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『仮清掃員』


『仮清掃員』


見たことがない甲虫の死骸なんかが転がっているトイレの中は蒸し暑かった。今日は私の誕生日だというのに、朝六時からクリニックのトイレ掃除をしている。今は七時半をすぎていて、派手に汚れている二階の男子トイレの個室の便器に手こずっていた。

汚い。本当に汚い。でっかい糞が穴につかえて流れていかない。こんな漬物石みたいな硬すぎる糞をするヤツはどんな野郎だよ。腸内環境がよほど悪いんじゃないか?というか、自分の糞を放置するってどういう神経してんの?そういう癖があるのかな…

そう思った私は、強引にその糞を三つに砕いて流してやり、毛先の広がったトイレブラシで黄ばんだ便器を力強く擦った。汗がだくだくと体中に流れている。ドアを開放して清掃しているのだが、糞の臭いがひどいので、マスクをしていても嘔吐を催した。口の中で溢れる唾さえも糞臭くなっているような気がする。マスクをずらして洗面台に唾を吐いた。
便器の内側にふきかけたトイレクリーナーが忽ち白い泡になり、黄ばみが少しずつ落ちていくが、便器の底では黄土色の汚水がギラギラと不潔に輝いていた。それを見ていると憂鬱になり、まるで自分だけがこの世の底にいるかのようなみじめな気持ちになった。自分は誕生日にここで何をやってるんだ。生きていることが甚だ虚しい。もう辞めようかな。

と厭世的な気持ちになり、陰気な顔をしていると、
「田邊君、水を流すときはきちんと便器の蓋を閉めろッ!蓋を閉めずに水を流すと、菌が空気中に飛散するからな。あと、メシにする。はやく来いッ!」
と言う野太い声がしたので振り返った。トイレの入口には深谷さんが仏頂面で立っていた。そして、私たちは二階のフロアの監視カメラの死角になっているエレベーター脇のスペースで朝飯を食べた。

七十をすぎている白髪頭の深谷さんは常に仏頂面であり、口調は荒っぽいが、心根の優しい人だった。毎朝、コンビニで私の分まで惣菜パンとペットボトルのコーヒーを買ってきてくれるのである。そして、絶対に私からお金を受けとろうとしなかった。

「このピリ辛のソーセージパンは何度食ってもうまいな。やみつきになる。田邊君も好きだろ?」
「うまいです。いつもごちそうさまです。次は、新商品のちくわパンでお願いします」


と私が冗談で返すと、深谷さんはケチャップとマスタードのついた口元を舌で舐め回してから、
「なんだおめー。ずうずうしいヤツだなッ」
と言って前歯のない口を開けて豪快に笑い、満足げにコーヒーをぐびぐびと飲んで、げっぷをした。


しばらくすると、出勤してきた事務局長の山田という五十半ばの中年太りの男が、黙々とフロアの清掃をしている私たちにずかずかと近寄ってきて、
「おはよう、深谷さん。あのさ、部屋のドアノブ、エレベーターのボタン、廊下の手すりは人の手が触れるところだから、入念に消毒液で拭いておいて。あと、この前も言ったと思うんだけど、裏の非常階段の汚れが気になるからちゃんとやって。ほら」
と言って、わざわざ自分のスマホで撮影した非常階段の写真を私たちに見せてきた。階段の踊り場などに溜まっている埃や髪の毛や小石が写っている。

おはようございます、事務局長!それはすみませんでしたッ!今日中に二人で清掃しておきます!

そう言って、深谷さんは人が変わったようにペコペコした。深谷さんは山田にかなり気を遣っていて、山田の前では平生の仏頂面を崩して笑顔を見せて笑った。しかも、山田のつまらぬ冗談の一言にも、ひゃひゃひゃひゃひゃと過剰な笑い方をするのだ。
私はそんな彼らのうわべの会話を傍で聞いていて、片腹痛かった。山田がいなくなれば、深谷さんは山田の悪口を死ぬほど私に言ってくるからである。


私たちはエレベーターで三階へ移動した。
私はトイレ掃除をし、深谷さんはフロアの掃除機がけをしていた。すると、待合室から、「ちっ、またかよ!クソがッ。これはもうダメだ!」と言う苛立つ声が聞こえてきた。深谷さんが使っている掃除機は使い古しているせいで、近頃、調子が悪い。
突然、電源が落ちたり、延長管の部分が簡単に外れてしまうのだ。以前、深谷さんが清掃会社に相談したのだが、会社は新しい掃除機を用意してくれなかった。私たちの要望などは完全にスルーだった。
また、この仕事の時給は県の最低賃金であり、一日四時間だけのアルバイトなので、月に六万くらいしか稼ぐことができない。しかし、失業中の私は次の仕事が見つかるまで、これで糊口を凌いでいる。



