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混沌と喧騒の激しい渦の中、ジャカルタの陽は落下して、光は慟哭と共に去りぬ





連作:2


Pantjoran Chinatown PIK









CENTRAL JAKARTA
2022







連作:3

混沌と喧騒の激しい渦の中、ジャカルタの陽は落下して、光は慟哭どうこくと共に去りぬ











何もかもすべてを失った
全てを、だ
ここには何もなく、そして誰もいない



”常に一緒にいるのは、オールド・オーヴァ―ホルト・ウィスキーと
パブスト・ブルー・リボン・ビールだけだ”



後に、”史上最大の殺し”、ケネディ暗殺事件への謀略を描き出す
「死の弁護士」、ウォード・J・リテルの言葉

ジェイムズ・エルロイ「アメリカン・タブロイド」






INDONESIA


NORTH JAKARTA

Pantjoran Chinatown PIK


HOTEL


6

17:45




Pantjoran Chinatown PIK




かつて暮らしたヴェトナムのホーチミン同様に、ここインドネシアのジャカルタも午後6時には完全に陽が落ちきって、辺りは夜の深い闇に包まれる

それはどちらの国で、いつ見てもどこか不思議な光景だった

赤道が近い亜熱帯気候がそうさせるのだろうが、日本のように
「陽が長くなる」ことがほとんど全くといってよいほどない国なのだ
一年を通して、午後6時には完全に陽が落ちる


現在時刻ー17:45


間もなく、ここ36階の高層ホテルの最上階の一室、全面ガラス貼りの向こうで陽が落ちる

その眺めは壮観だった
ジャワ海に沈む夕陽は、SemarangスマランJeparaジェパラでも観てきたが、そのどちらとも似ていない

辺りが急速に暗い闇に包まれていき、まるで月の光に照らされた血のように赤黒い太陽が、それらに最後まで抗うようにして、最後は高層ビルディングの隙間に落下していくように一気に沈んでいくのだ



CENTRAL JAKARTA
2023



この部屋での滞在のお膳立てを整えてくれたのは、階下のエントランス・ホールでわたしを待っている〈六か国語を操る華僑のゲイ〉の友人だ

かれが小さなコネクションを辿るようにしてこの部屋をわたしの為に準備してくれたのだが、果たしてそれだけで、このような眺望の素晴らしい部屋に泊まれるものなのだろうか・・・

この部屋——
ただのダブルではない
わたしはこれまで宿泊したことはないが、SUITEスイートではないにせよ、おそらくはそれに順ずる——

本来はありがたく喜んで受け入れるべきなのかも知れないが、なぜかこのときふと、暗い気持ちになった




何かかれに、わたしが無理をさせてしまったのではだろうか・・・





Pantjoran Chinatown PIK





わたしは部屋に入るやいなや、すぐに一眼レフを準備し、何とか落ちていく夕陽を捉えようと試みたが、それは不可能だということは瞬間的に誰より理解していた

ガラスに映りこむ自分自身の姿や、部屋内の総アンティークの調度品が反射して映り込んでしまうのだ

それらすべてを透過させて夕陽を捉えることはわたしの腕では不可能に近い

あるいは、カメラをマニュアルで調整すれば、とりあえずかろうじて、何とかカタチにはなるのかも知れないが、もう間もなく、この国では絶対的に午後6時には陽が落ち切るのだ・・・



数枚だけ撮影し、諦めて、急いで外出の支度を整える
まずはスーツケースからカメラの標準レンズとは別のレンズを取り出す

40mmの単焦点レンズ/55-250mmの望遠レンズ

おそらく今夜、この合計三種類のレンズは全て使用することになるだろう


ここは混沌と喧騒のジャカルタの心臓部”PIKエリア”
案内してくれるのがJeanジャンなのだ
夜だということも大きい


この27歳の男はいつも常に、わたしの予測を超えた世界へ誘ってくれるいざなってからだ

レンズと、スマートフォン2台、パスポートのコピーとKITAS(在留証明書)
財布、再読中の村上春樹とジェイムズ・エルロイの文庫本を詰めこんだ
タフ仕様のレザー・トートの中身を確認し、急ぎ足でドアに向かうと、ふと、何かを忘れていることに気がついた



