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『球泥棒』


『球泥棒』


深く繁った熊笹の中からじじいが現れた。
土色の顔の歯の少ない汚らしい男である。
「おい、コラ!おめーら。うちの球を盗むんでねー、この。このガキんちょめがっ!」
と耳障りな濁声で怒鳴ると、右手のゴミ拾いトングの先端でチョンチョンと凌の二の腕を突いて、
「早く返せ、この野郎。あんぽんたん。返さねーと、おめーらの顔をぶん殴るからな、このぉ!」
と言って、地面に白濁した唾を吐いた。



間近で見るじじいの顔は肉厚で大きく、酒焼けした赤ら顔は、あられの鉄瓶のように肌がぼこぼこしている。そして、亀虫のような臭い息を吐いた。
「ごめんなさい。ぜんぶ、返しますから」
と言って凌は謝った。隣にいる中根君はうつむいたまま黙っている。中根君の手にぶら下がっている白いビニール袋の中には大量のゴルフボールが入っていた。それをじじいは力任せにひったくった。


山の麓に住んでいる凌の家の近くにはゴルフ練習場がある。そこは年中無休で営業している打ちっぱなしのゴルフ練習場であるが、そこの防球ネットがあまり高くないので、飛び出した球が周辺の田畑や畦道などに転がっていた。そのじじいはゴルフ練習場で雇われていて、頻繁に球を回収しているのだ。


夏休みの間、小学四年生の凌はクラスメイトの中根君と球拾いをして遊ぶことにした。拾った球は家に持ち帰り、庭の物置小屋の水瓶の中に隠してある。
無論、球拾いのじじいに見つかると怒られるので、ゴルフ練習場のぐるりをウロウロしているじじいの目をかいくぐって遊んでいた。しかし、たまにこうして見つかることがあり、大目玉を食うのである。


ある日、凌はいつものように中根君と田んぼ沿いの畦道で球拾いをしていると、中根君が昂奮して、


「凌ちゃん。田んぼの中に球がいっぱい落ちてるよ!白だけじゃなくて黄色もあるし、蛍光グリーンも見える。あー、ほしいなー、あの蛍光グリーン…」


と言った。田んぼの水中にはおたまじゃくしがうようよ泳いでいて、太陽でキラキラと光る球がいくつも確認できた。凌は乱雑に生えた雑草を踏みしだきながら、「長靴を持ってくればよかったね。手を伸ばしても全然取れないや。木の棒を使うか」と言って、適当な木の棒で水底の球を手繰り寄せようと何度も試みるが、水面のアオミドロが邪魔をして、思うように球がこちらに近づいてきてくれなかった。


「中根君。だめだ、取れない。無理そうだよ」
「靴下を脱いで入っちゃう?球の掴み取りだ!」


と言って、中根君はにこにこしたが、すぐに険しい顔になると、「あ、じじいが来たぞ」と言った。


カーキ色のリュックを背負い、右手にゴミ拾いトング、左手に竹籠を持ったじじいは、畦道の向こうから、きょろきょろと下を見ながらこっちに向かって歩いてきた。トングで草を掻き分けながら、丁寧に球を探している。凌は中根君に目で合図をした。
二人は走って逃げた。凌は家を出る前に食べた焼きそばが胃の中で小躍りしていて、段々と吐き気を催したが、全力で走りながら地面に落ちている球を抜け目なく四個ほど確保して、汚い麻袋に入れた。


田んぼ沿いの畦道はしばらく続いているが、やがて、傘型に枝葉を広げた一本の立派な松の木がある。そこは里山の山道の登り口になっていた。
急峻な上り坂の山道は両側が切り立った崖になっていて、土が剥き出しの狭い一本道が蛇行している。崖の上は高い杉林がひしめき合っているので日射しが遮られて些か涼しいが、陰気な雰囲気だった。


「ここまで来れば、もう大丈夫だろ。相手はじじいだから、ここまで登って来れないでしょ!」
「そうだね。もし、登ってきてものろまだろうから絶対に捕まらないよ。中根君、焙煎茶飲む?」


凌はそう言うと、首に紐でぶら下げている水筒を中根君に渡した。中根君は喉を鳴らしてうまそうに焙煎茶を飲んだ。中根君の目が異様に澄んでいた。
すると、中根君はズボンのポケットから、らあめんババアを取り出して、「これあげるっ」と言った。
山道の中途から眺められる景色が美しかった。
強い日射しを受けた下方の草地の上には陽炎が立っており、遠くに見える緑の山々の濃淡が鮮明だった。その山々の上を流れる雲の影が山肌に映っている。凌は喉が痺れるほど強炭酸のサイダーを飲みたい気分になっていた。いかにも夏らしい夏だった。


