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本能寺の変1582 目次小 5藤孝との出会い 1将軍殺害 第19~21話 天正十年六月二日、明智光秀が織田信長を討った。その時、秀吉は備中高松で毛利と対峙、徳川家康は堺から京都へ向かっていた。甲斐の武田は消滅した。日本は戦国時代、世界は大航海時代。時は今。歴史の謎。その原因・動機を究明する。『光秀記』

目次小 5藤孝との出会い 1将軍殺害 第19~21話 

はじめに ←目次 ←前回 目次小 4光秀の苦悩 第16~18話 
重要 ◎目次 

 第19話
  
藤孝は、信長と同年齢である。
  藤孝は、元々、第十三代将軍足利義輝の家臣だった。
                       「永禄六年諸役人附」
  この時、光秀は、まだ幕臣になっていない。
  永禄八年1565、五月十九日。
  世を震撼させる大事件が勃発した。         『信長公記』
  将軍義輝が殺害された。              『信長公記』
  大衆は、世の乱れを憂えた。            『信長公記』

 第20話
  
義輝の次弟覚慶は、捕らわれの身となった。     『信長公記』
  この覚慶こそ、後の足利義昭である。
  義昭(覚慶)は、奈良を脱出した。    『信長公記』「多聞院日記」
  義昭は、幕府再興に動き出した。
  義昭は、上杉謙信を頼った。           「上杉家文書」
  謙信は、これまで二度上洛している。
  大覚寺義俊が上杉の窓口だった。         「上杉家文書」
  丹波の赤井直正。                「上杉家文書」
  やがて、光秀の宿敵となる男である。
  大覚寺義俊は、上杉に傾斜していく。       「上杉家文書」

 第21話
 ◎
義昭は、近隣諸国の大小名へ御内書を送った。
 信長との交渉は、すでに始まっていた。 「東京大学史料編纂所蔵」
 信長は、義昭への協力を約束した。   「東京大学史料編纂所蔵」
  言うは易し、行うは難し。       「東京大学史料編纂所蔵」
 細川藤孝が、信長の窓口だった。    「東京大学史料編纂所蔵」
 細川藤孝は、次第に、信長へのめり込んでいく。
 その延長線上に、光秀と藤孝の出会いがあった。
 このことが、光秀と信長の邂逅へと繋がる。



 ⇒ 次へつづく  目次小 5藤孝との出会い 2上洛不発 第22~27話


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本能寺の変

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