見出し画像

『反応しない練習』を読んで。

精神科医の益田裕介さんがユーチューブの動画で紹介されていた本を読んでみた。

こちらの動画だ。↓

いつもなら、2回読み終わってから感想を書く。
しかし、忘れたくないことだらけだったので、メモ代わりに「下書き」に残しながら書くことにした。

本を2回読むのは、単純に自分の記憶力の問題もあるかもしれない。
それでも、2回目の方がより深く理解できるような気がする。
…当然か。


表紙。
本の帯。


「ムダな反応」するばかりに疲れていませんか?

…おっしゃる通りかもしれない。


最初に本のタイトルについてだが、自分は正直そこまで惹かれはしなかった。
もし益田先生の動画を見ていなかったら手に取ることもなかっただろう。

何故なら、こちらの本で言われる「反応しない」は、「感情を表に出さない」と同義だと、勘違いしていたからだ。

自分は今では長く療養生活を送っているが、比較的、色んな仕事をしてきたと思う。

その中でも接客、お客さんを相手にする仕事が多かった。
飲食店のホール、ホテルの婚礼や宴会スタッフ、コールセンター、販売…

常に一番の相手は "お客さん" だった。

そこで、何を言われても笑っていたり、必死に謝罪したりなど…
自分の感情を押し殺す…というか、表に出さないことには慣れているつもりだった。

もちろん、同僚や上司の前でも平気なふりをする。
当時は、「誰にも弱みを見せたくない」というような考えでのことだったと思う。

それでも自分自身はごまかせない。

それが、まさにこの本に書かれていたことだった。

簡単に言うと、何か嫌なことがあった時、それに対して嫌悪感などを持つ前に、「自分の心がムダな反応や、必要のない判断をしないための方法」について書かれている。

自分の場合は、表に出さないだけで、心の中の反応は止められなかった。
こちらの本で言われていた、「ムダな反応」をしてばかりで、悩みやストレスを溜め込み続けていたのだと思う。

その結果が、今の療養生活だ。

もしかしたら「療養生活」をできるようになれただけでも良かったのかもしれない。
昔の自分なら、到底受け入れられなかっただろうから。

たったの数日間でも家に引きこもっていようものなら、ご近所さんにどう思われるか…
そんな、見られてもいないだろう他人の目を気にしてばかりいた。


そして、今自分がここに書いていることも全て過去のこと。
こちらの本で言われる「妄想」と同じ。

確かに現実ではあったかもしれないけれど、もうここに有りはしない。
あるとすれば、自分の頭の中にただの記憶として残っているだけだ。

仕事を頑張れていた自分も、療養生活を受け入れられなかった自分も、今は「無い」。

少し哀しいことのようにも思えてしまう。
ただ、そう思ってしまうのは、過去の栄光などにすがるようなことと似たようなことなのかもしれない。


「ある」ものをある。
「ない」ものはない。


これを理解することがまず大切なのだそうだ。

本に書かれていることは、決して理解できないような難しい話ではない。
それでも、実際に心や体で理解して行動に移せるようになるためには、本当に難しいことだらけなように思う。


自分は、やはりどうしても過去の元気だった自分を見てばかりいる。
つまり、もうここには無いはずの頭の中だけにある妄想ばかりに目を向けている。

「自分はこんなもんじゃない。」
「昔はできていたんだから。」
「今は難しくても、やろうと思えば何でもできるはず。」

なんて虚しい考え方だろうか…

身体は明らかに歳を重ねて衰えているはず。
目に見えない心であっても、「変化している」ことは否定できないだろう。



・双極の患者さんは、うつ状態の自分を本当の自分だと思えない。
・躁状態の自分を本物だと思いたがる。
・一番元気な状態から、うつ状態の自分を引いて残ったものが本物の自分。

精神科医のお医者さんの言葉だ。

たくさんの動画を見すぎて、どなたのものだったのかは忘れてしまった。
色々と混ざって曖昧になっているかもしれない。

自分がよく見るのは、益田先生、樺沢紫苑先生の動画、藤野智哉先生のラジオがほとんど。
(ツイッターは見れなくなってしまった…)