中根君の目論見通り、じじいは山道にやって来なかった。山道にも球がたくさん落ちている。二人は球を拾いながら、ゆっくりと山道を降りていき、山道の登り口にある松の木陰で休息していると、
「また会ったな、ガキども。ん?何だそれは?」
という声がしたので二人が振り返ると、そこにはじじいが立っていた。周囲に人の気配を全く感じていなかった凌は血の気が引いて卒倒しそうになった。
「おめーら、そんなに球を集めてどーすんだ?」
そう言って、じじいは底意地の悪い笑みを浮かべた。その肉厚の赤ら顔は、何度も見ても見慣れることがないくらい醜悪であり、人間の思考力を破壊するような至極不愉快な人相をしているのである。



すると、利口な中根君は機転を利かせて、
「あ、これですか?これはですね、おじさんのために僕たちが集めておいたんです。ほら、おじさん、この辺りでいつもひとりで球拾いをしているでしょう。それを見ていた大変そうだったから、僕たちが少しでも力になれればと思いまして。ボランティアで拾っていたんです。余計なおせっかいでした?」
と真面目な口調で言うと、じじいに麻袋を渡して、「これ、もしよければどうぞ、全部」と言った。



いぶかしげに中根君の顔を見ているじじいは、
「おめー、まさか、わっしに嘘ついてんじゃねーだろーな。嘘つきは泥棒の始まりだからなッ」
「泥棒だなんて人聞きが悪いです。いやいや、嘘じゃないですよ。本当です。全部、おじさんのためですから。僕たちのことを信じてください!!」
と切り口上で言うと、じじいは渋面で傍らの倒木に腰をおろした。そして、片方の長靴を脱いだ。炎天下で球拾いをしていると、長靴の中に汗が溜まるらしい。じじいの汚い足から刺激臭が漂ってきた。



「あら、ホントかい?こんなにいっぱい、わっしのためにおめーらは探してくれたのか?それはありがたい。そうかそうか。それはかえって悪かったな。あんちゃんたちも疲れただろう。わっしはだいぶ助かったよ。そういや、前にどこかで会ったとき、あんちゃんたちのことを泥棒扱いして申し訳なかったね。まあ、気を悪くしないでくれや。ほれ、これはわっしからの気持ちだ!遠慮せずに食べてくれ」



上機嫌になったじじいは歯の少ない口を開けて、うひゃひゃひゃと高笑いし、背負っているリュックの中から台湾バナナとラムレーズンの板チョコを出した。じじいは仕事中に軍手をしているが、軍手を外すと、右手の中指の生爪が剥がれており、剥がれた部分が盛り上がった黄土色の肉の塊になっていた。それを目にした途端、凌は些か気分が悪くなり、バナナと板チョコを受け取るときに嘔吐を催した。


その後、じじいからもらったおやつを食べることにした。無論、凌と中根君にとって天敵であるじじいからもらったものを積極的に食べたいとは思わないが、そのときは炎暑のせいもあり、体力の消耗で無性に腹が減っていたのだ。しかし、凌がバナナの皮を剥くと中が犬の糞のような色になっていて、中根君が板チョコの銀紙を破ると中が半分溶けていた。しかも、チョコのラムレーズンに蛆がわいている。
「げげえ。なんだよー、これ!」
と声を尖らせた中根君は、すぐにそれを前方の草むらに放り投げた。凌もバナナを食べずに捨てた。
「あのじじい。次、会ったらぶっ殺す!」
とうそぶいた中根君は、傍らに転がっている蟻が群がったオニヤンマの死骸に勢いよく小便をかけた。


翌週の球拾いは、いつもの田んぼ沿いの畦道や山道ではなく、畦道から少し離れたところにある小川を探索した。小川へ行くには畦道から外れて深い茂みに入り、茂みが切れた先にある三メートルほどの急傾斜の崖を降りなければならなかった。小川は貧弱であり、川幅が狭くて水も浅い。しかし、静かに流れる水の音が爽やかであり、清洌だった。メダカが泳いでいる。小川に手をつけると気持ちよかった。
二人は両岸にシダが生えている川べりを歩きながら球を拾った。思いのほか球が少なかった。膠着した川の泥に半分埋まっている汚れた球ばかりだった。
その中にきらきらしたラメが入った透明のスーパーボールも落ちていた。凌はそれを拾い上げて、川の水で洗っていたとき、崖上の茂みがガサガサと音を立てたかと思うと、二人の男の声が聞こえてきた。


その声はあの球拾いのじじいとゴルフ練習場の社長だった。社長は左の目尻に西瓜の種ほどの大きさのホクロのある奇岩のような顔をした七十すぎの男である。じじいは草刈り鎌で伸び放題の雑草を掻きわけながら、落ちている球を隈なく探している。


