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つぎはぎだらけのシャツに、風をはらませて歩いていく
グラフィックデザイナーをめざしていたはずなのに、なんやかんやで音楽系フリーペーパーの編集者になっていた私。小規模な会社だったけど「さすが東京!」という経験をたくさん積むことができた。一方で、沖縄時代からの借金も膨らみつつあり、30歳を目前にかなり焦りを感じていた私は、WEBライターに挑戦し始める。
私の気まぐれな思いつきと前後して、携わっていたフリーペーパーは廃刊になってしまい、社員も激減した。
終電間際の地下鉄ホームで、冷めたポテトをかみしめていた頃
27歳、一般的に「ほんとうにこのままでいいのか」と自分の人生について考え始める年齢だと言う。私もそうだった。
食いっぱぐれないが、先が見える人生。当時の私にはそれが退屈に思えた。「安定」も、人生を豊かにする大きな要因なのに、なんて生意気な奴だったんだと思う。でも、そういう年頃なのも事実だ。
上京した私は、派遣会社で働いた。業務内容は、BtoBのコールセンターでのオペレーションだった。仕事自体は
20代後半、考え無しに上京を決意する
社会人になってしばらくは、地元で働いた。たまに出張に行くこともあったのだけど、その回数を重ねるにつれ、沖縄の外での生活に憧れを抱くようになってしまった。
大きな夢を抱かず、たいした目標も立てず、その場のノリだけで生きてきたようなところがある私は、沖縄の外に出ることなんて考えてもいなかった。私にとって、内地(沖縄県人にとっての日本本土)は全くの別世界。テレビ番組でタレントが流行りのスポットについて
たくさんの仲間とゲイに出逢ったゼミ時代
私が選んだゼミは、大学の中でも個性的な人たちが集まっていた。バイトや飲み会、ゲイ活動に明け暮れていた私はまともに勉強していなかったため、成績が理由で希望していたコースを選択できなくなっていた。なんと、高校が一緒だったT君と2名のみ、そんな状況になってしまった。
しかし、当時の私は全く危機感を抱いていなかった。あー、なんか残念だったな、くらいだった。それで消去法でえらんだゼミに入ったのだけれど、そ
はじめての彼氏はショタコンだった
大学入学後、いままで出逢ったことのないタイプの人たちとの交流を通して、私は大きな刺激を受けた。それが強ければ強いほど、私の心は頑なになっていったように思える。
その人たちのことを素直に尊敬する気持ちと、
「私だって、あの人のような環境で育っていれば」みたいな気持ちがない交ぜになっていったような感じだったと思う。
もちろん、表には出さない。顔は満面の笑みだし、心の大半は楽しんでいるんだけど、そ
私は「予定外」の子どもだった
沖縄の農村に住む家庭に、私は生まれた。
国家公務員の父と、兼業主婦の母にとっては予定外の子だったらしい。クリスチャンの母からは「あなたは神様から恵まれた子なのよ」とよく言い聞かせられていたけど、だいぶ大人になってからその意味に気づいた。だからといって別に落ち込んだりはしなかった。
きょうだいは、兄、兄、姉、私という構成なので、なるほど、女の子が欲しかったのだなとも理解できるし、予定外に恵まれた