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散人の作物

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私の執筆した文芸。
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#随筆

白木蓮

白木蓮

 そこに意味などないのだが。身辺雑記、四方山話、問わず語りと。いずれの呼び名でも言い難く又、時として適切に思うのは、恐らくはそれに大した興味を抱いていないからに他なるまい。この記事の命題についてである。

 季節の変わり目か、或いは単にわたくし生来の特性か、春の予感は一日置きに姿を隠すこの頃に身を病に冒されている。判然ならぬ、覚醒もままならぬ頭で木目の天井の一点を見つめていると、まるでわたくしのみ

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小高い丘からの眺め

小高い丘からの眺め

狭山丘陵の行き方を私は知らない。

武蔵野台地を考える者にとって件の場所は是非とも見なくてはいけない場所ではあるのだが、如何せん東京の郊外の、それも埼玉となると、生まれも育ちも東京の私は、僅かに進むべき道を知らないのである。

とは言え、周辺に行った事がないという事はない。いつも目前までは行っているのだ。武蔵村山の貯水池には度々その足を運ぶ。

恐らくながら彼処は狭山湖も近かろう。

かつて私の外

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机上の記

机上の記

巷は連休中にてどこも、またかしこも大盛況。人だかり。テレビなんぞは連日自動車の混雑具合を報道している。私はわざわざ人混みに飛び込む酔狂な真似はしない。一人京都から外れた寂しい陋屋にて日を送っている。専ら読書に費やすその一日は、忙しない浮世から逃亡する唯一の方法と読んでよかろう。

読書をしている。あるいは人は、それのみ聞いた場合、立派な青年像を思い浮かべる矢も知れぬ。弁解させてもらおう。決して立派

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外出と憂鬱と

外出と憂鬱と

一時期狂ったように外出していた時があった。出先でも少しの暇さえあれば、その見知らぬ町を歩いたものである。

例えば栃木県足利市。これは別になぜそこに行ったのかもう覚えていない。旅行だったか。それにしても日に短い滞在であっった。名の知らぬ川の流れるその町の橋を渡り、市街地に出たが、思いのほか人気なく少しく悲しくなった。だが、足利神社なる有名な神社の近くで何やら製菓専門学校の学生たちが自分らが作ってた

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輪転する原点

輪転する原点

私は自身を語る時、「彼」という人称を用いたくなる事が度々ある。かつて書きかけて、果てに打ち捨てた小説の冒頭にはこう書かれていた。

 彼は(それは俺であるのだが)

何故、そうなのだろうか。これは私の積年の問いでもあった。熟考の果てに私は、かつての私を他人と研究の対象にしている事を発見したのだ。

自己は結局のところ、自己でしかないという意味において、最も複雑かつ不思議な他者は過ぎ去った時の狭間に

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夢を追い求む、見果てぬ夢を

夢を追い求む、見果てぬ夢を

連日の雨はさながら寒雨の如きであった。街路の桜のその花弁は雨に濡れ露を発している。寒気は恰も先月のまだ厳しい時分を彷彿とさせた。往来はめっきりと人通りが減り、ただ寂しい車だけがアスファルトの水溜まりの上を通る。私は自室に篭り、相変わらず読書と映画鑑賞で日を潰した。

自閉的な現代において、その外側に注する場合、それは自閉的であるからこそ克己をなさねばならぬ。巷に相対的な言説が跋扈している訳はそこら

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待望の暖気

待望の暖気

路傍の梅花は満開となり、都下には桜花開花宣言がなされた。三月中旬のことである。二十一回目の春を迎えて、私は初めて迎春を喜ぶという事態になった。何も今まで、意固地になって春を否定していたのではない。私にとって春とは何ら意味をなさない退屈の季節であったし、暑きよりも寒きを喜ぶ体質なのである。

