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本能寺の変1582 目次小 13上総介信長 6道三の最期 第104~107話 天正十年六月二日、明智光秀が織田信長を討った。その時、秀吉は備中高松で毛利と対峙、徳川家康は堺から京都へ向かっていた。甲斐の武田は消滅した。日本は戦国時代、世界は大航海時代。時は今。歴史の謎。その原因・動機を究明する。『光秀記』

目次小 13上総介信長 6道三の最期 第104~107話 

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 第104話
 ・
天文二十四年1555
  信長は、祭りが大好きだった。           『信長公記』
  信長は、大衆に人気があった。           『信長公記』
  信長は、東方の脅威に備えねばならなかった。
  信長は、山口父子を排除しようと考えた。      『信長公記』
  今川義元は、尾張へ軍勢を派した。         『信長公記』
 ☆山口父子の最期。                 『信長公記』
 ☆信長は、かなりの策謀家である。
  信長は、下四郡の統治に難儀していた。       『信長公記』

 
第105話
  
道三には、三人の息子がいた。           『信長公記』
  道三父子は、ともに稲葉山に住していた。      『信長公記』
  道三と義龍の間に、大きな亀裂が入った。      『信長公記』
  義龍は、廃嫡されると思った。           『信長公記』

 ・弘治元年1555 *十月二十三日改元
  義龍は、弟たちを言葉巧みに誘い出した。      『信長公記』
  義龍は、弟たちを殺害した。            『信長公記』
  道三は、驚いた。                 『信長公記』
  道三は、山県へ退いた。              『信長公記』

 
第106話
 ・
弘治二年1556
  道三は、鶴山に陣を構えた。            『信長公記』
  信長は、道三を援けるため美濃大浦に布陣した。   『信長公記』
 ☆信長は、道三と同質の人物だった。
 ☆信長・道三・光秀、三人は同じタイプの男だった。
  戦いは、長良川河畔で始まった。          『信長公記』
  道三、討死。                   『信長公記』
  道三の首。                    『信長公記』
  義龍は、これ以後、范可と名乗った。        『信長公記』
  義龍は、父親殺しの極悪人である。         『信長公記』

 
第107話
 
 義龍は、大浦へ軍勢を差し向けた。         『信長公記』
  信長は、および河原でこれを迎え撃った。      『信長公記』
 ☆信長は、道三の死を知り撤退を決めた。       『信長公記』
 ☆信長は、鉄炮を手に殿に立った。          『信長公記』
  道三亡き後の信長である。
  義龍は、岩倉織田氏を味方につけた。        『信長公記』
  岩倉勢が清州城の近隣に放火した。         『信長公記』
  信長は、即座に、これに報復した。         『信長公記』
  信長の周りは、敵だらけになった。         『信長公記』
  岩倉勢が再び攻勢に出た。             『信長公記』
  信長は、これを撃退した。             『信長公記』



 ⇒ 次へつづく
   目次小 13上総介信長 7弟、信勝の謀叛 第108~109話 


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