「……近頃、あまり球がねーんです」
「そんなわけがないだろ、タコ!よく探せ、このあんぽんたん!役立たずの野ネズミ以下ッ!」
「へい。すみません。しかし、社長、本当に前より球が減ってるんです。しこたま落ちていた球をあまり見なくなりました。わっし、心当たりが…」
「なんだと、この野郎!おめー、一生懸命に仕事をしってかぁ?ぼさっとしてたら、目玉えぐるぞ」
「へい。だから、わっしに心当たりが…」
「でも、言われてみればそうだな。前はあっちこっちに球があったもんな。何だ?言ってみろ!」
「球を盗むガキんちょがいるんですよ、社長。よく、この辺りをうろちょろしている小学生が球を拾ってるから、うちの球が段々減ってるんですわ」
「何ぃ!低脳で童貞のガキどもだとぉ!馬の糞より存在する価値がない畜生どもだ。くそっ。おめー、早くそいつらを見つけろ。とっ捕まえて、青くさい頭蓋骨が陥没するまで七輪でぶん殴ってやる!天に唾するとはまさにこのことだ。うひゃひゃひゃ」



などと言う彼らの野蛮なやり取りが崖上から聞こえてきた。これはまずいことになった、と肝を冷やした凌は中根君に耳打ちして近くの岩陰に隠れた。
そこで息を殺して、彼らがいなくなるのを待った。しかし、彼らは崖上の茂みから全然離れなかった。
凌は身震いしながら、どうか助けてください、とこんなときだけ心の中で神様に土下座をしていると、
社長が下唇を突き出しながら、しゃがれ声で、



「しかしよー、おめー、考えよーによってはあれだな。その童貞のガキどもは、その辺にいっぱい転がっているうちの球を持ち帰ってるんだろ?んだったら、早い話、球が外に出ないように、うちの防球ネットの高さをあげた方がよくねーか?張り替えなんかで施工費がかかっけどよ、どうせ台風とかでネットが損傷しているし、しゃーねーべ。球が大事だし、何よりも飛び出し事故の防止になるからな!」
「へい。わっしは最初からそう思ってました…」
「なんだと、おめー。この、でくのぼうがッ」
「すみません、社長。でも、防球ネットを高くしたら、わっしの仕事がなくなるのでしょうか?」
「あたりめーだろ、ボケカス!守銭奴!おめーは解雇だ、このやろう。今まで雇ってやっただけ、ありがたく思え、老ぼれじじい。じゃあ、さよなら」


と言って、じじいをあっさり解雇した社長は鼻糞をほじりながら、演歌を口ずさんで去っていった。
じじいは、「社長、おい、待ってくれよ…」と呼びかけたが、社長は空咳をすると、耳の遠いばあさんのような手の仕草をしながら、「今、何か言ったか?キジバトかなんかが啼いたのか?」と冷淡だった。近くの森からカラスがバサバサと飛び立った。


球拾いのじじいは目色を変えて鋭い草刈り鎌をふりかざすと、社長の痩せた背中に刃が隠れるほど深く突き刺した。がくりと後ろへ首をのけぞりながら倒れた社長は声を全く漏らさなかった。背中に鮮血が広がる。のみならず、じじいはズボンのポケットに忍ばせた二本の折釘を社長の目玉に突き刺したのだ。青白い顔をしたじじいは手を震わせながら、


「ふざけんな、このやろうッ!長年、わっしはこの仕事に誇りを持ってやってきたんだ。今では、たとえ、目をつむっていても、トングの先端の感覚でどこに何色の球があるのかわかるほど、球拾いに関しては天才的に感覚が研ぎ澄まされているんだぁ。これまでに何万個と球を拾ってきたんだぁ。それをこのくたばり損ないはとりつく島もなく、わっしを一瞬で捨てた。愚弄にした。嘲笑した。死んでも許せねーぞぉ。末代まで呪い殺してやっからァ!!」


悲憤慷慨したじじいの血色の悪い唇はカサカサに乾いていた。岩陰に隠れて怯えている凌と中根君の耳元では縞蚊がうるさく啼いている。崖上の茂みから涼しげな虫の音が聞こえていた。凌は赤ん坊の頃、誤ってタンスの角にぶつけたときにできた左頬の小さな傷跡を指の腹で撫でながら、天に唾するか、とつぶやいて、神妙な顔をした。妙に冷静な側面があった。また、目の前に生えた短い草の太い茎には夥しい数のアブラムシがついており、人が人を殺し、ありふれた平凡な日常が忽ち豹変してしまう最中でさえ、このアブラムシたちは無関係に太い茎の上で平然と蠢いているということが奇妙に感じられた。


夕闇が迫ってきた。ヒグラシが啼いていた。
気味が悪いほど崖上の茂みが森閑としていて、物音ひとつしなかった。やがて、日が落ちた。

翌朝、球拾いのじじいが警察に捕まった。凌は球拾いをやめて、ゴルフ練習場に近づかなくなった。
そして、秋になると、防球ネットが高くなった。


          〜了〜




愚かな駄文を最後まで読んでいただき、
ありがとうございます。
大変感謝申し上げます。


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