見出し画像

本能寺の変1582 目次小 6信長との出会い 4御父信長 第39~43話 天正十年六月二日、明智光秀が織田信長を討った。その時、秀吉は備中高松で毛利と対峙、徳川家康は堺から京都へ向かっていた。甲斐の武田は消滅した。日本は戦国時代、世界は大航海時代。時は今。歴史の謎。その原因・動機を究明する。『光秀記』

目次小 6信長との出会い 4御父信長 第39~43話 

はじめに ←目次 
←前回 目次小 6信長との出会い 3上洛 第34~38話 
重要 ◎目次 

 第39話
 
◎信長は、京に凱旋した。
 ◎義昭は、本國寺に御座を置いた。    『信長公記』「言継卿記」
 ◎信長は、清水寺に入った。             『信長公記』
 ◎信長は、大衆に配慮した。             『信長公記』
 ◎信長は、正義感が強い。              『信長公記』
  信長は、短期間に天下を平定した。         『信長公記』
  義昭は、細川管領家の屋敷に御座を移した。     『信長公記』
  朝廷が動いた。                  「言継卿記」
  公家たちが内裏に集合した。            「言継卿記」
 ◎義昭は、第十五代将軍に就任した。         『信長公記』
 ◎細川藤孝は、これに立ち会った。          「言継卿記」
 ◎光秀は、京にいた。

 
第40話
 
◎信長、あらばこそ。                『信長公記』
 ◎信長は、室町幕府の再興を成し遂げた。       『信長公記』
  義昭は、信長を招いて能を張行した。        『信長公記』
  義昭は、得意の絶頂にあった。           『信長公記』
 ◎義昭は、信長に副将軍職か管領職を与えようとした。 『信長公記』
 ◎使者は、細川藤孝。                『信長公記』 

 
第41話
 
◎これが、信長の志向するところ。
 
◎信長は、義昭の要請を断った。           『信長公記』
 ◎信長と義昭の間には、志向の相違があった。
 ◎光秀は、これらを場末で見ていた。   『信長公記』「言継卿記」
  信長は、分国中の関所を廃止した。         『信長公記』
  御父 織田弾正忠殿。               『信長公記』
  義昭は、信長に感状を与えた。           『信長公記』 

 
第42話
  
信長は、岐阜に帰城した。             『信長公記』
  信長の名は、諸国へ鳴り響いた。
  信長は、来春、上洛するつもりだった。
  信長は、都に五千の兵を残した。          「多聞院日記」
  義昭は、幕府の体裁を整えた。
  細川藤孝は、御供衆。
  和田惟政も、これに同じ。          「永禄六年諸役人附」
  三淵藤英は、御部屋衆。           「永禄六年諸役人附」 

 
第43話
  
番衆は、義昭の親衛隊。           「永禄六年諸役人附」
 ◎光秀は、義昭の家臣になった。
 ◎光秀は、足軽にすぎなかった。        「永禄六年諸役人附」

 


 ⇒ 次へつづく
   目次小 7信長の甲斐侵攻 2信忠、諏訪進出 第44~46話


NEW!!

目次 が更新されました。

これで、全体像がよくわかる!!

毎日更新!!

原因・動機の究明は、この一歩から!!


NEW!!

重要 ◎目次 が更新されました。

本能寺の変

原因・動機は、この中にあり!!

ご注目下さい!! 


この記事が参加している募集

テレビドラマ感想文

日本史がすき

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?