何だろう・・・



所持品は問題ない
カメラの予備のバッテリーもある
現金キャッシュも十分にある

わたしは振り返り、広大な広さの部屋を見渡し、それを素早く四分の一づつ切り取って首を動かし確認する


左手のローズ・ウッドで仕立てられたライティング・デスクの上の、外資系スーパーマーケットの「GELAEL」の黒い布製のショッピングバッグが目に留まる


これだ——



これは先ほど階下でチェックインを済ませ、エレベーターホールに向かうわたしにJeanジャンが持たせてくれたささやかな歓迎の手土産だった

中にはレモン・ソーダで割ったことを表す黄色いラベルのBING TANG BEERの6缶パックが入っていて、そのときJeanジャンはわたしにこういった




——”お部屋の冷蔵庫で冷やしておいて、今夜戻られたあとか明日にでも飲んでください”




わたしは素早くデスクに向かい、ビールを冷蔵庫に入れながら
なぜJeanジャンSemarangスマランのお土産を買ってこなかったのだろうと激しく後悔しながら再びドアへ向かう

それは相手からのささやかな心遣いだったが、一事が万事だった
大事も些事も、常に同じ平面に存在しているのだ

つまり要するに、Jeanジャンの方が役者が一枚上なのだろう・・・


だが、まあいい


今夜これから、食事と酒を振舞ってJeanジャンにはお返しをすればいい

今夜のJeanジャンは何より会話とお酒、その両方を必要としているはずだ
さきほどちらりと訊いた限りでは、詳細はわからないがボーイフレンドと別れ、いつものCOOLクールな表情の下では激しい嵐が吹き荒れているに違いないからだ

わたしは観光でここ”PIK”来ているし、明日の予定はなにもないのだ

今夜はJeanジャンに徹底的に付き合って、二日酔いで明日を棒にふってどこにも出かけず、ひとりでこの部屋のクィーン・サイズのベッドで一日寝ているだけでもいい


そして、今夜はこれから何かが起こるに違いない
それは確かな手ごたえのような感触と強い予感があった
一瞬、脳裏に泣き腫らしてパンパンになったJeanジャンの横顔が過った




なぜなら相手は、17歳も年下の<六ヶ国語を操る華僑のゲイ>

そして





ツンデレ小僧






でもあるだからだ









NORTH JAKARTA

Pantjoran Chinatown PIK


HOTEL


7

18:15




ON THE ROAD



エレベーターの扉が開くと、正面の数十メートル先の円形のソファに先ほどと同じようにJeanジャンは腰かけていた

エントランス・ホールは到着したときよりもさらに密度を増してごった返し、これから夕食に出かけるひとびとや、館内にあるレストランに向かうひとびとが激しく交差していた

視界に入るだけで、伝統服”BATIK”を身に着けたインドネシア人の一団、ラフな服装の欧米人、同様のアフリカ系の黒人、ゴルフウェアを着こんでいるのは韓国人の群れで、日本人のビジネスマンの姿もちらほらと確認できる

その無数のひとびとの多国籍の会話が高い天井や壁に反響し、フロア全体が熱気とざわめきに満ち、無秩序な活気に溢れているように思えた

わたしはそのひとびと波に抗うあらがうことはせずに、目の前を横切っていくひとびとの群れに、途中で立ち止まって先に進ませたりしながらゆっくりとかれの元へ向かった

Jeanジャンは前傾姿勢で両ひざの上に肘を置き、フロアのペルシャ絨毯を思わせる複雑精緻な模様を見つめながら、何ごとかを真剣に考えているようだった




その苦悩を思わせる姿は、わたしが以前撮影した三枚の写真と記憶を呼び寄せた





ロダン「考える人」
ロダン美術館/パリ/フランス
2016撮影



あの有名な、ロダンの彫刻作品「考える人」

実際に2016年にパリのロダン美術館で観て、その直後にオルセー美術館でも観て、その後で東京の国立西洋美術館でも観ることになった連続して何かと所縁ゆかりが深かった迫力のある彫刻作品だ

