとも後天的に学びとることはかなり困難な性質のものなのだ
だから本人の本質的な芯・・・先天的な根幹の強さは、海外赴任では間違いなく問われる
ひとりの日本人を海外へ送り込むのは、企業にとっては膨大な投資であることは間違いない・・・
そして、だから、ときおりこうして友人と会って食事をするのであれば、やはりこのDianaのように旺盛な食欲をもち、何でも美味しそうに食べる相手こそが相応しい
見ているだけで前向きな気持ちや元気をもらえるような気がするからだ
Jeanはいった——
——”Dianaは、他のひととは少しだけ違う個性を持っていて、ぼくの少ない友人の中でも昔から何でも話すことができるのです”
わたしは頷き、深く考えることもなくJeanに訊き返した
——”彼女の他のひととは違う個性って?”
Jeanは一瞬の空白の間を置いてこういった
——”ちょっと日本語ではどのような言い方になるのかはわかりませんが
英語でいうと〈androgynos〉です
意味はわかりますか?”
Jeanの英語の発音はほとんどネイティヴのそれだった
確かジャカルタだけでなくイギリスの大学も出ていたはずだ
——”なんだって?もう一度——”
Jeanはその英単語だけをもう一度繰り返したが、わたしはそれでも意味が掴めなかった
わたしは通訳がいない環境で仕事をしていて、必要に迫られる形で毎日英語とインドネシア語のみで仕事をし生活しているが、それでも聞きなれない英単語だった
Jeanはジャケットのポケットからスマートフォンを取り出し
一瞬迷ってからまたそれをしまい、内ポケットから万年筆を取り出すと、テーブルの上の紙ナプキンに素早く筆を走らせた
”androgynos”
待て。待てよ——
この英単語は——
待て。待てよ——
おそらくは——
通常、英語を学ぶ者にはかなり遠い距離にある単語だ。それは間違いない
ある専門分野を学ばない限りは、おそらくはほとんど出会うことのない種類の——
しかしわたしはその分野に関してかなり以前に調べたことがあったのだ
単語の意味を思い出すのにいくらか時間はかかったが、この意味は——
わたしは顔を上げてDianaの整った顔立ちの切れ長の綺麗な瞳を見つめる
彼女は柔らかく微笑みながらわたしを見ている
Diana——
あなたは——
まさか——
あなたは——
あなたは——
上半身に女性の胸をもち——
下半身に男性器をもつ——
両性具有者だったのか
NEXT
9月24日(日) 日本時間/AM7:00
連作:6
ジャカルタの猛毒の雨はやがて霧雨へと変わり、その中で揺れる、男性器をもった少女と、死んでしまった仔犬
前回、本来はこの〈連作:5〉で完結のアナウンスはしていましたが、文字数が長大になりすぎるので便宜上ここで一端切り、次回が〈完結編〉となります。どうぞ最後までお楽しみください。
この連作へと繋がっていく
前日譚
連作:1
連作:2
連作:3
連作:4
次回へ続く