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夢を追い求む、見果てぬ夢を

連日の雨はさながら寒雨の如きであった。街路の桜のその花弁は雨に濡れ露を発している。寒気は恰も先月のまだ厳しい時分を彷彿とさせた。往来はめっきりと人通りが減り、ただ寂しい車だけがアスファルトの水溜まりの上を通る。私は自室に篭り、相変わらず読書と映画鑑賞で日を潰した。

自閉的な現代において、その外側に注する場合、それは自閉的であるからこそ克己をなさねばならぬ。巷に相対的な言説が跋扈している訳はそこらに起因するのではあるまいか。いかにせよ、自閉的な場合は自己省察をなすかフィクションに逃避するよりほか終着点はありはしない。

人間は誰しも明日の予感を持っている。それは好みとあらば未来への予感。そう言い換えることも可なり。人間はいつまでも現在にとどまることは出来やしない。
人は常に多少なりとも夢なり目標なりが内在していると言わねばならないのだ。時折、夢や目標なんぞない、と仰る人がいるがそれは逆説的ではあるものの、そう思うことによってそれがないフィクションの世界に逃避していると言えよう。フィクションは時として自己を忘却するファンクションになり得るのだ。

人は否応なく、対外的にならざるを得ない時、己の現状を知る。そして、己の現状を知ると、例えいかなる境遇にあろうとも「このままじゃ、ダメだ」という自己破壊的衝動を心の芯より催さざるを得ない。対外的にならざるを得ない時というのは千差万別である。強いて一言で表すならば、美を感じた時ではあるまいか。

図らずも花見ということになるだろう。一週間程前、未だ暖気たけなわの頃。私は友人と散歩に出かけた。小野湖山が曰く夢香州。通名曳舟、東向島、鐘ヶ淵界隈である。勿論、かつての風雅が失われたというのは言うを俟たない。されど、その都市空間は相変わらずラビラントであることには変わりなく、路地裏の稲荷なんぞにはかつての面影を忍ばせているというべきだろう。

綾瀬橋を渡った。橋の中央で立ち止まったのは、少々疲労を感じたからである。私は隅田川の方へ視線を注いだ。対岸には汐入公園の堤がある。そしてそこには花満々たる桜樹がどこまでも陸続している。
私はその時初めて、桜樹の美さを知った。齢二十にして桜なるものが風雅たる事を、その勝景より了解せざるを得なかったのだ。恨むらくは未だそれを筆にする程の語彙がたらざる事ではあらんか。

友の成功というものは、まるで我が成功の如く喜ばしく感じるものだ。然し、それはいうまでもなく自分の成功では決してない。いかに仲睦まじいと雖、結局他者は他者。自分の足でもってしっかりと立たねばなるまい。

ある意味では、この世は短夜の夢である。然し、だからと言ってニヒリズムに過ごしても、何ら楽しみはない。そこに洒落も、粋も、幸も、何もないのだ。
やはり我々は自身の裡から湧き出る、理想なり野望なり夢なりを声高に標榜して人生を駆けていく必要がある。
夢の実現はある種戦いである。或いは敗北して、敗れて、その努力は徒労に終わるやも知れぬ。だが少なくとも勝利を信じぬ戦いはハナから戦いではない。夢を追うには向こうを見ない態度が何よりも重要である。ただ勝利を、そして永遠に未来を信じるのみだ。

曇天 自室にて 淼众 識



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