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「NO SIGNAL(ノーシグナル)」自由と孤独と自然と都市と人につ いて/〈来るべき都市〉のために/「街を出て、大自然の中で暮らすことを選 んだ10人の生き方」

日々のあれこれに押し流され、渦巻く流れの中に溺れそうになる時がある。
必死になって流れに逆らい泳いで泳いで目的地へ辿り着こうとして、泳ぎ切ったとしてもそれが終わることなく延々と続くことが分かっているとしても必死に足掻いて藻掻いてジタバタして向こう岸に泳ぎ切ろうとする。わたしがわたしであることを証明するために。溺れながら泳ぎ、泳いでも溺れて。

でも、でも、何もかもがいやになって、何もかも放り出して、ここではないどこかへ行きたくなる時がある。ここではない場所、あそこでもなく、ここでもない、全ての彼方にある誰も存在しない地平線と水平線の向こう側の、遠い場所へ。世界の仕組みの外側にある遠く深い世界の果ての場所。背負っている荷物を下して、全部をすてて、自由になりたい。そう思う時がある。こころの底からそんな叫び声がする。自由に、自由に、世界の向こう側へ。

そんなことができるはずもないことが分かっているのに。それが身勝手な我が儘でしかないとしても。それが酷い裏切りと分かっていても。それが少なからずの人を深く傷付けることであるとしても。それでも、だからこそ、叫びたくなる時がある。夜空に向かって、吼えたくなる時がある。突き破るようにドアを開け走り出して、自由よ、おまえは何処にいるのだ!自由よ!と

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No.1:そんな時、この本がわたしの前に現れた。/「街を出て、大自然の中で暮らすことを選んだ」10人/自由のために自分が自分自身になるために

そんな時、わたしの目の前に、この本が現れた。この本を見つけた。この本がわたしを見つけてくれた。この本はわたしに遭遇するために待っていた。

自由になるために自分が自分自身になるために「街を出て、大自然の中で暮らすことを選んだ」10人のそれぞれの生活がひとりの写真家の手によって写真と文章で描かれている。取材に約5年の期間をかけ彼ら彼女らと生活の一部を伴にした作者ならではの、親密でありながらも一定の距離が保たれた偏りを慎重に取り除いた丁寧な心地よい本となっている。記録/旅行記/写真集

10人の人たちのその暮らしを選んだ理由や事情は全く異なっている。その生活のありようも大きく違っている。何か統一的な考えに基づいてそうした人生の選択を行った人たちの話を期待してはいけない。そのため肩透かし的感じを受けるかもしれない。また、書かれた文章はその生活の実際や彼ら彼女らの思いの奥底を伝えるにはいささか物足りないかもしれない。それは作者の力不足と言うよりも、そこにある現実と人の思いの重さによるものだ、と私は思う。簡単にはそれを言葉にすることはできないのだ。そこには人生という時間の深く広い入り組んだ複雑さがあり、そして、自然の持つ厳粛な優しさと残酷さがある。主役は自然と人と暮らしであり、作者の考えではない

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そして、結果的にそれらのことがこの本を、現代社会を告発する説教的なものになることをさまたげてもいる。作者の意図がそうではなかったとしても。この点を中途半端と受け止めるのか、それともニュートラルなものとして肯定的に受け止めるのか。読み手によって評価の別れるところかもしれない。何かしらの人生の解答を求めて、この本を手に取っても残念ながらそれはない。この本は人生の指南書ではない。また、自然の中での孤独で危険な暮らしに安易な同意を促すものでもない。しかし、その静謐で豊饒な孤独を味わいその素晴らしい写真を見るだけでもこの本の価値はある。と私は思う

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No.2:彼ら、彼女らの10人の記録/名前と場所、そして、本人の言葉と作者の言葉の引用、あるいは、シンプルにして鮮明な自己紹介として。

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この本の内容について少し詳しく紹介したいと思う。思い込みを持たないでこの本を手に取って欲しいんだけど、でも、もしその内容のいくらかを知ることが、ひとりでも多くの人がこの本を読むきっかけになればと思うから。

作者は1991年生まれ(現在31歳)のフランスの写真家、ブリス・ポルトラーノ(Brice Portolano)さん。「子供時代をプロヴァンスですごし、自然、旅写真への情熱をはぐくんだ。」2015年から2020年の5年間の記録。ポルトラーノさんのはじめての写真集でもある。そうこれは文章と写真集なんだ!

