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本能寺の変1582 目次小 6信長との出会い 2美濃立政寺 第31~33話 天正十年六月二日、明智光秀が織田信長を討った。その時、秀吉は備中高松で毛利と対峙、徳川家康は堺から京都へ向かっていた。甲斐の武田は消滅した。日本は戦国時代、世界は大航海時代。時は今。歴史の謎。その原因・動機を究明する。『光秀記』

目次小 6信長との出会い 2美濃立政寺 第31~33話 

はじめに ←目次 
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重要 ◎目次 

 第31話
  
永禄十一年1568、夏。
  義昭は、一乗谷を出発した。
  義昭は、信長を頼る外なかった。          『信長公記』
  信長は、義昭を擁立した。             『信長公記』
  信長は、義昭を美濃立政寺に迎えた。        『信長公記』
  盛大な儀式が執り行われた。            『信長公記』
  義昭は、満足した。                『信長公記』
  藤孝は、復活した。
  藤孝は、大きな手柄を上げた。
  和田惟政も、これに同じ。

 
第32話
 ◎光秀は、藤孝の下で動いていた。
 ◎光秀は、出来る男(切れ者)。
 ◎信長は、軍事力強化を最優先に考えていた。
 ◎信長は、伊勢を狙った。
 ◎正に、マキャベリ。
 ◎徹底的な、リアリストである。
 ◎信長の先見性・着眼点や、恐るべし。
 ◎信長は、卓越した行動力と実行力を兼ね備えていた。
 ◎軍事力の背景には、経済力があった。
 ◎すなわち、領土拡大。
 ◎藤孝は、光秀を信長の使者に起用した。
 ◎光秀の貢献度は、きわめて大きい。
 ◎光秀は、褒美として、幕府の足軽に用いられる。
 ◎信長は、光秀を高く評価していた。
  信長は、自信に漲っていた。【年表】

 
第33話
 
◎石高は、優に百万石を超えていた。          「当代記」
 ◎力こそ、正義。
 ◎これが、信長の基本的な考え方。
 ◎光秀は、信長と同じ考え方・感覚の持ち主。
 ◎すなわち、同じ穴の狢。
 ◎光秀も、信長同様、リアリスト。
 ◎光秀は、出来る男(切れ者)。
 ◎二人は、波長が合った。
 ◎それ故の、抜擢だった。
  武田信玄・上杉謙信・朝倉義景との比較。       「当代記」
  そして、足利義昭を手に入れた。
  信長は、「天下」に王手を懸けた。
  信長には、余裕があった。
          「志賀槇太郎氏所蔵文書」「織田信長文書の研究」
  信長には、後顧に憂いがなかった。
          「志賀槇太郎氏所蔵文書」「織田信長文書の研究」
  信玄と家康が今川領を折半した。
          「志賀槇太郎氏所蔵文書」「織田信長文書の研究」
  信長は、謙信に上洛への協力を要請した。
          「志賀槇太郎氏所蔵文書」「織田信長文書の研究」
  謙信は、越中の一向一揆と戦っていた。
          「志賀槇太郎氏所蔵文書」「織田信長文書の研究」



 ⇒ 次へつづく
   目次小 6信長との出会い 3上洛 第34~38話


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本能寺の変

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