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『残高不足』



『残高不足』


無職の私にはお金がない。
銀行の貯金残高は千八百七十四円だし、財布の中には百七十六円しかなかった。
だから、今の私の全財産は二千五十円なのである。
「割とキリがいい数字かもしれないね、あははっ」
なんて悠長なことは言っておられず、かろうじて生活していられるのは実家暮らしのおかげであり、毎朝、リビングで母と顔を突き合わせては、「就職活動はどうなの?今、何社くらい受けてるの?」などということを耳にタコができるほど言われていた。


先日、私は中学の同窓会に誘われたが断った。
第一お金がないし、面倒くさいし、会いたい人もいなかった。特に担任だった先生なんかには絶対に会いたくない。本当に会いたい人がいれば、わざわざ同窓会で会わなくても個人的に会っている。
しかも、今の私は無職なので、よけいに参加したくなかった。なぜなら、私は大学卒業後、就職活動に全敗した身なので、何も誇れるものがないし、今のところ、特にやりたいことや目標なんかも皆無なので、同級生たちの得意げな社会人トークなんぞを長々と聞いていたら、眩暈がして気絶するだろう。


早々に人生の進路を決め、なりたい職業に向かって突き進んでいる人には敵わない。みたいな世の中の風潮をひしひしと感じるが、私なんかは鈍足の遠回りで人生を非効率的に歩むタイプなのだろう。しかし、それが私という人間なのだからしょうがない。


ということで、お金がない私は、今週末に支払わなければならない携帯電話料金を確保するために、一日だけのアルバイトをすることにした。ネットで見つけた日給一万円くらいの日払いの仕事である。


翌日、朝六時に指定された駅前のロータリーへ行くと、派遣会社の二、三台の送迎バスが停まっており、スーツの中年男から乗るように促された。
バスには私と同じ二十代の男女から五十後半くらいのおっさんまで乗っており、皆、死んだ魚のような目をして、スマホを見るか、窓の外を見ていた。
朝日が眩しい。目の奥に沁みる。朝は何も食べていない。腹が減ったなあ。と思っていると、送迎バスの運転手のおっさんが、「出発しまーす」と感情のない声で言った。バスの中はほとんど空席がなかったが、なぜだか、私の隣の席には誰も座ってこなかった。私は勝手に疎外感を覚えて、憂鬱になった。


バスは駅前から郊外へ走り、市内を出て、隣県の深い山の中に入っていくと、鼠色の大きな建物の前で停車した。すると、さっきの派遣会社のスーツの中年男が、「さー、早く降りてくださいね。すぐに仕事が始まりますのでー」と拡声器で皆に伝えた。


鼠色の大きな建物はフルーツゼリー工場だった。
完全防備の白い作業着に着替えた私が、工場内に足を踏み入れたときには、既に何十人というおばちゃんたちが方々で作業をしていた。皮膚が出るのは目の周りだけだが、皆、獰猛な目つきをしていた。
しかし、工場内はフルーツの豊潤な甘い香りが漂っていて、数分そこにいるだけで、頭が少しぼんやりしてくる。朝が早かったせいもあるのだろう。



私は、その日がはじめてなので「新人君」として、皆の前で軽く紹介され、その後、社員から簡単に仕事内容の説明を受けた。どうやら、私は、あるラインに入り、ベルトコンベアを流れてくる空のゼリーカップの中に果肉を入れる作業をするらしい。
商品ごとに決められた果肉量をひとつひとつ手作業で正確に投入しなければならないのである。
各ラインごとに、ぶどう、さくらんぼ、りんご、桃、マンゴー、枇杷、メロン、パイン、グレープフルーツ、杏仁豆腐、ナタデココなどがあるが、私はみかん担当になった。流れてくる空のゼリーカップにみかん三房を正確に投入していくのである。


すると、ラインに入った私のすぐ背後に五十くらいのうずらの卵みたいな顔のおっさんが無言で立っていた。ゴム手袋をした私が、慣れない手つきで、手元の山盛りのみかんが入っている白のトレイから三房掴んで、空のゼリーカップにせっせと投入している様子をまじまじと見てくるのだ。そのおっさんは私の監視役らしい。私は内心、「後ろに立たれてると鬱陶しいなぁ。さぼらずにちゃんとやるから、もうどっか行ってくれよ」と思いながら、一時間ほど作業をしていたが、それでもそのおっさんは私の手元を見ていた。そして、時折、「おい、もっと早くしろ」だの「今、一房足りなかったぞ」だの「みかんが終わったら、次は枇杷だからな」だのと言って、耳元でささやいてくるので、私は苛々していた。「やかましいわ。ギックリ腰かなんかで動けなくなって、家でうどん食いながらミヤネ屋でも観とけ!」と何度か言いそうになった。挙句、おっさんは、「ちんたらしてると、おまえのケツを足で蹴っ飛ばすからな」と脅しつけてきたので閉口した。


昼休憩になり、工場の敷地内にある割と広い食堂に行くと、私と同じように新人らしい木村さんという二十歳くらいの丸顔の女性がひとりで天ぷらそばをすすっていた。木村さんに話しかけると、「わたし、今、離職中なので、繋ぎでやってますが、三日で嫌になりました。わたしはずっとマンゴー担当ですが、終日立ちっぱなしで足腰が痛いし、周りのおばちゃんたちは慣れているから、手の感覚でぱっぱと果肉を投入しているけど、わたしは手鈍いからよく怒られます。もうマンゴーを見るのも匂いを嗅ぐのもしばらくはいいです。来週からはもう来ないと思います…」と苦笑いで言うと、席を立った。
木村さんが使っていたテーブルの端に「胸でかくなりたい」という殴り書きのラクガキがあった。


その後、ひとりで男子トイレに行くと、さっき、私と同じラインで、慣れた手つきで杏仁豆腐を投入していたラモーンズの古着Tシャツを着た、三十くらいの坊主の強面の男が、私に話しかけてきて、
「にいちゃん、今日、はじめてなんだって?ここ暑いでしょ。塩の山を登るかのようにやたらと喉が乾くよね。くれぐれも脱水症状には気をつけな!オレはここで半年くらいやってるけど、あと少しやったら辞めるつもりなんだ。元々、飲み屋を経営したくて、それの資金稼ぎのためにやってんだッ」
と言った。私は「そうなんですね」としか返せなかった。男の両腕にはびっしりとタトゥーが入っていた。男は去り際、「にいちゃん。この仕事つらいだろーけどよ、午後もお互いにがんばろうぜ。すべては金のためと夢のためさ。社会に負けるなよ!」と言って、澄んだ目をして、にかっと笑った。
私はその男の優しい言葉と笑顔に心を救われた。
午後からもがんばろうと思いながら放尿した。



夕方頃、その男は、午前中に私の背後で監視をしていたうずらの卵みたいな顔のおっさんと作業上のことで口論になり、おっさんの顔をぶん殴った。そして、男は仕事を放擲してひとりで帰っていった。
なんとも後味が悪い一日だけのアルバイトだった。


          〜了〜



愚かな駄文を最後まで読んでいただき、
ありがとうございました。
大変感謝申し上げます。


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