こちらのお三方のどなたかで間違いないだろう。
忘れないように最後にリンクを貼っておこう。


こちらでも言われている通り、「ありのままの自分を知って認める」

それが、「ある」ものと「ない」ものを正しく理解して、"妄想でしかないものに心を支配される自分" から解き放たれることに繋がっていくのかもしれない。


興味深い話があった。
「正しさ」と「素直さ」についてだ。

自分は、どちらも同じくらい大切なものだと思ってはいる。

ただ、「正しさ」を正しく判断することなんて、一体誰にできるのだろうか…
きっと人それぞれ考え方は全く違うだろうし、社会のルールなどが必ずしも「正しい」とは限らない。

どんなに「正確な判断」が求められる仕事や場面などでも、どこかで必ず間違いは起こる。

もしすぐに分からなくとも、何年、何十年、もしくは、今生きている人たちが全員居なくなってからやっと、「正しい判断」だと信じられていたものが「間違っていた」と分かることもある。


少し大げさな話かもしれないが、これは自分の考えが極端に飛躍してしまっただけだ。

それでも歴史上、そうやって覆されてきた真実はいくつもあるだろう。
その時代のお偉いさん方や専門の方々が、「正しい」と判断したものに対して、一体誰が異論を唱えられるというのだろうか。
そんなことをしようものなら社会的に抹殺されてしまうだけだろう。


もっと自分の日常に近い形で言うと、怒りや悲しみからくる苦しみは、「自分は正しい」という思い込みが原因なのだそうだ。

一言に怒りや悲しみと言っても、外部から受ける刺激から生み出されるものもあれば、自分の内面からの妄想(過去に起こった現実も含む)だけで作り出されるものもある。

そんな怒りや悲しみの原因は、「自分は正しい」という思い込みだ、と。

…とても理解に苦しむような、むしろ痛いほどよく分かるような複雑な気分だ。


それ(思い込み)を手放すことは、自分を否定することになる。
だからこそ人はなかなか素直になれない、
のだそうだ。

自分自身も含め、「例え批判されようとも、素直になった方がずっと良いと思うよ」などと、伝えたい人たちが世の中には山ほどいるように思う。

ネガティブなニュースなどを目にすると、 "素直になれないこと" が原因で、苦しんでいる人たちばかりのようにも思える。

 "過去の、もうそこには無いはずの自分" を否定したくないがために、執着を手放せずにいたり…
もしくは、大きな組織などの中でがんじがらめになってしまい、本当のことを言いたくても言えなくなっている人も居るのかもしれない。

それが更に多くの批判を生んだり、自分を追い込む行為だと分かってはいても、"あるものはある、ないものはない" と、正しく向き合う勇気すらなくなってしまっているのかもしれない。


決して無くなることのない、「誹謗中傷」の問題などとも繋がっているようにも思える。

一番最初に、目の前のことを正しく理解して向き合うことができなかったことが原因で、心が良くない方向に反応し、そのまま加速していってしまう。
それが、もう自力では止められなくなってしまった結果、最悪の事態に陥る。

加害者側にも被害者側にも誰にでも言えることかもしれない。

こちらも、自分の考えが飛躍しすぎているだけだろうか…

本当に、たった一人の人間の中だけにも、ただ、 "素直になれないこと" が原因で起こる問題は次々と生まれている気がする。

もちろん自分にとっても、今だからこそ気付けることが沢山あるように思う。

ただ、何となくフワッとしている。
頭の中では分かってはいても、きちんと認めることができる所までたどり着けていないのかもしれない。

本に書かれてある通り、正しさにこだわらない、素直な自分を目指したいと思う。

「自分は正しい」という思い込みは、小さな自己満足にすぎず、誰も幸せになれない。
「正しい自分」よりも「素直な自分」でいると、みんなが幸せになれる。
なにより、自分が一番ラクになれる。


