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⑤この作品から読み取ったこと、その2

今回のコロナが引き起こした死に、その犠牲となった人々の死に、意味を見出す権利などわたしたちには無く、また、その死への真理も必然性も、依然わからないままです。

しかし明日は我が身として、わたしたちもその世界の理にすでに取り込まれていて、切れない縁があると認知するのならば。残されているわたしたちは本能として、どうにか悲劇的な運命には抗いたいものです。

そしてその抗いとは、この「世界そのものを再生させ続けること」なのではないでしょうか。

これは、宮沢賢治の「春と修羅」の詩と「グスコーブドリの伝記」の主人公ブドリの葛藤と願いからも読み取ることができます。

すべての縁が繋がってできているこの世界を再生させ続けること、それは歴史という縁を紡ぎ続けさせること。そしてわたしたちは、その現象の中に組み込まれているひとくさりずつであるという認識。

それは個を越えた、この世界に存在する全てのものへ平等に与えられる究極の慰めの形であり、その先に待ちうけるものは、世界がわたしたちに与えてくれるものではなく、わたしたちが世界に与えていくべき、築いていくべきものなのかもしれません。

皆さんに、この舞台のために死んでくれとは言いません。お客様から死者も出したくないですから、無理にこの舞台を遂行しようということは、やはり思っていません。

ただ、この作品に於いて、再生を祈り紡ぐ儀式の生贄にはなってもいい、とわたしは思っています。そしてこのご縁にみなさんも、その生贄の道連れにお招きしています。

この作品に登場する全員が「後の歴史を紡ぎ続ける存在であるネリ」に生命を託すブドリ、もしくは「この世界の再生への道を担う存在であるブドリ」の意思を自ら受け取りにいくネリ、でもあるのかもしれません。そしてその希望を探し求める姿も、そのときがくるのを静かに待ち望む姿も、わたしたちに植え付けられた本来の命の姿そのものでもあるのかもしれません。

とても長くなってしまいましたが、ここまで読んでいただきありがとうございます。

ざっと全体を追った戯曲の解釈になってしまっていますが、これを読んだ上で、みなさんには、今回の企画への参加の同意をお聞きしたいです。わたしは、みなさんのそれぞれの意思を尊重したいです。

ただ、わたしの中には届けたい台詞があり、届けたい景色があります。普遍的なテーマでありながら、今だからこそ、より多くの人の腑に落とされるものがこの戯曲には暗号のように秘められていると思います。

「山猫からの手紙」は、宮沢賢治の献身的な願いと、別役さんの深い優しさをもって、それぞれ違ったどんな立場の人にも、形は違えど平等に慰めが向けられて描かれている戯曲だと思います。
確信を持って言えることはそれだけです。

ご参加いただくかどうかの返答はすぐにお応えいただかなくて結構です。緊急事態宣言が明ける予定の、5月中旬くらいまでにいま一度、お返事いただけましたら幸いです。もちろん、この事態が全く収束しない場合、本番ギリギリで公演中止になる可能性もあり得ます。

最後までお読みいただき、本当にありがとうございました。現状、様子見ということしかお伝えできないこと、申し訳ありません。

どんな形であれ、今後とも皆様とのご縁が続くことを祈って。どうかお身体にはくれぐれもお気をつけください。


〝キキンの時に、何か役に立つ死なんてありますか。あるとすればそれは、キキンじゃないんです。キキンというのは、もう本当にどうしようもないんですから‥。

イケニエというのは、ですからその中で考え出された、キキンに対する抗議です。あの人たちは、私たちを殺すことでキキンに対して抗議をしているんだし、私たちも、あの人たちに殺されることで、キキンに対して抗議するんです‥〟

〝あの人たちは知っているんでしょうか、そのことを?

知っています‥。キキンが来ることも、キキンが来たら、人々がイケニエのために、ふしあわせな人を必要としはじめるということも。

知ってて、やってくるんですね。

知ってて、やってくるんです‥〟