本能寺の変1582 目次小 光秀という男 3土岐氏 101~108 天正十年六月二日、明智光秀が織田信長を討った。その時、秀吉は備中高松で毛利と対峙、徳川家康は堺から京都へ向かっていた。甲斐の武田は消滅した。日本は戦国時代、世界は大航海時代。時は今。歴史の謎。その原因・動機を究明する。日本史、信長公記、斎藤道三、足利義昭、武田信玄、上杉謙信。『光秀記』
目次小 光秀という男 3土岐氏 101~108
101 土岐氏は、清和源氏の一流である。
源頼光は、摂津源氏の祖とされる。
土岐氏は、美濃源氏の嫡流家であった。
102 土岐氏は、鎌倉期に美濃に土着した。
光衡が土岐氏の初代とされる。
土岐頼貞の時、初めて美濃の守護になった。
以来二百余年、土岐氏は美濃の守護を歴任した。
103 土岐頼遠は、足利尊氏の時代の人物である。
室町時代は、この尊氏から始まった。
104 頼遠は、婆娑羅大名。
室町幕府は、十五代、240年つづいた。
105 土岐頼康は、濃・尾・勢、三ヶ国の守護を兼任した。
頼康は、土岐氏の全盛期を築いた。
頼康は、文武両道の人であった。
106 光秀にとって、土岐頼康は憧れの人だった。
光秀には、頼康と相通じるものがあった。
土岐氏は、土着性のきわめて強い一族だった。
土岐氏は、一族の結束が強かった(桔梗一揆)。
土岐氏は、一族の数が多い。
明智氏も、その様な家の一つだった。
107 第三代将軍足利義満は、土岐氏を危険と見た。
義満は、将軍専制政治を目指した。
108 義満は、有力守護の排除を画策した。
土岐頼康が死んだ。
土岐康行が頼康の跡を引き継いだ(世安家)。
義満は、康行を挑発した。
康行は、罠に嵌まった(土岐康行の乱)。
康行は、没落した。
義満は、土岐頼忠を美濃の守護に任じた(西池田家)。
土岐氏は、解体された。
桔梗一揆は、崩壊した。
以後、土岐氏は衰退への道を歩む。
目次大 光秀という男 92~123
目次中 光秀という男 92~123
目次小 光秀という男 92~123
信長と、ともにあった十五年。
永禄十一年1568~天正十年1582。
光秀を知ることは、信長を知ることである。
⇒ 次回へつづく
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