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本能寺の変1582 第106話 13上総介信長 6道三の最期 天正十年六月二日、明智光秀が織田信長を討った。その時、秀吉は備中高松で毛利と対峙、徳川家康は堺から京都へ向かっていた。甲斐の武田は消滅した。日本は戦国時代、世界は大航海時代。時は今。歴史の謎。その原因・動機を究明する。『光秀記』

第106話 13上総介信長 6道三の最期 

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道三は、鶴山に陣を構えた。

 弘治二年1556。
 四月十八日。
 父子は、ついに戦うことになる。
 稲葉山から北へ一里。
 互いに、視認できる距離である。 

  明くる年(弘治二年)四月十八日、鶴山*へ取り上り、
  国中を見下し居陣なり。

   *鶴山 岐阜県岐阜市上土居近辺。 

信長は、道三を援けるため美濃大浦に布陣した。

 太田牛一は、「聟にて侯間」の一言だけで片付けている。

  信長も道三聟にて侯間、手合わせとして(これに合わせて)、
  木曾川・飛騨川舟渡りし、大河打ち越え、
  大良*の戸島東蔵坊構に至りて、御在陣。

  銭亀(余多の銭瓶を掘りだしたという)、
  爰もかしこも銭を布きたる如くなり。

   *大良 岐阜県羽島市正木町大浦新田

信長は、道三と同質の人物だった。

 父信秀亡き後の今。
 道三は、ただ一人の理解者だった。
 また、ピンチに陥った信長を、快く、援けてくれた恩人でもあった。

  【参照】13上総介信長 1信秀の死 91   
  
【参照】13上総介信長 4道三の援軍 101   102   

 信長にとって、道三は、何か、心の通じ合う、心の支えになるような、
 存在だったのではなかろうか。
 「同じ穴の狢」、である。 
 親近感のような感情を抱いていたように思う。

道三・信長・光秀は、同じタイプの男だった。

 三人は、ともに、骨肉相食む、戦国時代を生きた、戦国武将そのもの
 だった。

 当時の風潮は、その後に来る天下泰平の時代のそれとは、全く異質
 のものであった。
 そして、その延長線上に、現代の我々がいる。
 そのことを、よくよく、考慮しつつ、光秀という男を見るべきと思う。

  【参照】9光秀という男 1フロイスの証言 51   52   

戦いは、長良川河畔で始まった。

 同二十日、朝。
 多くの美濃衆が、道三に対して、反感を持っていた。
 道三は、国衆に見限られた。
 そのことが背景にあった。
 結果、道三方に、兵は集まらず。
 義龍方の兵数が大きく膨らんでいた。
 戦う前に、すでに、勝敗は、決まっていたのである。

  四月廿日辰の剋(=8時頃)、
  戌亥(いぬい=北西)へ向つて新九郎義龍人数を出だし侯。
  道三も鶴山をおり下り、奈加良川(長良川)端まで人数を出だされ侯。

 道三勢、奮戦すれども、・・・・・。

  一番合戦に、竹腰道塵、六百計り真丸(まんまる)になりて、
  中の渡りを打ち越し、
  山城道三の幡元(旗本)へ切りかゝり、散々に入りみだれ相戦ふ。


  終に、竹腰道塵、合戦に切り負け、
  山城道三、竹腰を討ちとり、床木に腰を懸け、
  ほろをゆすり満足侯ところ、

  二番鑓に、新九郎義龍、多人数、どッと川を越し、
  互ひに人数立て備へ侯。

  義龍備への中より武者一騎、長屋甚右衛門と云う者進み懸かる。
  又、山城人数の内より柴田角内と云ふ者、唯一騎進み出で、
  長屋に渡し合ひ、真中にて相戦ひ、勝負を決し、
  柴田角内、晴れがましき高名なり。

  双方よりかゝり合ひ、入り乱れ、火花をちらし相戦ひ、
  志の木(しのぎ=鎬)をけづ(削)り、鍔(つば)をわり、
  爰(ここ)かしこにて思ひ々々の働きあり、

道三、討死。

 最初は、生け捕りにするつもりだったらしい。

  長井忠左衛門、道三に渡し合ひ、
  打太刀を推し上げ、むすと懐(いだ)きつき、
  山城を生け捕りに仕らんと云ふ所へ、

 だが、・・・・・。
 これが梟雄の最期である。

  あら武者の小真木源太走り来たり、
  山城が脛を薙ぎ臥せ、頸をとる。
  忠左衛門は、後の証拠の為にとて、山城が鼻をそひで、退きにけり。

道三の首。

 義龍は、鼻の欠けた父親の首を実検した。
 多くの重臣たちの面前である。
 これが、戦国時代。 

  合戦に打ち勝ちて、頸実検の所へ、道三が頸持ち来たる。

義龍は、これ以後、范可と名乗った。

 中国の故事による。

  此の時、身より出だせる罪なりと、得道(得度)をこそしたりけり。
  是れより後、新九郎はんか(范可)と名乗る。

  古事あり。
  昔、唐に、はんかと云ふ者、親の頸を切る。
  夫者(かのもの)、父の頸を切りて孝となるなり。

義龍は、父親殺しの極悪人である。

 太田牛一の評である。
 そのことは、昔も、今も、変わらない。

  今の新九郎義龍は、不孝・重罪・恥辱となるなり。
                          (『信長公記』)



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