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机上の記

巷は連休中にてどこも、またかしこも大盛況。人だかり。テレビなんぞは連日自動車の混雑具合を報道している。私はわざわざ人混みに飛び込む酔狂な真似はしない。一人京都から外れた寂しい陋屋にて日を送っている。専ら読書に費やすその一日は、忙しない浮世から逃亡する唯一の方法と読んでよかろう。

読書をしている。あるいは人は、それのみ聞いた場合、立派な青年像を思い浮かべる矢も知れぬ。弁解させてもらおう。決して立派ではない。実態は、全く逆だ。くたびれた、アロハシャツなんぞを着込んで、古畳に寝転び眼前に映る、絵ともシミとも言えぬような文字を目で追っているに過ぎない。時にうとうと、そのまま午睡にて一日を終える日だにある。

私の思考は定まるを知らない。常にフラフラ。発狂した浮浪者の如し。

その日、私は昨夜見た夢なんぞを思い出すともなく思い出した。昔からの知己の女だ。最近会ってはいない。身長は私と同等にして色白く、美しい。その発せられる言葉は、すべて真実であるという意味において真実で、偽りであるという意味において偽りである。世界の複雑奇怪な神秘を彼女は心の内奥に託している、私にはそう見える。その彼女が玄関に立っていた。チャイムで扉を開け、彼女は滅多に見せぬキュートな笑顔で私に微笑んでいたのである。それはいうまでもなく単なる夢に過ぎない。それ以上でもまた、以下でもないのだ。だが、私は彼女に安寧を覚え、日常においてはあり得べからざる事ではあるのだが、目覚めが良かった。

荷風全集第六巻を読んでいる。巻題は「歓楽/すみだ川」である。日中、「花より雨に」、「狐」などを読んで、そいて読書は「深川の唄」に及んだ。そう言えば、私が荷風先生の信奉者になる一歩はかの作品であった。純粋に文章のみで、美しいと感動したのはこれを読んだ時が初めてである。

深川へ最後に訪れたのは一昨年の十月終盤。秋の盛りは過ぎ、夜の寒風が身に沁み始める時分であった。

夕暮れに目黒を発した私は、右に左に出鱈目に、彷徨し遂に街は闇夜に沈み、そんな事も気付かずにただ、歩き橋を渡り深川に着いた時、

「ああ、ここは荷風先生が書いた深川か」

そうして、初めて自分は歩いていた事に気づいた。あの時の精神状態を筆にすることは一寸難しい。

友人が死に、私が思っているよりも死というものは確実に存在するものであるという事が否が応でも分からされた時、私のそれまで抱いていた死への憧憬も、今一度考えなおさねばならなかった。それは、つまり私を囲み参加させられた世界について、もう一度考え直さねばならぬという事と、同義なのであった。それまで得たあらゆる学びは無に帰し、何もかも虚無であることは明白なのだ。しかし、それならば何故、私は生きている。何故、今すぐ彼女のように死なないのであろうか。彼女は本当に存在していたのかは、わた私の記憶とその周辺の彼女への認識にとって了解されてはいるのだが、それはどこまで彼女を捉えていたのか。彼女の存在を確かめる最も的確かつ容易であると思われた方法は、彼女と話すことだ。だが、彼女が世界の、否、誇張なしに宇宙のどこを探してもいない今、彼女のかつて存在していた事実を担保する証拠は一体どこにあるのだ。

たどり着いた、橋の欄干から身を乗り出し、ビルのネオンサインを隅田川は溶かしている。その水面は正しく墨水であった。

今、私は彼女のいない世界で、つまりそれは彼女以外がいる世界でこの文章を書いている。それは何ら意味を持たぬ。虚無を生む恋に他なるまい。だが、本当の虚無は誰しも知っているように、虚無さえない所にあるのだ。今がいかなる虚無なる時間でも、私はただいま虚無を感じている故に生きている。そして、生きているからこそ、何かこの文章で美しく気の利いた事が欠けるのではあるまいか。そう企てている。結果はどうでも良い。ただ私は、今生きている。書いている時は少なくとも。

東に面した自室の窓から丸い大きな月が、覗いている。今は、それがすべてなのだ。

               (了)

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