すると、ナースステーションから出てきた看護師長の五十くらいの女性から声をかけられた。この女性は、いかにも気の強そうな狷介な顔をしており、私たちに挨拶をしない。のみならず、「トイレ内に髪の毛が一本でも残っていたらアウト」という厳しい清掃レベルを要求し、清掃の細かなミスがあればそれを非難し、頻繁にクレームを言ってくる面倒な人だった。私たちは看護師長のことを嫌っていた。
「ちょっと、あなたたち!今朝、一階の受付のところの掃除機がけをしたのはどっち?」
「お、おい、田邊君だよな?掃除機がけをやったのは?……何か問題でもありましたか?」
深谷さんはあきらかに動揺し、弱々しく背中を丸め、左肩をがくっと落とした情けない姿勢で私の顔を見た。日に焼けた首にはタオルがかけてある。
「大問題よ!本当に困ったんだから!今朝、わたしが出勤して一階に行ったら、受付のパソコンの画面が消えていたの。おかしいと思ってデスクの下を見たら、下のコンセントがすっぽり抜けていたのよ!わたし、びっくりして悲鳴を上げそうになったんだから。だって、パソコンがすぐに立ち上がらなくてさ。朝一番で予約をしていたお客様が早めに到着していたから、本当に焦った!あのね、あなた。いい?掃除機がけをするときはコンセントにぶつからないように気をつけてやりなさい!不注意すぎるのよ。もう。何の役にも立たないんだからッ」
などと言って、ヒステリーになって騒いだ。
「申し訳ありません」
「申し訳ありません」
私たちは平身低頭して謝った。
ただただ謝るしかなかった。
ぶつぶつと文句を言いながら、ひとりで昂奮している看護師長に何度も頭を下げながら、さっさとこの説教が終わらないかな、と思っていた。
同じように頭を下げている深谷さんのことを横目で見ると、その顔はついぞ見たことがないほど険しい顔であり、苛立ちに満ちていた。それはミスをした私に対する苛立ちというよりは、看護師長に対する苛立ちなのだということを私はすぐに理解した。


ついに深谷さんが看護師長に激昂し、胸倉を掴んで罵声を浴びせかけ、さらに馬乗りになって暴力をふるうのではないだろうかとはらはらしていた。
しかし、看護師長はそんな深谷さんの様子に頓着することなく、むしろ、攻撃を畳みかけるように、
「あれ?そういや、掃除機担当はあなたじゃなかったっけ?」
「いや、その……」
と深谷さんが言いよどむと、
「どうなのよ?ねえ?」
と言って看護師長は深谷さんに詰め寄り、虫けらでも見るような嫌な目つきでにらみつけた。
深谷さんは少し黙っていたが、やがて、自分の喉仏を痩せ細った手首の内側で触りながら、
「ゴホッ、ゴホッ…いえ、基本的にはそうなんですが、たまに一階だけは田邊君にやってもらうことがあるんです。ゴホッ。というのも、今朝は、わし、いや、私、ゴホッ、正面入口の窓ガラスを拭くことに集中したくて…ゴホッ。というのも、昨日、帰るときに事務局長から頼まれていたものですから。ゴホッ、ゴホッ。だから、今朝は一階の掃除機がけを、ゴホッ、田邊君にお願いしていたわけなんです…ゴホッ、ゴホッ、ゴホッ、ゲ、ゲホッ!」
などと言いながら、急に苦しそうに咳をする深谷さんをしらけた顔で見ている看護師長は、
「あら、そう。わたしはてっきり、院内の掃除機がけは全部あなたがやっているものだと思っていたから……へえ、そうだったの。へえ、そうー」
とすっとぼけたような感じで言うと、わざとらしく咳払いをして、少し間をとって、
「…しかし、あなたも大変ねー。傍から見ていると、どう考えても仕事量がこの人より多いじゃない。大丈夫?あなたの前任者のおばあさんはトイレ掃除ばかりやらされて、仕事中に倒れて辞めたのよ」
と言いながら私の顔を見て、意地悪な笑みを浮かべた。私は何とも返しようがなかった。否定も肯定もできなかった。無論、隣にいる深谷さんの顔を見ることができなかった。私は真横の壁に貼ってある「マスクの正しいつけ方と咳エチケット」という医療ポスターを鬱然とした面持ちで見ていた。


看護師長が去ると、何とも言えぬ居心地の悪い空気だけが残った。深谷さんの烈しい苛立ちが滲み出た皺の深い顔がひどくゆがみ、皮膚が赤銅色になっていて恐ろしかった。すると、突然、深谷さんがマスクを乱暴に外して手のひらでくしゃくしゃに丸め、下唇をぷるぷると震わせながら声を押し殺して、
「許せねぇ、あのやろう。言わせておけばつけ上がりやがって。絶対に許せねぇ。あのクソババア…」
と言うと、足元にある掃除機の吸引ホースを足で踏みつけて、「今にみてろッ!」と言い、掃除機本体を蹴飛ばした。ガタン!という音が廊下の端まで響いた。案の定、その衝撃で、外れやすくなっている掃除機の延長管が抜けて、あさっての方向に飛んでいった。また、蹴飛ばした掃除機本体が思いのほか硬かったらしく、「あいたァ。クソ、クソ、クソ。足の爪が割れたかもしれねぇ。クソ、いてぇ!」という悲痛の声を漏らして悶絶する深谷さんは、床にうずくまってしまった。私は深谷さんに謝った。
しかし、深谷さんは私を怒らずに、「いや、いいんだ。次から気をつけてくれ」とだけ言った。