それまで彫刻作品をほとんど観たことがなかったわたしにしてみれば、それは圧倒的な肉感と質感で、迫力をもって迫って来る傑作の作品群だった

今思い返しても、当時丸一日かけて観てきたルーヴル美術館でも、絵画よりも彫刻群のほうが強く印象に残っており、撮影した作品の枚数も圧倒的に彫刻が多かった



ルーヴル美術館
2016撮影




そしてあるときふと気になって、この「考える人」は一体全体何をこんなに深く「考えて」いるのだろうと疑問に思い、調べてみたことがある

結論から書くと「地獄について」考えているらしく、この印象的な作品はロダンの「地獄門」という大作の一部で、その門の上でまるで自身の内面を深く覗き込むようにし鎮座しているのが、「考える人」なのだ




ロダン「地獄門」
国立西洋美術館/上野/東京
2016撮影
銘文「この門をくぐる者は一切の希望を捨てよ」



単体で観ても強い存在感を放ち続ける「考える人」は、まるで昨今の言葉を借りるのであれば”スピンオフ”のような形で独立して捉えられるようになり世界中に急速に広まっていったはずが、しかし、あくまでわたしが調べた限りでは、この男は地獄の何について考えているのかまではわからなかった

地獄の「成り立ち」なのか、「在り方」なのか、それとも眼下の「地獄門」を潜らざるを得ない自身の「運命」について考えているのか、それら全てなのか、それとも全く別の「何か」なのか・・・




ロダン「地獄門」
オルセー美術館/パリ/フランス
2016撮影
NOTICE:  ”If you go through this Gate, you'll NEVER get a HOPE”




そして、このわたしのインドネシアにおける最良の友人、Jean Mespladeジャン メスプレイドも、もしかしたら「地獄」について考えているのだろうか

本人が語ったとおり、失恋直後であるのであれば、それはあながち間違った推測ともいえないのではあるが・・・


わたしはぼんやりとそのようなことを考えながらゆっくりJeanジャンに向かって歩いていくと、わたしに気づいたかれは慌ててわざとらしく微笑み、「考える人」の姿勢を止めて、急に足を組み、両腕を広げてソファのへり部分へ乗せて、何かの余裕を見せつけるようなタフガイを急に気取ってみせた





その姿を見て——





わたしは残念ながらゲイではないのだが
——いや、性的志向はここでは関係はないのだろう
そのときの気持ちを包み隠さずに正直にここで告白すると、こうだった









可愛いヤツめ!!










普段どおりの爽やかなCOOLクールの仮面を身につけたり、もっとかまって欲しいのか、突然のツンデレ対応だったり、「考える人」だったりと、今夜のJean Mespladeジャン メスプレイドはなかなか忙しそうだ

しかし、そのどれもが現在のかれの真実の姿なのだろう
失恋のダメージが、それも傷を負って間もないであろう深刻なダメージが、Jeanジャンを情緒不安定に躍らせているに違いない

そしていずれにせよ、パンパンに泣き腫らしたその目元だけが紛れもない真実でもあった


数十分前には、〈最悪のタイミングでここに来てしまったのかな〉と思いもしたが、存外、〈最高のタイミングでここに来たのかな〉と考えが反転しだしたのもこの急にタフガイを演じたJeanジャンの姿を見たときからだった




CENTRAL JAKARTA
2022




わたしはJeanジャンの隣に腰を下ろすと、まず丁寧に部屋のお礼をいった。そして追求を開始した



——”あんな豪勢な部屋・・・本当に知人の紹介だけで宿泊できるのだろうか”



Jeanジャンは、そんなことはなんでもありません。ぼくは知人に連絡をしただけです。それだけなのです。ぼくは何もしていません
シーズンオフだから空いていたのでしょう


わたしは有象無象の様々な人種の坩堝るつぼのような、そして多くのひとが交差するように行き交うエントランスフロアをわざとらしく眺めまわしてこう反論した



——”シーズン・オフ?ハイ・シーズンの間違いじゃなくて?”



