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私は「予定外」の子どもだった

沖縄の農村に住む家庭に、私は生まれた。

国家公務員の父と、兼業主婦の母にとっては予定外の子だったらしい。クリスチャンの母からは「あなたは神様から恵まれた子なのよ」とよく言い聞かせられていたけど、だいぶ大人になってからその意味に気づいた。だからといって別に落ち込んだりはしなかった。

きょうだいは、兄、兄、姉、私という構成なので、なるほど、女の子が欲しかったのだなとも理解できるし、予定外に恵まれた子どもながらも、十分に愛情を注いでもらえたと思っている。

よく遊んだのは、年が一番近い姉だった。とはいえ、彼女とは「遊ぶ」というより「遊ばれる」というほうが正確だ。

2人で留守番していたときに、死んだふりをしてみたり、狂ったふりをしてみたり、母親の下着を身につけさせられたり(これはヤバい)と、創意工夫を凝らしたかたちでの「コミュニケーション」をとってくれたのは、今となっては良い思い出だ。よくグレずに育ったと思う。

私の身体が大きくなる前に、姉は「男は女に抵抗してはいけない」という教えをたたき込んだ。力でかなわなくなる前に、精神的に制服しようという戦略だ。いまのところ大成功している。

彼女はテレビを見ながらムダ毛を抜いたりするなど平気でしていた。だから、私は女性に対して妙な幻想を抱くことはなかった。これには感謝している。

上二人の兄には、日頃から小間使いされていた。でも、それが普通なんだと思っていた。年上の言うことは絶対。長男が、みんなで食べるお菓子や飲み物を適当に買ってこいとお金を渡されたら、自分の好みではなく、みんなが喜ぶものを買ってくる。コカ・コーラとスプライトではなく、片方はウーロン茶にするなど、そういう気の使い方は、幼少期に学んだんだと思う。

幼稚園、保育園、小学校と、私はごく普通の男の子だった。つまり、ゲイの兆候はあまりなかったように思う。幼稚園の頃は、悪友と月刊ジャンプに掲載されていたほんのりエロいマンガの話をしていたし、小学生のころには兄2人の部屋に忍び込んでエロ本を読んだり、桜木ルイのビデオを見たりしていた。

小学4年生のころ、はじめてオナニーを覚えた。その頃の「おかず」も、兄のエロマンガやビデオだった。ただ、ビデオを見る際には男性のほうも気になっていたような…気がする。

幼少期から、音楽は好きだった。
NHK「みんなのうた」で流れていた「恋するにわとり」に合わせて、テーブルとソファの間で踊っていたら、ビニール袋に足を滑らせて上の前歯(乳歯)をテーブルの端に強打して血まみれになったりしたこともあるくらい音楽に合わせて歌ったり踊ったりすることが好きだった。母親のお腹の中に居た頃から、教会の賛美歌で英才教育を受けていたから、なのかもしれない。

運動には苦手意識があった。といっても、全くできないわけでもない。なにをやっても中の下、みたいな感じだ。だから、同級生たちが少年野球でわいわいやっていても興味を持てなかった(坊主にするのも嫌だった)。

友人にも恵まれていたと思う。裏山を駆け上り、自転車で遠出し、海まで歩いて向かったり、いろんな友人といろんなことをした。一輪車に乗る練習をするために小学校から児童館まで競争したりもしたなぁ…。すいすい乗れるようになった頃、調子に乗ってバドミントンをやっている友人の帽子をとろうと近づいた瞬間、下の前歯(永久歯)にラケットが当たって折れたこともあった。その記憶は、鏡を見るたびに思い出させられる。

どちらかというと、のんびりしていた子どもだったと思う。一番身近なエンタメだったテレビが大好きだった。兄がレンタルしてきた洋画を一緒に見たり(そのときにお菓子と飲み物を買ってこいと命じられる)、兄たちの部屋からはサザンオールスターズやビリー・ジョエルが流れてきたりした。映画や音楽好きになれたのは、兄たちのおかげだと言える。

小学校の頃は、ほとんど勉強せずとも満点が取れた。授業はしっかり聞いていたんだろう。塾にはいっていなかった。いわゆる秀才タイプだ。とくに勉強が好きなわけでもなく、将来の目標などもなかった。あのとき、野心を抱いて努力していれば、今とは違う人生が待っていたかもしれない…という妄想に囚われそうになるが、30年前に戻る事なんてできないのでしょうがない。

そんな私は、良心の反対を押し切る形で、私立中学校へ進学するのだった。全寮制の学校では、男子寮で生活することになり…

この続きは、また今度。

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