10人の記録。彼ら彼女らについてそれぞれの名前と場所と本人の言葉と本文のはじまりに書かれている作者の言葉を引用する。それらが彼ら彼女らの抱いている思い、そして、その暮らしをシンプルに鮮明に示すことになる。長く煩雑になるけれど、これらを読めばこの本に何が存在しているのかが分かる。全貌を見出すために、ぜひ、この本を多くの人に読んで欲しいと思う。写真集だから、大きくて厚い本(縦23cm ✕横19cm✕厚さ2cm)だけど。

以下の表記は次のような形式で記述されている。
「その*人目:名前(日本語表記とアルファベット表記)/各章の題名/国、地名」の順に書かれ、その後に、「その人の言葉(名前)」と「作者(ポルトラーノさん)の各章のはじまりの言葉」が引用されている。

その一人目:ティニャ(TINJA)/北極の夢/フィンランド、イナリ

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「物質的な豊かさにはほとんど興味がありません。自然は、私が生きるために必要なものをすべて与えてくれます(ティニャ)」(P12より引用)
「ティニャは、フィンランドの最北の地、ラップランドの人里離れたところで、水道も電気もない生活を送っている。南部で六年間過ごした後、都会を離れてラップランドに戻る決意をしたという。」(P16より引用)

その二人目:アリ(ALI)/ペルシャの騎手/イラン、テヘラン

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「この山は私の王国。/馬に乗れば、どこでも好きなところに行けます。(アリ)」(P39より引用)
「かつてテヘランで芸術学を教えていたたぐいまれな騎手は、/騎射に人生を捧げるために都会を離れ、/イランのアルボルズ山脈のふもとに移り住んだ。」(P43より引用)

その三人目:バーニー(BARNY)/ボヘミアン/イングランド、カンブリア州

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「贅沢や快適さを犠牲にしてでも、/自分の時間や生活を大事にしたかったんです(バーニー)」(P61より引用)
「かつてイングランドの大サーカスで空中ブランコに乗っていたバーニーは、/あまりに目まぐるしい旅回りの毎日に疲れ果て、/イングランド北部の村にトレーナーハウスを設置して、そこで暮らすことにした。/それ以来、彼は家族とともに水も電気もない生活を送っている。/ときには、馬を連れてイギリスの田舎をトレーナーハウスごと旅することもある。」(P64より引用)

その四人目:ザヤ(ZAYA)/トナカイ飼い/モンゴル、ダルハド盆地

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「私は、以前の生活を否定も後悔もしていません。/でも、今の状況にはこのうえなく満足しています(ザヤ)」(P85より引用)
「アメリカ合衆国で育ち、中国で学生時代を過ごしたザヤは、祖国モンゴルに帰ってきた。/そこで彼女はトナカイ飼いの人々「ツァータン」の一人と出会い、タイガ(針葉樹の森)での/遊牧のサイクルに合わせて、彼と同じような生活をすることにした。」(P88より引用)

その五人目:ジョージ(GEORGE)/野生の森/イタリア、トスカーナ

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「ここでは、自分がすることはなんでもすぐに意味があると感じかれるんです。/薪を割ったり、野菜を育てたりしただけで(ジョージ)」(P109より引用)
「ジョージは大人になってからイギリスを離れ、イタリアのフィレンツェから数時間のところで、/廃墟になっていた小さな農家に住みはじめた、何年もかけてその家を改装してから家庭を持ち、/時間を超越したこの場所で子供たちを育てている。」(P112より引用)

その六人目:シルヴィア(SYLWIA)/ギリシャの島/ギリシャ、レフカダ島

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「この場所だと、深く根づくことができます。/初めて、自分自身を知ることができたと思えました(シルヴィア)」(P135より引用)
「幼年期を共産主義時代のポーランドの田舎で過ごし、その後ニューヨークで暮らしたシルヴィアは、/まったく違う二つの世界を体験した。そして数年後、ギリシャの島に廃墟を購入し、/パートナーと一緒に暮らすことを決意した。」(P139より引用)

