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4分33秒

「音楽は、人に必要なのでしょうか」
「それは調律師にすべき質問か?」
 
私は待った。
 
「…答えるなら『必要はない』だがそれでも音楽は『在る』」
「私の友人に音楽を聞かない人がいます。彼は『全ての環境音は音楽だ。音楽家が音を並べた音楽とやらに惹かれない』そう言っています。矛盾するようですけど」
「だから?君は俺をカウンセラーか何かと勘違いしてないか」
 
確かに。この頃の私は荒れていて、はじめましての調律師に失礼な質問を繰り返していた。事の経緯は、学内情報誌の取材である。この大学が運営する歴史あるインカレサークル『ピアノ会』出身である調律師が、学生会館の音楽練習室のピアノの調律に訪れるという。その情報を入手した出版サークルが、職務怠慢気味の私を送り込んだのだ。
 
「アリストテレスは音楽には3つの効用があると言った。休息の性質、教養の性質、そして良き時を過ごすという性質だ。君の友人は休息も教養も必要とせず、良き時間を求めてなどいないそもそもが恵まれた人間か、サイコパスか、どちらかだね」
「彼はサイコパスじゃありません」
 
私は声を震わせた。何故震わせたのだろう。当時の私は分からなかった。失礼が過ぎる私の言動は、幸か不幸かこの調律師を楽しませているようだった。私も大概だが、この大人も相当に性格が悪い。
 
「音楽嫌いは『快楽を知らない人』という説もある」
「彼は別に音楽を嫌ってるわけじゃありません。ただ興味がないだけです」
「音楽は時に言語化出来ない気持ちを代弁してくれる。そのお友達が自分の心の全てを言語化する能力があるのなら、その興味の無さも頷ける」
「そうですね、彼は言葉の造詣が深いですから」
「まあ、そんな人間はいないと思うけどね。余程感情が乏しいなら別だが」
 
私の失礼の仕返しだろうか、元々人をいびるのが好きな性格なのか、この大人は私の気持ちを狙って逆なでしてくる。私は半場ヤケクソに謝罪する。
 
「私が失礼でした、すみません」
「ベートーヴェンとボブディランを好む人間は知性が高いという研究結果が出てる。そのお友達とやらがプライドが高い少年なら教えてあげると良い」
「どうも」
 
私は職務を放棄し、この場から逃げ出そうと思った。後でこっぴどく怒られるだろう。サークルから除名されるかもしれない。それでも構わない。この時の私は想い人…先程から口にしてる『友人』との関係が上手く行っておらず、そのストレスから手頃な大人に八つ当たりしている、ただの幼稚な子どもだった。自分勝手、自暴自棄、自己嫌悪。気付くと私は泣いていた。数分の間、私の嗚咽だけが防音室に響いた。
 
「…俺が泣かせた?」
「違います、すみません」
 
人前で泣いたのは小学生の頃以来だ。自分が酷く情けなく思えた。
 
「君は、音楽が好き?」
「…」
「そのお友達と一緒に、音楽を聞きたいと思ってる?」
「…」
「でも彼と言う人間が、イマイチ分からなくなってる」
「…何ですか?」
「一曲、勝手に演奏する。調律の確認だ。聴きたければ聴いてるといい」
 
勝手にすればいいと思った。彼は私の状態を気にせず、ピアノの屋根を上げた。椅子に座り、鍵盤の蓋を上げる。深呼吸をし、そして蓋を下ろす。腕時計をチラと見る。
 
そして沈黙が訪れた。
 
 
……。
 
 
彼は何もしない。ただ腕時計を眺めていた。彼は楽譜を忘れてしまったのだろうか?弾き方を忘れてしまったのだろうか?疑問と混乱が頭を過る。沈黙は静寂に移ろい、無音に変化した。無音を自覚した瞬間、音が聞えてきた。わたしの呼吸音、そして鼓動の音だ。
 
そこで彼は鍵盤の蓋を開けた。そして、また閉める。再び沈黙。今度の私は冷静に、極めて自覚的に己の心音を聞いた。その音は耳には聞こえない。でも、私の身体に響いている。私は生きている。その感覚をただ漠然と感じていた。
 
気付くと調律師は私を見ていた。
 
「終わったよ」
「今の、何ですか」
「ジョン・ケージの『4分33秒』その真似事。これも休符という音を並べた音楽だ」
「楽譜、あるんですか」
「ある。ジャンルは『現代音楽』」
 
その曲を聞き終えた私はすっかり落ち着いていた。私の中の何かがクリアな状態になっていた。何かが解決したわけじゃない、ただクリアになっていたのだ。この曲をあの『友人』に教えてあげよう。彼と一緒に『4分33秒』を過ごしたい、そう思ったら心が晴れやかになった。調律師はぶっきらぼうに口を開く。
 
「まあ、こんな音楽もあるってことで」
 
調律師は調律を終えた。


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