にがいよもぎ

演劇企画ニガヨモギ、主宰と演出をやっております。主に別役実さんの作品を上演予定です。2…

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演劇企画ニガヨモギ、主宰と演出をやっております。主に別役実さんの作品を上演予定です。2020年9月、池袋のシアターKASSAIで上演を予定していた「山猫からの手紙/別役実」はコロナの影響で中止いたしました。

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最近の記事

わたしはあの日、

気が付いていたら書いていた。 詩、とはっきりは言えない。 詩のようなもの、でいい。 日記だと思ってもらっても構わない。 「わたしはあの日、」 様々なあの日の記憶が蘇ってくる。 わたし自身のあの日。 しかし、全てのあの日は「わたしだけ」の日々ではなく、必ず誰かが、何かが共に在った。 はっきりとした言葉にはならない、できない、何か、何者か。 無理やり葬ったものでもあり、傍観してきたものでもあり、置き去りにしてきたものでもある、わたしのあの日。 絶望に蝕まれていった日

    • 牛歩

      大荒れの海。 なかなか航海に出られないとしても、広げた地図を畳んで仕舞いこむ必要はないし、想像の中ではすでに海に出てる。 いつもそういう状態でいたい。 心が八方塞がりになって「窮屈」に感じることが、一番自分を弱らせる。 どんな苦境に立たされようが、自分の心だけは常に自由でいさせる。 どんなに美しい未来を想像していても、突然自分の予期せぬ事態に陥って、休むこと、停滞を余儀なくされることなんて、人生で何度も経験する。 災厄、圧力、挫折、絶望、傍観、閉塞感、焦燥感、孤独感

      • 天気のはなし

        今年の夏の山小屋帰りに母と車で2人、大袈裟に盛り上がるわけでもなく、でも会話に迷ったわけでもなく、ただ純粋に天気の話をできたのがとてもよかったなと思い出す。 あの雲の形すごいねえとか、空が広いねえとか、そういうことを他人と話し合っても、純粋に「そうだねえ」ってお互いにストンと沈められる感覚ってなかなか訪れなくて、その瞬間を切り取れたときはとてもいい瞬間だなと思う。 社交辞令じゃなく、天気や空を見た感想をポツリポツリと見たものの通りに、気の向くままに話したいなと思う。でもそ

        • 苦艾と水源

          わたしはあの日、 たしかに青空に向けて 一匹の子羊を放ちました わたしはあの日、 たしかに放たれた子羊が かつて駆けていた麦畑に立ち 地平線に向けて 歩き出しました わたしはあの日、 たしかに地平線を跨いで 地に降り立った虹の根源を 探しはじめました わたしはあの日、 たしかに辿り着いた虹の地点が 暗闇に飲まれていくさまを 見届けました わたしはあの日、 たしかに暗闇に映された オリオン座の点と点を結び 愛という無機質な幽霊に触れました わたしはあの日、 たしかに幽

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        • にがいよもぎ
          9本
        • 演劇企画ニガヨモギ
          8本

        記事

          逢魔刻の通り道

          今は夏だったような気がします。 しかし、蝉の音をまだ聞いていません。 大きな入道雲をまだ見ていません。広い広い夏空を見るまでは死ぬもんかと決めました。 雨が降っています。 シトシト降ります。ザーザー降ります。ジトジトした湿気が体を纏います。 ジットリした風が吹いているような気がしますが、これは風なのでしょうか。ただの空気の流れなのでしょうか。 世の中ではウイルスが浮遊しています。 人々は布で口を覆っているはずなのに、真実か嘘かわからない言葉が漂っています。 人々は布で

          逢魔刻の通り道

          戯曲「バベルの塔の魚たち」

          公園でお散歩中の夫婦が、匂いにつられて買ったパンを食べながらお茶の時間を過ごす。そんな夫婦の元へ絵描きの青年がやってきて、近くで油絵を描いてもいいかと尋ねてくる。 変わった匂いが好きな妻を通して、その夫と絵描き、全く別のタイプのふたりが会話を交わすこととなる。 たぶん正解なんてないよねってはなし。 バベルの塔の魚たち 短編3本(午後、夕方、夜の時間軸)の夕方はこちら。戯曲「下駄占い」

          戯曲「バベルの塔の魚たち」

          戯曲「下駄占い」

          夕暮れ時、ひとりの青年が何か探し物をしている。そこへ通りかかった警官が、彼の探し物を手伝うことに。しかし青年は、無いことは確かだが、何を無くしたのかがわからないという。 みんな、何かを探してるなあってはなし。登場人物は青年、警官、占い師、看護婦の4人。 下駄占い 言うまでもなく、別役実さんの影響をモロに受けています。改行の都合で読みにくい箇所もあると思いますが、ご容赦下さい。 ちなみにわたしは自分が入院中、病院を抜け出したことがあります‥(爆) 一応、短編3本で(午

          戯曲「下駄占い」

          エレベーターに乗れなかった話

          ここ最近、家に引きこもりすぎて完全に曜日感覚を失っていたようだ。ここ最近とはいえ、すでに3週間はたったのかもしれない。いつからが引きこもりの始まりだったのかも、もはや忘れている。 人間、引きこもるとまず、日にちを見なくなるらしい。なぜかというと、今がいつだろうとあまり意味がなくなるからだ。カレンダーを見てもただの数字の羅列としか受け取らなくなるらしい。 ただ、わたしは週3日人工透析に通っているため曜日だけは認知しているはずだった。月水金は透析の日だ。それだけは守らねばなら