その七人目:スカイ(SKY)/パタゴニアのガウチョ/アルゼンチン、ネウケン州

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「鶏の鳴き声や鳥の歌声が聞こえないところで暮らすなんて、/私には理解できません(スカイ)」(P159より引用)
「スカイは控えめで内向的だった10代の頃から馬への情熱をもっていた。/その思いに突き動かされ、夫のチャノと息子のレオと牧畜をして暮らすために、/パタゴニア北部の人里離れた小さな農場に移住することを決意した。」(P159より引用)

その八人目:ベン(BEN)/自給自足/アメリカ、ユタ州

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「森のなかを二十五キロ歩いても空腹を感じないのに、/一日中パソコンの前にいると腹が減るってどいうこと?/まったくナンセンスですよね(ベン)」(P186より引用)
「農産物加工業に疑問をもったベンは、ある日、自分が食べるもののほとんどを/自ら生産することにした。庭を菜園に、キッチンを肉屋の作業場に変え、/毎年秋になるとアメリカ西部の山地にヘラジカを狩りに行く。/こうすれば、その後一年間、自分たちで食べる分の肉は確保できる。」(P190より引用)

その九人目:ジェリー(JERRY)/自由への探求/アメリカ、アラスカ州

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「こんな生活ができるなんて、私はラッキーだったとよく言われますが、/誰だってその気になれば、ここで暮らせるのです。/ただ、そのためにはハードな作業をする覚悟が必要ですけどね(ジェリー)」(P213より引用)
「元不動産屋のジェリーは、あるとき燃え尽き症候群に陥り、/アラスカに移り住んで牡蠣の養殖に携わることになった。/現在は手つかずの自然に囲まれ、荒涼とした小さな入り江で暮らしている。」(P218より引用)

その十人目:エレナ(ELENA)/灯台守/ノルウエー、ヴェステローデン諸島、ボー村

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「自然はたくさんのものをもたらしてくれます。/自然がこんなに近くにあると、その分、私自身も強いと感じられるのです(エレナ)」(P236より引用)
「あわただしい日々を送っていたエレナは、ジャーナリストとしてのキャリアに終止符を打ち、/自分の夢を実現した。ノルウエー北部にある灯台に移り住み、その島の住民はエレナ一人だ。」(P240より引用)

No.3:この本の読書感想文であり、自由と孤独と自然と都市と人間について、そして、〈来るべき未来の都市〉についての私の考察のメモ。あるいは、開かれつつ閉ざされた半構造/半人工/半自然の現在進行形の建築について

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以下はこの本の読書感想文でもあるのだけど、自由と孤独と自然と都市と人間について、そして、自由のための〈来るべき未来の都市〉についての私の考察でもある。必然としてそれは現代文明への批判/疑問を含むことになる。

何て言っているけれど、うん、えっとね、はじめに言い訳しておくけど〈来るべき未来の都市〉については、実はほとんど書かれていない/書けていない。だってこの話は私の手に余るんだもん。再度、別の機会にこの話を書きたいと思うよ。えっと、うんと、この話をするためには多くの偉大なる建築家たちの話をする必要があるんだ。過去の、そして、未来の建築家たちの話

人間が人間として人間的であるために、都市の中に自然を組み込み自然の中に都市を編み上げることを夢見てきた建築家たちの話。建築が人工物であることを超越し自然と人間を調停し対話(dialogue)する仕組みとして現れる建築にこそ自由と自然と人間のありようの可能性を解く鍵が存在している。と私は思っているんだ。建築家は建物/都市/空間を設計してるんじゃない。

建築とは人を包み込む容器であり人と宇宙をつなぐ折り込まれた場所/境界面であり、外に開かれながら閉ざされ、内に開かれつつ閉ざされた半構造/半人工/半自然。その建築群が〈来るべき未来の都市〉をかたち作るんだ。それは未だ茫漠とした姿でしか出現していない、現在進行形の不定形の夢なんだ。

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No.4:自然の掟への問答無用の隷属でしかない。文明を棄てること、あるいは、荒々しい物質/エネルギーの饗宴としての宇宙/自然

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はじめに明確にしておかなければならない。自然に帰れば人は自由になれるという話など幻想にしかすぎないことを。良く言えば幻想それも甘い幻想、悪く言えば単なる勘違い。それも致命的な誤解。文明を棄て自然の中に没入する。そこに待っているのは自然の掟への問答無用の隷属だ。厳しい自然の法則への服従でしかない。従わない者従うことができない者を自然は容赦なく殺戮する/される。「殺戮」でなければ「排除」としても同じことだ。

