本能寺の変1582 重要 ◎第16話 天正十年六月二日、明智光秀が織田信長を討った。その時、秀吉は備中高松で毛利と対峙、徳川家康は堺から京都へ向かっていた。甲斐の武田は消滅した。日本は戦国時代、世界は大航海時代。時は今。歴史の謎。その原因・動機を究明する。『光秀記』
◎第16話 4光秀の苦悩 5分かれ道 1/3
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16 ◎ 17 ◎ 18 ◎
*以下は、重要ヶ所◎のみ抜粋したものです。
*加筆修正
◎信長は、苛烈だった。
厳しく、激しやすい性格だった。
特に、近年。
・・・・・。
予測、不能。
それは、ある日、突然、やって来る。
◎竹生島、参詣事件。
◎信長は、疑い深く、用心深い。
◎だが、稀に「隙」を見せることがあった。
天正九年1581、四月。
信長は、わずかな供廻りで安土城を発った。
四月十日、信長御小姓衆五、六人召し列れられ、竹生島御参詣。
長浜の羽柴筑前(秀吉)所まで御馬にめされ、
是れより海上五里、御舟にて御社参。
◎信長は、きわめて健康だった。
信長は、参詣を終え、その日のうちに帰城した。
「希代の題目なり」
並外れた、気力・体力の持ち主なのである。
海陸ともに片道十五里の所を、日の内に上り下り、
三十里の道、御帰城なさる。
希代の題目なり。
併(しか)しながら、御機力も、余人にかはり、
御達者に御座侯のところ、
諸人、感じ奉り侯なり。
ここで、事件が起きた。
遠路に侯へば、今日は長浜に御逗留侯はんと、
何れも存知のところ、
御帰り侯て御覧侯へば、
女たちは、慌てふためいた。
御女房たち、
或ひは、二丸まで出でられ、
或ひは、桑実(くわのみ)寺薬師参りもあり。
御城内は、行きあたり、もだえ焦(こが)れ、仰天限りなし。
◎信長は、女房衆らを誅殺した。
「御成敗侯なり」
女と雖も、容赦せず。
則ち、くゝり縛り、
桑実寺へ、女房ども出だし侯へと御使を遣(つか)はされ侯へば、
御慈悲に御助け侯へと、長老、詫言申し上げられ侯へば、
其の長老をも、同事に御成敗侯なり。
(『信長公記』)
◎その頃、光秀は丹後にいた。
亀山城を出発。
山陰道を通って、福知山から宮津へ向かう。
津田宗及らを同道。
四月九日に、
丹波亀山より奥郡へ通り申す路次中にて、方々振舞いこれ有り、
◎光秀は、福知山城に明智秀満を置いていた。
秀満は、光秀の最重臣。
娘婿である。
光秀には、適齢の娘が三人いた。
その内の一人が、荒木村重の嫡男村次に嫁いだ。
しかし、謀反により、離縁され、明智に戻された。
後、秀満に再嫁した。
同城にて、饗応があった。
四月十日朝、
福知山にて、明知弥平次殿の振舞、七五三の膳なり、
◎束の間の平穏。
急ぐ旅にあらず。
丹後への道。
長閑な景色を眺めつつ。
光秀一行は、ゆっくりと北上した。
四月十一日朝、 福知山より罷り出で候なり、
惟任殿御供申し候、
◎世俗を離れて。
◎光秀は、風流の人。
その途上にて。
ひと時を楽しむ。
風流の世界。
路次にて、福寿院(愛宕山下坊)振舞、
茶屋を立て、
生鮎・生鯉・鮒、せんすひ(さんすい)を俄(にわか)用意にて、
魚共をはなされ候、
是れも七五三、色々様々に振舞なり、
(「天王寺屋会記」)
⇒ 次へつづく
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「本能寺の変」
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