親から子への『愛』と「エゴ」
親子のつながりと親の愛をテーマに話をしたい。
※以外、『鎌倉うずまき案内所』一部ネタバレを含みます。
作品のあらすじや内容の説明はしていません。
子どもがやりたい夢について、信じることより心配が勝ち素直に応援してやれなかったことへの心情描写。
自分の考える「こうなればしあわせだろう」は、自分の想定範囲の押し付けであって、愛ではないことに気付いた場面。
親は愛するからこそ、子に先回りして色々とお世話したくなるらしい。
かわいい我が子が幸せになって欲しいという思いが起源なのだが、どういうことか一定の地点を過ぎると、愛はエゴになる。
過保護、または過干渉な親のもと育った子は大人になってから“自分自身”がわからなくなることが多いという。これまで“自分で決めた数”が少ないのだ。そこでいきなり就職や結婚などと、大きなものを提示されても路頭に迷う。
小さなことすら決めたことがない人にとっては、自分に合うもの・自分のしたいことを今更自分で考えて行動するということが、難しく感じてしまうのである。
愛するとは、あえて『〇〇しないこと』、そしてある程度放っておくことでもあるのだなと改めて思う。
だが、そういった親がこの『自由にさせてやる』ことができないのは、自分がこれまで手をかけて来ただけ今さら、子どもを一方的に“信じる”ことができず、過保護・過干渉をやめられないというループを辿っているみたいだ。
熱心にお膳立てをして来た親ほどなおさら、自分がいないと何もできない子だからと揺るがず動き続けて来ただけあって“ただ見守る”ことが絶対にできない。口を出さずにはいられない。
いつまでも自分を頼って甘えて来てくれる「何もできない子」でいて欲しいのだ。
そうやって自分を求めて来てくれると、親はいつまでも“子どもを世話する”ことに満たされるからなのだと思う。
親が子どものためにする何かの根源にあったものは間違いなく『愛』だったはずなのに、自分の「こうしたい」押し付けが混ざって来るとそれは「支配」といったエゴになりかねない。
子どもが自分で考えて選んでいく機会を奪うのは愛ではない。成長できなかったその子が、いつかの将来、先々で必ず苦労することが避けられないからだ。
人生は自分で選んで自主的に動いていかないと築けないものが出てくる。その時まで何の筋力も養われなかった人間が何を創っていけるだろうか。
親子間だけでなく、恋愛といった関係でもこういったことはしばしば起こり得る。
人との密接なつながりの中で行われる、『愛』と「支配」とは紙一重なのかもしれないと思った。
🔽生徒から教えられたこととある夏のエピソード
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tamura