華やかよりも地味なものを愛玩する私であるはずなのに何故、今日に及んで春の暖かさを喜ぶのか。それは、己が体調と

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病臥報告記

病臥報告記

生来他病なるは如何なる因果か。輪廻転生を信じざる余に取ればカルマなんぞは考える必要はないのだが、然しこうも病多し身体であると、そんな取り止めのない所まで思索が及んでしまうのは、恐らく余のみなる事ではあるまい。
もう半年以前から胃の痛みに悩ませれていたが、余は元来医者など当てにせざる質である為、周囲よりの勧めを無視し、何から変わらざる日々を送っていた。が、然しとうとう耐えかねて、重い腰を上げ近所の医

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雪の日の光

雪の日の光

「雪が降ってきたな」

私の友人・良純君は曇天の空から降ってきた極めて微小なその粒を認めて言うともなく言った。

「ほんとだ」

この日、前日より寒気甚しければ別段降っても可笑しくもない。そして正午に至るただいまでさへも、白息は白い。或はようやく降った。そう言うべきかも知れない。

東京の街に降雪がある事自体は何ら普通の事ではありはしない。然し、積雪となると話は変わってくる。しばし積雪する事こそあ

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春近し、初恋を

春近し、初恋を

沙汰無きは、無事なる事なり、と宣いしは祖母なり。そう言われる通り、私は祖父母宅を訪れるのは稀になっていった。それはつまり我が郷里に近づき難いからに他ならない。
あの通い慣れた街道を歩む時、或はあの感じ慣れた風を体に受ける時、著しいノスタルジーが私を包囲して、つまらぬセンチメントを喚起させるのだ。
例えば私は、故郷にて何か後ろめたい事をした。そういう訳では決してない。何をするにも何も出来ぬ空虚な街に

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惜別は冬の気配に運ばれて

惜別は冬の気配に運ばれて

序に記

この大都会・東京で知己に会うは易からざる事なるべし。況や情交ありし人に於いてをや。東北の偉大なる大詩人は人と人との別れ難きを説かれられしが蓋しそれ即ち真理なるべし。



木枯らし吹き葉が落ちる。そんな秋の終わりはいつだって寂しいものだ。独り夕暮れの商店街を歩んだ時にふと思い出す過去。甘い追憶を絆される秋の夕暮れ。内省は幾度と無しに繰り返されて私と私以外との輪郭は次第に明瞭になっていく

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読書の秋に 荷風探訪 一名『葛飾土産』散策記

読書の秋に 荷風探訪 一名『葛飾土産』散策記



秋深し。路傍の並木は既に紅葉し吹く風は葉を巻き込んで舞い上がる。その行方を追うとどこまでも広がる青い空の向こうに鴉が飛んでゆく。
秋。喪失の季節にして再生への予兆。孤独な秋には芸術がよく似合っている。読書にせよ何にせよ太陽は厳しくもなくただ燦然と天にあるのみ。
散歩に行こう。往昔の書を携えて。荷風散人の足跡を追って。

葛飾への流浪

永井荷風『葛飾土産』は彼が晩年に記した最後の名作(石川淳

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日記を読むという事、日記を書くという事

日記を読むという事、日記を書くという事

#読書の秋2022
年の瀬に押し迫ってただでさへ慌ただしい日常に拍車がかかる。労働や勉学から帰るべき場所に帰って来た安堵。明日が始まるその前に今日を思い出す。そして思い出を書き記す。日記とは畢竟、その繰り返しである。進行する未来に従って積もり行く諸事。書いて記したその日々に自分たるものが存在して居たと再確認する作業。消えるだけの日々を可視化するという事に日記の最たる楽しみがあるというべきではなか

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パリの街の風に吹かれて 或は新帰朝者の世迷言

パリの街の風に吹かれて 或は新帰朝者の世迷言

巴里に行ってきた。フランスに行ってきた。フランスに行ってきた、それが先行するのが当たり前であるのかもしれないが、語弊を恐れない俺は巴里に行ってきたというベキ。俺は俺にとってフランスは巴里だ。なんと言っても。リヨンもオンフルールもノルマンディーも差し置いて。うん。そうだ。巴里だ。何はなくとも。阿呆なる私の周辺が生きている。そうだ。性懲りもなく生きているのだ。そんな中、私は遠く、遠く離れた巴里に行った

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