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春近し、初恋を

沙汰無きは、無事なる事なり、と宣いしは祖母なり。そう言われる通り、私は祖父母宅を訪れるのは稀になっていった。それはつまり我が郷里に近づき難いからに他ならない。
あの通い慣れた街道を歩む時、或はあの感じ慣れた風を体に受ける時、著しいノスタルジーが私を包囲して、つまらぬセンチメントを喚起させるのだ。
例えば私は、故郷にて何か後ろめたい事をした。そういう訳では決してない。何をするにも何も出来ぬ空虚な街にて、そういうことが、そもそもできるはずはありはしないのだ。

私の街には何かが足りない。その何かを巡って紙面をひさぐわけにはいくまい。なぜならば、その何かを記すには或は『失われし時を求めて』以上の頁数を要さねばならないからだ。故、割愛する。強いて書き記すならば、私の街には文化的蓄積が欠落している。例えば濹東ならば依田学海、成島柳北他多数の文人墨客がいるように。文化的蓄積或はどこにでも存するのかも知れない。それは東京全土、否、日本そして世界全域。マクロなる視点から見れば確かにある。だがもっと身近に感じたい。

唯一と言って差し支えはない、文人と我が郷里との関係性。それは北村透谷が我が故郷に訪れたことがある、という事だ。私はかつて透谷の傑作『楚囚之詩』の一節を誦じられる程、愛せし事あり。例えば次の一節。

恨むらくは昔の記憶の消えざるを、  
若き昔時……其の楽しき故郷!
暗らき中にも、回想の眼はいと明く、  
画と見えて画にはあらぬ我が故郷!
雪を戴きし冬の山、霞をこめし渓の水、
よも変らじ其美くしさは、昨日と今日、

北村透谷『楚囚之詩』

云々。私はこの事実を知った時、我が街が眼前に鮮やかに立ち現れたが、残念哉。それも朝の光にかき消されてしまった。
だが、そんな私であるが、勿論ながら郷愁の念あらざるべくもなく、時としてその念に駆られることも屡々。それは私に一貫性がない。そう非難され得るのだろうか。例えば、日々旅をし、旅を住処とせし往昔の詩人達もその道中、故郷の辻を思い出し枕を濡らすこともある。その性はこの私にも伝来している。

私は街に降り立った。曇天の、半ば暖かい日だった。

祖父母宅を訪れる事を目的にして歩くのだが、その方に向かいつつもかつて過ごした色々な事が否応なしに胸中を往来してくる。そしてその筆頭となっている人物こそ初恋の相手に他ならない。

さて、高名なる米人の文学者アーネスト・ヘミングウェイに『何を見ても何かを思い出す(原題:I Guess Everything remind You of Something )なる一遍が存在する。尤も内容は未だ読まざりしが、蓋し彼女への感慨を説明説明するにはこの題を以て足るべし。この街の隅々までに彼女との未熟なる戯れが染み込んでいるのだ。

その日、桜は咲き誇り春雨は静かに降っていた。花弁には露が。私と彼女は静かに歩いていた。その間にもはや言葉は必要とせず、ただ沈黙だけが何よりも共通の媒介としてあった。花々は我々を祝福している。どこからか訪れたのか、春の風は私達の為に存在して微笑みかけているようであった。

私の歩みは自然に彼女と歩いた道を辿っていた。そして、彼女の家があった坂の中腹を覗き込む。だがそれはもう無意味だ。その家も彼女も、もういないのだから。


祖父、祖母は今日も息災であった。

                (了)

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