四階へ移動したとき、私がトイレ掃除で使っているモップかずっしりと重かった。今日はこのモップをまだ一回も洗っていない。モップの先端の替え糸が真っ黒になっており、見るからに不衛生だった。
だから、フロアの廊下の突き当たりにある流しでモップを洗おうと思っていると、深谷さんが指で鼻毛を抜きながら、長い溜め息をついて、
「あと何日だ?」
「何がですか?」
「いや、今日で何日目だったっけ?と思ってよ」
「ああ。今日は火曜なので、まだ二日目です」
「あと、三日かぁ。今週は妙に長く感じるな」
「すでに疲れましたね…」
「わしは田邊君と違って年寄りだから、よけいに疲れる。足腰が痛くてね。近頃は背中も痛いんだ。再来年くらいにはお迎えがくるのかもしれねーな。わしは早く極楽へ行きたい。社会に殺された人生はもう疲れた。生活に殺された人生はもううんざりだ。田邊君はまだ若いんだから、こんなところにいない方がいい。もっと他に行くところがあんだろ。田邊君にとって、ここは長くいるべき場所じゃない」
と言うと、目尻に皺を寄せて笑ったが、その笑顔の奥にどこか寂しさを感じた。私はなんとなくつられて笑ったが、胸の中は苦しかった。無論、最初から私はここに長くいるつもりはなかった。他に仕事がないからここにいるだけなのである。ここで働いてもうすぐ一年が経つのだが、私はいつまでここにいるのだろうか。私自身も到底わからないのだ。


そのとき、事務局長の山田が歩いてきた。
「あのさ、三浦さんたち。ちょっと、いい?」
山田に誰かと名前を間違えられて呼ばれている深谷さんは戸惑い、目に異物でも入ったかのように顔をしかめていたが、苛立たずにつとめて冷静に、
「はい、事務局長!何でしょうか?」
「三浦さんたちって仕事、何時までだっけ?もしかしてもう帰る時間だった?じゃなければ、一箇所、やってほしいところがあるんだわ。客の誰かが一階のトイレを詰まらせたみたいで、汚水が逆流してきて床にも汚水が垂れ流れていてさ。たまにある迷惑行為だよね。それを片づけておいてくれない?あ、処置室の前にある共用トイレの方だから。三浦さん、よろしく頼む。おにいちゃんの方も頼むな!」
山田は半笑いでそう言うと、去っていった。
私は山田が深谷さんのことを「三浦さん」と呼ぶたびに胸がチクチクと痛んだ。名前を間違われている深谷さんは山田に訂正することはせず、三浦さんのままでおとなしく話を聞いて、うなずいていた。


虚ろな目をして棒立ちになっている深谷さんは、
「アイツ、わしのことを三浦と言ったな。わしはここで五年も働いているんだぞ。頭が悪いのか?」
「自分はここの人たちに名前で呼ばれたことは一度もありません。挨拶もよく無視されるし…」
「それはあのバカどもが田邊君の名前を端から覚える気がないからだろ。下手したら、わしの名前もわからないヤツが多いかもな。ははッ、まあ、どうせアイツらからしたら、わしたちなんて清掃員Aと清掃員Bくらいの認識しか持たれていないんだろう。ああ、タバコ吸いてぇ。アイツらにとって、わしたち清掃員なんぞ使い捨てのボロ雑巾みたいなもんだ。バカにしてやがる。だから、朝の挨拶も平気で無視するんだろう。そして、たいしたことがないミスを見つけて揚げ足を取り、いくらきれいに清掃しても何の評価もされず、お礼のひとつも言われたことがない。アイツらからしたら、わしたちは清掃員じゃなく、せいぜい、仮清掃員ってところだろうな」
そう言うと、床に転がっている小さな虫の死骸をゴム靴で踏みつけた。苦渋に満ちた顔をしていた。


私は泥水でずぶ濡れになったかのように全身が重かった。頭を烈しく掻きむしり、中途半端に伸びた無精髭を手の甲で荒々しく撫で回すと、歯がぐらぐらと揺れるような不安な気持ちが胸に押し寄せてきて泣きそうになった。同時に、足元からすーすーと寒気がしてきたので、左右のくたびれたゴム靴を乱暴に脱ぎ捨てると、どちらの靴の中敷きも元々白だったものが真っ黒に変色し、ペラペラに薄くなっていた。私はまぶたを閉じて、クソだ、とつぶやいた。


          〜了〜




愚かな駄文を最後まで読んでいただき、
ありがとうございます。
大変感謝申し上げます。


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