なにより、自分が一番ラクになれる。



いくら「正論」をぶつけても、相手に届いているように思えないことが多い。
逆に、「正論」をぶつけられた時は、何も面白くはないし、話しをすることすら嫌になる。



ただ、その「素直さ」も考え方によってはまた厄介なもののように思う。
 "素直になる" の捉え方も、人それぞれ様々だろう。


例えば、「思ったことをそのまま口にする」などは違う気がする。
場合によっては争いの種にもなりかねない。


それでも人間ならば、誰もが完璧ではない。
相手を不快にさせてしまったり、取り返しのつかないことをしてしまうこともある。

そういった時に "素直に" 認め、たとえ許されなくとも、"素直に" 相手や自分と向き合う。

もちろん何もないに越したことはないが、起こってしまったことが事実なら、「あるものをあると理解する」

結局は最初の話から全てが繋がっているのかもしれない。


どのようなときも決して反応せず、ただ相手を見すえて、理解するのみ ──

もしも何かが起きてしまった場合、不快を感じた側、つまり被害者側の立場の人間の心の持ちようは厳しいものだろう。

それでも、できる限り大きな「争いの種」にしない努力をすることも大切なのかもしれない。

もちろん事の大きさによっては、何年も何十年も相手を憎んだりなどして苦しむことにもなりかねない。

ただ、可能な限り「受け取らない」
ついその場でカッとなって言い返したりなどして、自分の心が乱されるような「反応をしない」

それと同時に、自分の心を正しく見つめる

かなり難しいことを淡々と書いてしまっている気もするが、もちろんどれもすぐにできることではないだろう。
こういう「練習」や経験を重ねていくことで、自然と心が解放されてラクになれるのだと思う。


 "素直な心" については、前回の記事でも書いた。

こちらだ。↓


本の感想を書き進めていくうちに、10年以上前に観劇した、大好きな宝塚歌劇作品の曲を思い出したのだ。

心の奥底をのぞいてごらん
澄んだ瞳の君が君を見てる

星組公演『めぐり会いは再び』
〜マリヴォー作「愛と偶然との戯れ」より〜
オーベルトゥーレ(序曲)
作詞/小柳奈穂子
作曲/吉田優子

あまりに本の感想が長くなってしまうため、こちらの曲は別の記事で紹介させて頂いた。
本当に、この言葉に尽きると思う。

 "素直な心" はいつでも自分自身の中にある。

もし曲が気になる方は、こちらの記事も合わせて読んで頂けると嬉しい。



もう既に長々と書いてしまっているが、本の中では、「反応しない練習」について、もっと詳しく書かれている。


こちらは、ブッダ、つまり仏教の教えから書かれている本だが、宗教色はほとんど感じられなかった。

ただ、実在したブッダという一人の人間が、何を思ってどう生きたのか…

そこには、「現実」以外の何もない。
目に見えない、人が知ることのできないような「妄想の世界」はどこにもない。


今、"宗教" と聞いて思い浮かべることとはかなり違っているように思う。

こちらの本も、「伝記」のようで、「自己啓発本」のようでもあり、それでいて心が癒やされるような…
簡単にカテゴリー分けができる類の本ではないのだろう。

ただ、読む人、もしくは読む時期などにもよって、ジャンルが変わって感じられるような、そんな不思議な本のように思う。


妄想と現実の世界の区別がうまくつかない今の自分にとっては、"あるものとないものを正しく理解して、今を生きるためのトレーニングのための本" なのかもしれない。


読み終えた今は、少しだけ生きるための知識や知恵を得られた気がする。
それでもそれを活かすためには、自分の心を正しく理解するトレーニングがまず必要なのだろう。

 


この世界は、闘いと、言い争いと、心配事と、悲しみと、物惜しみと、「わたしがいるぞ」という慢心と、傲慢と、誹謗中傷に取り憑かれている。 やがて必ず喪失にたどり着くさまをみて、私は空しくなった。

──スッタニパータ〈闘い〉と〈武器〉の節


やがて必ず喪失にたどり着く ━━━


誹謗中傷…喪失…
やはり繋がっているように思える。

そして、それが引き起こされるまでの過程もこちらに書かれている。
一人の人間の中にある、争い、心配事、悲しみ、物惜しみ、慢心、傲慢…


そこから逃れられる術は、簡単に手に入れるようなものではないのかもしれない。

誰にだって欲しいものはある。
心がある限り、その欲望は無限に広がっていく。
もし欲しかったものを手に入れることができたとしても、果たしてその時の心は満足できるのだろうか…

