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日記を読むという事、日記を書くという事


#読書の秋2022
年の瀬に押し迫ってただでさへ慌ただしい日常に拍車がかかる。労働や勉学から帰るべき場所に帰って来た安堵。明日が始まるその前に今日を思い出す。そして思い出を書き記す。日記とは畢竟、その繰り返しである。進行する未来に従って積もり行く諸事。書いて記したその日々に自分たるものが存在して居たと再確認する作業。消えるだけの日々を可視化するという事に日記の最たる楽しみがあるというべきではなかろうか。
人は大袈裟でなく常に自分を主張したい生き物である。そして根本的な問い。自分という存在への疑問は拭いされない。文明が発達し幾多の文化が創出されたのはそれが(つまり、個々人の自己主張が)最たる理由である。

浮世は一夜の夢なりき。祇園精舎の鐘の声、諸行無常響きあり。色即是空、空即是色。殊更に日本文化と呼ばれるものはこの辺の意識が強い。本来無一物に代表される様な虚無主義が根底を脈々と流れている。だからこそ、であるのかどうだがわからねども日本人の文人墨客は日記を残している。後世に自分の生きた証を残すためか、はたまた盛者必衰の理を示すためか。 

紀行文も広義の意味での日記だろう。そしてまた俳句も然り。その眼差しに写った対象を記録しておくのだから。そこには個人的感情が多分に含まれている。ならば短歌もそうであるか。自分から興った感情を五七五七七という形に仮託するのであるから。思索は尽きぬが本題よりそれるのでここらで閑話休題とさせていただく。

私が座右の書とせし一冊は永井荷風の『断腸亭日乗』である。全集版で全六巻。超大作にしてその文言は漢語を多分に盛り込んだ現代の尺度で測ってみれば到底読みやすいものではありはしない。しかし私はその気合いとその美しさに感銘を受けた。私は或いはこの様な作品を記す事こそが芸術家の為事なのではあるまいかとさへ思った。42年以上の年月を死する前日まで日々を謳い続けたのだ。荷風は戦中に及んで自身の生命以上にこの『断腸亭日乗』の草稿を大事にして居たらしい。つまりそれは荷風にとって生身の肉体以上に生きている証だからに他ならない。

私はその甚だしい芸術家根性に敬服した。そしてこれを読んだ事がきっかけで私自身も日記を書き記すようになったのである。

以前より断続的に日記を書いてはいた。それは日々を書き記すという行為に興味があったからだ。しかし如何せんその目的意識が希薄なものだから書き怠ることもあったしそれについて罪悪感は抱かなかった。だが断腸亭日乗、以後私は書き怠る事は一日としてなくなった。それは目的意識が明瞭に定まったからと言って良いだろう。その目的意識とは「自分の生きた証を残すこと」だ。誰しも自分がいるという事を主張したい。それが人間の性であるし所謂向上心ははそこより芽生える道理である。では如何にするか。月並みな言い方だが継続の他ありはしない。ただそれ即ち成功に繋がるのかは運命に大く左右される。そこで日記である。日記こそ誰しもできる生きた証を残す方法だ。時としてそれは文化的観点から今日を考える手助けになるやも知れぬ。

日記を書こう。この日々を生きた事を確かにする為に。

十一月二十三日 昇流庵主人山水散人 識


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