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自然は人間に優しいなどと思っているとしたら、それは自然の本性を知らない者の無知と傲慢の戯言でしかない。〈人にやさしいありのままの自然〉というものが存在しないことは自明のことだ。仮にそうしたものがあったとしたら、それは人が人に合わせて都合よく剪定した見掛けだけの仮構された人工の自然でしかない。〈人にやさしいありのままの自然〉とは虚構の自然だ

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本当の事を言えば自然は人間のことなど「どうでもよい存在」でしかない。生命でさえも自然にとっては自身の演じる劇の一幕の演者のひとりにしかすぎない。自然は生命と非生命を超越し物質とエネルギーの変転の物語を、宇宙の音楽として演奏しているだけなのだ。物質の変転の物語の中の生命という一楽章。生命という物質/現象は自然の織り成す遊戯のひとつの様相でしかない。宇宙は生命の生存ために存在しているわけではない。そこに存在するのは猛々しく荒々しい物質/エネルギーの混沌と秩序の饗宴でしかない。

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No.5:スターダスト(Stardust)の子供たちが記憶を求めて自然の混沌へと舞い戻る。/それでも、なぜ、人間が自然に魅せられるのか?/浄化と贖罪として

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しかし、それでも、なぜ人間が自然に魅せられるのか? なぜ文明を棄て自然の掟に服従することを求めるのか? その理由は明らかだ。何より人間のその身体が自然そのものだからだ。人間の身体という自然が自然を求めているのだ。さらに言えば、その肉体の起源を尋ねればそれはスターダスト(Stardust)ということになる。人はその存在の根源を星の欠片とし、宇宙の破片の砂粒から体が生み出されている。スターダスト(Stardust)の子供

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だからこそ、人は否応なく自然に引き寄せられ、そこに立ち戻ろうとする。人間が自然に魅せられそこに回帰しようとするのは、自分自身の物質的根拠をそこに見出すからなのだ。人は大自然と融合することによって、星屑の砂粒を源とする本来の自分自身となる。その時、忘れ去られたスターダストの記憶が人々の魂の深淵に蘇る。全きの根源へと帰還する人類の熱狂的な夢。

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人間は必然としてその無慈悲な自然の中に自分自身を裸の姿で投入する。サクリファイスとして。孤独と極寒と灼熱と飢えでその肉体を痛めつけ苦役にまみれ血と涙と汗を流してまで。まるでそのことによって自身の穢れを浄化させるかのように、あるいは、自身の罪を贖うかのように。文明こそが悪の根源であるかのように、文明を汚濁として洗い流すようにして。浄化と贖罪としてスターダストの子供たちがその記憶を求めて自然の混沌へと向かう。

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No.6:人生を選ぶ瞬間/人間の掟に従うのか、それとも、自然の掟に従うのか。/人間の文明の敗北、あるいは、孤独と自由について

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その狂おしいまでの自然への憧憬。誰がそれを否定し得ようか。そこにどれだけの孤独と危険が潜んでいたとしても、それが自然の掟への隷属であるとしても、誰がそれを侮蔑し得ようか。人が人として本来の存在に戻ること。「それこそが人間の真の自由である」、との覚悟がそこには存在している。

しかし、しかし、それでも、あえて私はそれに異議を申し立てたい。

人間の掟に従うのか、それとも、自然の掟に従うのか。そこに人生の選択の意味があるのかもしれない。でも、それは残酷で無情な選択だ。それを選ぶこと以外に道がないと言うのであれば、あえて、言う。明確にはっきりと大きな声で言う。それは敗北だ。それは人間の文明の完全なる敗北宣言だ、と

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わたしたちの始祖たちは自然の脅威に怯え、その恐怖から解放されるために文明を構築してきた。その結実が現代の都市であり、その暮らしだ。わたしたちは自然の非人間的な振る舞いに抵抗するために都市を作り出した。それは人が人であるために作る出されたものたちだ。決して人を人の掟に縛り付けその囚人とするためのものではない。それは自由のためのものだ。都市は人間が人間らしく暮らすための人間の知性の叡智の結晶であるはずだ。都市は人間のために存在し、人間の自由のため存在する。

