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輪転する原点

私は自身を語る時、「彼」という人称を用いたくなる事が度々ある。かつて書きかけて、果てに打ち捨てた小説の冒頭にはこう書かれていた。


 彼は(それは俺であるのだが)


何故、そうなのだろうか。これは私の積年の問いでもあった。熟考の果てに私は、かつての私を他人と研究の対象にしている事を発見したのだ。

自己は結局のところ、自己でしかないという意味において、最も複雑かつ不思議な他者は過ぎ去った時の狭間に停滞し続ける自分自身である。そのように解釈するようになって初めて、私はかつての自分を(繰り返しになるが)解釈するべく他者を語る際の「彼」なる語を借用すると解し得た。

「彼」の行動は全く予測不可能で何かしらのアクションは、偶然かそれか、恰も必然の体を模しているに過ぎない。況んやリアクションにおいてもや。「彼」は偶然気づいたから「私」になっているに過ぎない。『輪転する原点』と題した記事を書き始めた「彼」は「今こうして」と書いている「私」になっているのだ。

即今目前。これは禅の言葉である。その内容に私は決して詳らかではないのだが、読んで字の如く「すなわち今は目の前」という程の意味だ。禅というのは、文字では説明できぬ、というのは或いはその通りかもしれない。それを強いてやってのけたのが鈴木大拙だ。だから彼は偉いのでありその著作はいずれも難解なのである。

現在は人間が捉えられる唯一のポイントではあるが、今を捉えるというのは一体、可能なのだろうか。手で物理的な物を捉えるのとは訳を異にする。現在を捉えたと思った瞬間にそれは過去になる。現在は決してその残滓さへも捉える事は出来ないのだ。

現在を捉えるには(矛盾しているが)捉えようよしないという事に他ならない。ただ目前にあるうつつを心全体で受け止める他、方途はないのだ。

偶然というのは決して解析できるものではない。カオスの中で、わくらばの中で我々が出来るのはただ一つ。私というアイデンティティを、私というたった一つの原点をしっかりと持つ事なのだ。


                (了)

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