今の自分ならばきっと、次から次へと求める心は止まらないだろう。

だからこそ、心を正しく理解して、ムダな反応や判断をしない自分になりたいと思う。


心の支え、よりどころは自分自身の中にだけ存在する。
外の世界に求めない。そこに答えはない。


…少し厳しいようにも思えるが、心の支えはやはり必要だと思う。
それでも少し希望が見えた気もする。

自分は、今までは外の世界に、つまり身内や自分以外の他の人に求めていた。
それが "普通" だと思っていた。

ただ、やがていつかは失われる。
それでも、もし「支え」が自分自身であったならば、自分がいる限りいつも一緒だ。

もし信じられなくなったら、目を閉じて自分の心を見る。

「生きとし生けるものよ、幸せであれ」
自分自身を含め、全ての人々、生きるものたちの幸せを願う。

外の現実に反応して、つらくなったときは、これを何度でも繰り返す。

「そうした心がけが、幸せへと導いてくれるのです。」

少し簡潔にまとめさせて頂いた上の文章。

根拠は分からないけれど、なぜか自分にもできるような気がする。
おこがましいかもしれないけれど、自分だからこそできる気がする。

…と、前向きな言葉で締めようかと思ったが、これも "慢心" ではなかろうか。

実際に何かができたわけでもない。
根拠もない。

もしもそれができる人ならば、自分で言うことはないだろう。
考えることすらないのかもしれない。



…まあ、これも自分の一部だ。

おそらく軽い躁状態の時に感じる全能感のようなもの。
それに気付くことができただけでも良かったと思う。



最後に、最近何かと話題になるツイッター。

以前はアカウントを持っていなくても見るだけならできていた。
それができなくなったと思ったらまた見れるようになっていた。

ただし順番はバラバラだ。
何年も前のツイートばかりだと思ったら最近のものもあったり…
もしかしたら閲覧数順などに並んでいるのかもしれない。

せっかく(?)なので、いつも勝手にお世話になっていた精神科医のお医者さんのツイートから、また少し引用させて頂きたいと思う。

自分と他人をきちんと区別し距離を取る!


(心のムダな反応を)上手に言葉でスルーする!


やれることをやれる範囲でやっていこう!


…何度も引用させて頂いている気がするが、こちらの言葉が今を生きる全てなのではないかと思う。

樺沢先生は他にも「ちょいムズ(少しだけ難しいことに挑戦!)」などもおっしゃるが、今の自分にはあくまで「やれる範囲で…」だ。

それと、少し前に書いた「現状維持」も忘れない。

決してネガティブな意味ではない。
どうしても焦ってしまう心はどこかにあるものだからこその「現状維持」。


そして、「とりあえず」も役に立つ。

毎日、まずは起きることから一日が始まる。
起きれないことがほとんどだ。
そんな時に、"とりあえず" 布団から出てみる。
そして、"とりあえず" 朝ごはんの用意をしてみる。

自分の日常生活は、その言葉からいつも動き出せている気がする。

主治医の先生も口癖のようにいつもおっしゃる言葉だ。

自分が長々と話した後、もしくは何も話せずにただ質問されたことに答えるだけの時…
「最近の調子はどう?」から始まって、「とりあえず〇〇やってみようか」で終わる。

もちろん診療時間は5分程度なので、〇〇は、大体お薬の話で終わることが多い。
それでも、何か話ができるだけで十分だ。

"とりあえずやってみよう" は良い言葉だと思う。

家事や娯楽など、とりあえずやってみて乗り気にならなければやめればいい。
たまに物凄くはかどってスッキリすることもある。
そうなればラッキーだ。

もしうまくいかなくても、今はできないことが分かる。
何もしないよりかはずっと良い。



本の感想…というよりも自分語りばかりになってしまった。

それでも間違いなくおすすめの一冊だ。

本の帯にもある通り、ロングセラー。
今更自分がおすすめするまでもないほどの、実はよく知られている本なのかもしれない。

益田先生は、精神科医のお医者さん目線で本を紹介されていた。
だったら自分は、既に山ほどあるかもしれないが、精神疾患を抱える者の立場から紹介させてもらうことにしよう。

本を紹介したり、感想を書いたりすることに理由はいらないとは思うが、何にせよ、こちらの本に出会えて本当に良かった。

自分でも書いた通り、読む時期やその時の心境などによっても感じ方は変わってくると思う。

是非ともまた、一年後、数年後…と、何度でも読み返してみたいと思う。


冒頭辺りで「忘れないように」と書いていた、精神科医のお医者さんのYouTubeチャンネルやラジオ。↓

精神科医・益田裕介先生の動画。↓


精神科医・樺沢紫苑先生の動画。↓


精神科医・藤野智哉先生のラジオ。↓


この記事が参加している募集

読書感想文

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?