          エレベーターに乗れなかった話

          近況報告

          ‪おひさしぶりです。 にがいよもぎです。生きてます。 ご心配のご連絡や励ましのコメントをくださった方々、ありがとうございました。 まだお返事ができていなくてすみません。 ひとつひとつ、心にそっと並べてあります。じっくり眺めると泣いちゃうので、片目でふわっと見ています。 しばらくLINEアプリを完全に絶っていたので、もし5月末以降ご連絡くださっていた方いらっしゃいましたら、ツイッターのDMで教えてください。ごめんなさい。 最近は何をしていたかというと、ほぼ完全に引きこ

          演劇と社会の、距離感やバランス

          演劇企画ニガヨモギとして舞台の企画を主催している立場ではありますが、それ以前にひとりの人間としての個人的な観点で。 演劇をはじめとした芸術分野の価値観と、それらを踏まえた上で、わたしが今回の公演を中止した理由を書いていきます。 わたしは演劇だけでなく、何事にも 小さなコミュニティをはじめとした、大きな社会との距離感やバランスそれは常に測り続けてしまいます。 とくに演劇においては、自分の情熱は間違った方向に燃えていないか。正解のないことだとわかりつつも、気になってしょう

          演劇と社会の、距離感やバランス

          「山猫からの手紙」再生に向けて

          コロナが収束したら 「中止公演の顔合わせ」をやろう。 今回の主演俳優に公演中止を電話で伝えたところ、そんな話になりました。 「中止公演の顔合わせ」の機会にみんなが繋がって、それがまた次の顔合わせに繋がったら。 演劇企画ニガヨモギ以外の場でもみんなの元気な顔を見せてもらえたら、とても嬉しいです。 これはわたしのエゴになってしまいますが。 わたしは例え公演をやらないとしても、できるだけみんなが手に入るものをここ数ヶ月間、探していたのかもしれません。 公演をやらないと

          「山猫からの手紙」再生に向けて

          公演中止のご報告

          今年9月3日〜6日に予定しておりました 演劇企画ニガヨモギ主催「山猫からの手紙/別役実」の公演は新型コロナウイルス感染症の影響により、中止を決定いたしました。 約1年半前から企画準備をしてきて、緊急事態宣言真っ只中である先月から今月の間も公演を行うことを前提に凡ゆる準備を進めてきましたが 熟考した結果、やはり先々の見通しを立てることができませんでした。 応援してくださっていたお客様、関係者の皆様には残念なお知らせとなってしまい、申し訳ありません。 謝ることではないか

          公演中止のご報告

          ことだまをしんじてる

          わたしにとって、文章化してる言葉は自分の内面の鏡みたいなもの。それは、ときには外出先の手鏡だったり、ときには自分の部屋にある鏡台だったり。今は、ひとりの時間にゆっくり、じっくり、確認しなおす鏡台の感じ。 取り留めのない日記も、テーマや意思を持って書いてるものも、基本的には他人へのメッセージというよりは、まずは自分が見返すために書くことの方が多い。 そしてそれをこうやって媒体に残すのは、自分の姿を写真に撮って残すことに近いのかもしれないな。 だから、鏡なんて見る余裕ないと

          ことだまをしんじてる

          演劇の主宰としての考察②

          演劇に関わらず、どんな分野でも長い歴史の中で築き上げられて守られてきた文化や伝統がある。そこから新たな表現の開拓を模索することはそう簡単なことではない。 難しさという一番の点は、わたしの中では技術ややり方よりもまず、伝統を重んじてきた人へ、変化の理解を得ることである。今までうまくいっていたものや、築いてきたもの、守ってきたものへ別の視点の、新しいことを始めるのは誰だって不安を感じるものだし、中にはそれを伝統への裏切りと感じて自責の念にかられてしまう人もいるかもしれない。

          演劇の主宰としての考察②

          演劇の主宰としての考察

          演劇は劇場で、生で観てこそ真の価値があることは変わりないのかも、しれない。 それでも今、このコロナ騒動の中で劇場での公演は自粛による中止続出。その代替案として無観客芝居の動画配信などに焦点が当てられ始めている。 アートへの支援金サイトなどでも、募集要項では「三密を避けた動画の作成」とあり、それは完全にリモートで撮影されたようなものを組み合わせて作られた映像作品である。 わたしは今回のコロナ騒動で自分も演劇の主催をしている立場として、そして9月に公演を予定している人間とし

          演劇の主宰としての考察

          ⑤この作品から読み取ったこと、その2

          今回のコロナが引き起こした死に、その犠牲となった人々の死に、意味を見出す権利などわたしたちには無く、また、その死への真理も必然性も、依然わからないままです。 しかし明日は我が身として、わたしたちもその世界の理にすでに取り込まれていて、切れない縁があると認知するのならば。残されているわたしたちは本能として、どうにか悲劇的な運命には抗いたいものです。 そしてその抗いとは、この「世界そのものを再生させ続けること」なのではないでしょうか。 これは、宮沢賢治の「春と修羅」の詩と「

          ⑤この作品から読み取ったこと、その2