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ロックと村社会。 映画『イージー・ライダー』

南部のレッドネック(カッペの意)は、「本物」を使ったそうだ。

彼らのスーパー保守性は日本の田舎町の公務員と何ら変わらない、
カッペはグローバルなのだ(この形容矛盾、自分で笑った笑)。

ただ、10代の私がこの映画から学んだのは、
「ヒッピー・コミューンのヒッピーどものクズっぷり」の方からである。

キャプテンアメリカとビリーは、コークの取引で手に入れた金をバイクのタンクに突っ込み、ニューオリンズ目指してバイクでアメリカ大陸を疾走する。

その途中で、ヒッピーたちが自給自足で生活するコミューンに立ち寄る。

ヒッピーの女子たちとねんごろになりながらも、そこに暮らすヒッピーたちの「閉鎖的なコミュニティ」から排除され、二人はヒッピー・コミューンを後にする。

このシーンで見た、「自由」なはずのヒッピーが、その実、集団になると途端に村社会を形成し「よそ者」を排除する。

すなわち、
「意識高い風味」が、結局「自由を求めた挙句に村社会に逆戻り」という実に象徴的なシーンであった。

私がこの映画を観た時点では、「フラワームーヴメント」も「学生運動」もとっくに終わっていたが、「あの手の連中」は手を変え品を変え時代を変えて2020年代の今にも残っている。

例えば日本ならば、
閉鎖的な田舎から自由を求めて上京した筈が、気がついたら都会の業界の村社会にスッポリと収まる。

10年位前に某高偏差値大学卒のイケメン兄弟ロック・バンドと知り合いになった。
「俺がこんな才能とルックスがあったらなー」と笑、憧れを持って接していたが、急に大◯◯◯という「日本のロック村」の業界ゴロじじいに擦り寄って行って、彼の「村」の住民になってしまった。

私は「ダッセー!」と思ったが、まあ彼ら自身の青春の選択なので放っておき、縁を切った(結局彼らは活動停止したらしい)。

「日本でロックやってくには仕方がない」のか、
「いや、結局はマキャベリズムなんですよ」なのかは知りませんが、
ロックだけでなくヒップホップ、レゲエ、ジャズ、そして「アート」も皆さんも、結局は「村社会大好き!」なのである。

そもそもライブのMCが「○○くんと、○○さんと、○○くんに感謝!」って、全く村の結婚式の祝辞じゃねえか笑。

そして彼らを見て思うのは、

「なんて不自由な人たちなんだろう」と、

何のためのロック?ヒップホップ?レゲエ?アート?

だって、結局、ただの村社会なんだもの。

そしてそして『イージーライダー』である。

「自由を求めて走ったが、そこに結局「自由」は無かった」

というのが一般的な解釈だが、

私は全くそうは思わない。

最初からずっとイージーライダーたちは自由であり、

その自由の続きに今の私の自由はあるのだ。

自由は追い求めるものでは無い。

自由はいつでもあなたの隣にある。

ピース


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