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「山猫からの手紙」再生に向けて
コロナが収束したら
「中止公演の顔合わせ」をやろう。
今回の主演俳優に公演中止を電話で伝えたところ、そんな話になりました。
「中止公演の顔合わせ」の機会にみんなが繋がって、それがまた次の顔合わせに繋がったら。
演劇企画ニガヨモギ以外の場でもみんなの元気な顔を見せてもらえたら、とても嬉しいです。
これはわたしのエゴになってしまいますが。
わたしは例え公演をやらないとしても、できるだけみん
ことだまをしんじてる
わたしにとって、文章化してる言葉は自分の内面の鏡みたいなもの。それは、ときには外出先の手鏡だったり、ときには自分の部屋にある鏡台だったり。今は、ひとりの時間にゆっくり、じっくり、確認しなおす鏡台の感じ。
取り留めのない日記も、テーマや意思を持って書いてるものも、基本的には他人へのメッセージというよりは、まずは自分が見返すために書くことの方が多い。
そしてそれをこうやって媒体に残すのは、自分の姿
演劇の主宰としての考察②
演劇に関わらず、どんな分野でも長い歴史の中で築き上げられて守られてきた文化や伝統がある。そこから新たな表現の開拓を模索することはそう簡単なことではない。
難しさという一番の点は、わたしの中では技術ややり方よりもまず、伝統を重んじてきた人へ、変化の理解を得ることである。今までうまくいっていたものや、築いてきたもの、守ってきたものへ別の視点の、新しいことを始めるのは誰だって不安を感じるものだし、中に
演劇の主宰としての考察
演劇は劇場で、生で観てこそ真の価値があることは変わりないのかも、しれない。
それでも今、このコロナ騒動の中で劇場での公演は自粛による中止続出。その代替案として無観客芝居の動画配信などに焦点が当てられ始めている。
アートへの支援金サイトなどでも、募集要項では「三密を避けた動画の作成」とあり、それは完全にリモートで撮影されたようなものを組み合わせて作られた映像作品である。
わたしは今回のコロナ騒
⑤この作品から読み取ったこと、その2
今回のコロナが引き起こした死に、その犠牲となった人々の死に、意味を見出す権利などわたしたちには無く、また、その死への真理も必然性も、依然わからないままです。
しかし明日は我が身として、わたしたちもその世界の理にすでに取り込まれていて、切れない縁があると認知するのならば。残されているわたしたちは本能として、どうにか悲劇的な運命には抗いたいものです。
そしてその抗いとは、この「世界そのものを再生さ