仮にそれが人の自由を奪うものであれば、それはもはや都市ではない。そこには人の暮らしのための場所の街はない。都市の形をした牢獄。人間の文明が作り出した人間を閉じ込める檻としての都市。檻の中の囚人として生きるわたしたち。自然から逃走/追放された人間がその先に待っていた場所が都市という牢獄だったということ。何かが狂っている、何かを間違えている。

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No.7:自由であるための〈来るべき未来の都市〉/人間の文明の再構築のために、あるいは、都市が自然そのものとなり自然が都市そのものとなる。/自然と都市の葛藤の物語が終焉する。

読み手の中にはこの本を現代の隠者へのオマージュとして読む人もいるのかもしれない。全然、それを否定するつもりは私にはない。その気持ちは痛いほど分かる。私にも。そこには自分が成し得ないことを成し得ている人々への憧れと嫉妬の綯い交ぜになった複雑な気持ちがある。その気持ちがこの本を写真家が書いた単なる見聞録以上のものとしている。この本は現代の都市に暮らしている全ての人のこころの奥深くにある何かを強く揺さぶる。

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私は都市の暮らしを愛している。都市を、街を、愛している。その中の人々の暮らしを愛している。その一方で、この世界で溺れてしまい、この世界から逃げ出したいとも痛切に思う時間がある。くるしくなって、くるしくて。

おおげさではなくて、人間の文明の解体/再構築、あるいは、都市の解体/再構築について。この本の本質を突き詰めるとそこに辿り着く。と私は思っている。この点を取り違えてしまうと全くこの本の意味が変わってしまうことになる。この本の持つこころ揺さぶる何かは人間の知性を問うものなのだ。

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この本は自由であるための〈来るべき未来の都市〉のはじまりのためのものだ。人間の掟に従うのか、それとも、自然の掟に従うのか。都市の自由の中で溺れるのか、それとも、自然の孤独の中で震えるのか。自由を選ぶのか、それとも、孤独を選ぶのか。自由であるための〈来るべき未来の都市〉はその非情の選択を乗り越えるために存在する。人間の知性がその〈来るべき未来の都市〉を自由のために創造する。わたしたちはその中で、自由でありながら、孤独であること危険であること非人間的であることに抗うことになる

その都市はいまだ誰も見たこともない姿をした建築で作られることになるだろう。そこにはいまだ誰も見たこともない家具が備えられ、いまだ誰も見たこともない機械が動き浮遊することになる。誰も見たこともない建築が誰も見たこともない風景をかたちつくりそこに光と風が吹き渡ることになる。

極限化された都市が自然そのものとなり自然が都市そのものとなる。そこでは部屋の中に大自然が存在し、尚且つ、大自然の中に部屋が存在している。わたしたちスターダストの末裔たちは隣の部屋へ移動するように大自然と部屋の双方を横断し、その静寂と喧噪を浴びて眠ることになるだろう。自然と都市の葛藤という長き物語が人類の歴史の変遷の中で終焉を迎えることになるのは言うまでもない。わたしたちのための自由のための〈都市✕自然〉。

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あとがき:小説「極北」/〈ザ・デイ・アフター(The Day After)・フィクション〉、あるいは、人間の知性がわたしたちの未来の都市の姿を決定する。

ここでひとつの小説を紹介したいと思う。

映画「マッドマックス」、漫画「北斗の拳」等に代表される〈ザ・デイ・アフター(The Day After)・フィクション〉の数多くのヴァージョンのひとつの小説。自然と孤独と暴力とサイエンス/テクノロジーの混濁した〈ザ・デイ・アフター(The Day After)〉の世界を生き延びる者たちの凄まじいストレートの剛速球的近未来小説。現代の神話のようでもあり新たなる新約聖書のはじまりを告げる物語のようでもある。激しい力で読み手を翻弄する傑作世界の果ての荒地で主人公の絶望と希望と悲しみと怒りと強さが炸裂する。

世界の崩壊後の廃墟と化した都市の中で繰り広げられる荒々しい自然と人間の暴力の氾濫する世界の獣のような人間たちの物語。まるでそれは知性が誤って生み出した文明の構築/解体/再構築の結末の姿を描き出しているかのようなのだ。ひとつ間違えてしまうとわたしたちには小説「極北」の世界が待ち受けることになる。人間の知性がわたしたちの未来を決定することになる当たり前のことだとしてもそれをあらためて思い知らなければならない。

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