Jeanジャンはその問いをさらりと受け流して、こう切り返してきた


——”ちょうど陽が沈む時刻だったから、さわまつさんはそれを写真に撮りたかったのではないですか?じつはぼくは少しここへ早く着いていたので、さっきの担当者に頼んでどのような部屋なのかを、先にざっと確認してきたんです。そしたらちょうど陽が沈みかけていて・・・”


このJeanジャンにはときどき全て見透かされているかのような錯覚があったがいうまでもなくずばり、図星だった


Jeanジャンは続けた——


——”だから降りてこられるまでもう少し時間がかかるのではないかと予想していたのですが、意外に早かったですね。良い写真は撮れましたか?”







この小僧!








結局このときは、そのJeanジャンの知人には後で何か御礼のお土産でも調達してJeanジャン経由か、あるいは、相手に時間が取れるのであれば直接お目にかかってお渡しすることをふたりで話し合って、Jeanジャンは話をこう切り上げて立ち上がった


——”今日は車で来ています。これから正面に車を”運んで”来ます・・・
いや・・・違う?
日本語でこの場合は・・・”運んでくる”という言い方をしますか?
・・・何ていうんです?”



わたしは首を短く横に振ってこう答えた



——”その場合は、車を”まわしてくる”かな”


Jeanジャンは何度か頷き、10分後に正面へ来てくださいと告げ、口内で”まわしてくる””まわしてくる””車をまわしてくる”と呟きながら人ごみに紛れ、やがて小さくなり、そして消えていった








NORTH JAKARTA

Pantjoran Chinatown PIK


HOTEL


7

18:30





Pantjoran Chinatown PIK




Jeanジャンが正面玄関にまわしてきた車は黒いBMWだった


車種まではわからなかった
いかにもこの裕福な華僑のゲイが好みそうな艶やかで流線形の漆黒の車体で、ホテルのドアマンがわたしより先に軽やかに素早く歩き、助手席の扉を開けてくれた

中に乗り込むと皮の贅沢な匂いがした
フル・レザーの内装は購入価格を雲の上まで押し上げるはずだ

しかしわたしは車には全く詳しくなく、これまでには10年以上前にTOYOTAのPRIUSを1台買っただけだが、それ以降の期間はほとんど海外にいたこともあり、そのハイブリッド車は主に実家の母親が乗り回し、少し前にバックに失敗して大きな凹みができてしまって、ここインドネシアに赴任する直前に400CCの中型バイクのSRと共に処分してきただけなのだ

一瞬、この車はJeanジャンの所有なのか、それともご両親の所有なのか、あるいは恋人や友人知人のものなのかを疑問に思ったが、そのようなつまらない質問は控えておくことにした





Pantjoran Chinatown PIK





運転席のJeanジャンはさすがにもう大ぶりのサングラスは外していた


もうすでに完全に陽は落ち切り、辺りはホテルの照明や敷地外の”PIK”のネオンサインが灯っているのだ
サングラスをかけたままで運転はできない


心なしか目元の腫れも引いてきているように思えたが、それは社内が暗かったせいかもしれない


Jeanジャンは巧みにシフト・レバーを操り、車が敷地の入り口のSECURITY GATEセキュリティゲートの出口側の車線に入ったときに、わたしが数十分前に受けたSECURITY CHECKセキュリティチェックを担当してくれたプロフェッショナルの男と目が合った

男はわたしを認めると柔らかく微笑み、わたしは小さく会釈してそれに応えた









NEXT
9月10日(日) 日本時間 AM:7:00

連作:4

なんじ、月の灯りに照らしだされ、ジャカルタの酸性雨に濡れし黒衣を纏ひてまとひて、来たる




この連作へと続く

前日譚






連作:1


Pantjoran Chinatown PIK





連作:2


Pantjoran Chinatown PIK






続編
連作:4






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