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日本と世界の唯一の希望 〖あおいのきせき〗の奇跡とは − 宮内献上作品 −


■現代社会の危機の核心

■本質的に新しいものが何もない

要するに煮詰まっているのです。

AIだの電気自動車だの次世代汎用型コンピューターだのクリーンエネルギーだの、まるでテクノロジーの未来が薔薇色であるかのような賑やかしを行っていますが、それらがすべてまやかしであるからこそ、経済が停滞しています。賑やかされている新技術が「本物」であれば失われた30年なんてありえなかったでしょう。国際競争に負けたという詭弁もお為ごかしに過ぎません。

なぜなら「勝った」国々もまったく勝者の国の程から逸脱しています。

思い出してください。

我が国だけを見ても、人口ボーナスを差し引いたとして、戦後の経済成長は莫大な需要と、それに見合う供給があったからこそ、可能だったのです。

当時は、全ての世帯や個人に需要が喚起される製品に溢れていました。衣食住に関わるあらゆるものが、持ち合わせなく、ゼロから新しく必要とされていたのです。故に、経済を循環する通貨の量が、実体経済を伴って増加しました。

いま、政治では、賃金や雇用の問題を盛んに問い続けていますが、それが正しいにしても、本質的に — 例えば、昭和の時代の「三種の神器」のごとくに — 誰もが「必要な物事」「欲しい物事」が全くない中で、それらの叶うはずもありません。

つまり、「売り物」が何にもないのです。

※「危機は、まさに、古いものが衰退しつつあり、新しいものが生まれないという事実にある。」上リンク先、IISIA記事を参照下さい※

■実体経済には何もなく、金融(仮想)経済ばかりが膨れ上がる

富裕層のための豪華な建築やサービスの喧伝される様をみますと、まるで一部でも経済が潤っているかのように思えますが、それはただ、仮想経済で異常なほど膨れ上がったマネーが実社会に顔を覗かせている、というまやかしに過ぎません。世界中で、実体経済は疲弊しています。

■戦争に向かうことの必然

故に、マクロ経済において、世界規模の戦争経済に持ち込む動きがみられるのです。このままでは世界経済が回せないので、既存の社会構造物を一旦壊し、改めて一から既存の製品の需要を喚起し、復興という名目で、経済を回そうと考えた動きがあるのは、誰の目にも明らかでしょう。

現代の戦争の本質は経済です。

しかし、私たち人類は、いつまでこんなことをやり続けるのでしょうか。

「売り物」なら、今までに無い、弊社知見による技術革新により、ほんとうに人の為になり得る社会構造改革を伴って、いくらでも新しいサムシングが生まれてくることは、過去記事に繰り返し記しました。

今回の記事は「あおいのきせき」の知見から開かれる未来を可及的に明らかにして、この知見こそ人類のいまの唯一の希望であることを述べていきます。

存在の方程式(あおいのきせきの知見)により、時代は、ようやくポスト・ニュートン/アインシュタインの時代に突入することが可能になります。

煮詰まった行き止まりの日本と世界を救う唯一の鍵こそ、弊社「あおいのきせきの知見」、すなわち「存在の方程式」なのです。

■あおいのきせき は全ての根拠

青山真治監督による「存在の方程式」: 映画 EUREKA (2001年) より

■考える際の基礎の基礎 = 真理

存在の方程式とは最も深い根拠です。

何かが存在していれば、それに非ずの存在が必ず存在していて、さらにそうであれば、両者にはインターフェイスが、絶対に存在している、

というのが、物事のありようの根本原理である。

これは拙書「あおいのきせき」によって初めて具体的に明文化されたのですが、実は、それと同じことは、過去、多くの人たちによって様々なやり方で指示されてきたのだということは、もうご承知いただいていることと思います。

A = A + 非A + Aと非Aの境界

「あおいのきせき」より存在の方程式

(所で「存在の方程式」は、「 E = mc^2」 と同じことを意味しているということを、旧ツイッターに記しております)

これは、物事は図と地の如く非ずの関係として不可分に在り、相互には接している「部分」が絶対に在る、と言い換えることも可能です。

時間と空間で申しますと、非時間と非空間の交差するところ(境界)が私の心身である、となります。

否定のできない、言語(という非空間存在)により徹底して抽象化された、現実(空間存在)と接地した命題を、真理というのです。

すると、存在の方程式は真理と言いえ得る、となりましょう。

「Y字路」 横尾忠則 作

■真理を大前提に考えていくことが根拠のある言説

現代科学での時空間の根拠は、微積分です。時間が空間表現できることを「思いついた(勅を降ろした)」のがニュートンとライプニッツの両氏でしたが、微積分の前提が間違っていることは過去記事で論考いたしました

存在の方程式から導かれる常識への懐疑についての言説は、過去記事に沢山記しましたので、馴染みのない方は、是非、過去記事に当たっていただきたいのですが、つまり、宇宙は空間と非空間(時間)が人を挟んであるのだ、ということが分かります。

ざっくり、宇宙は一つではなく、二つ、ということです。

二つの宇宙は「相互入れ子構造」になっていて「中間(境界)」に、言葉を持った人がいるのです。

そして、二つの宇宙は「反対(anti)」ではなく「非ず(not)」の関係に置かれています。

このことは、微積分とは違い、「存在の方程式」という否定のできない根拠を前提に考察してたどり着く結論です。

宇宙は二つ、といいますと奇異に感じるかもしれません。しかし、心と物質が対比され得る事は、一般常識として普通に理解されているところではあります。

デカルトおよびニュートン由来の現代科学は、物質界である空間しか扱うことをしません。空間の移動や変化を時間と解釈し、四次元という一つの時空間を大前提に宇宙を解釈しています。つまり、人の心を物理に含ませていません。

ここで、心を非物質として定義し、更にそれ自体を物質(空間)宇宙と同等の非空間宇宙である、と解釈し直せるというのが、存在の方程式という真理から導かれる新しい宇宙像です。

「一つの時空間」に、ではなく、「空間(物質)と非空間(意識)」に挟まれた心身を有する主体として、私たちが生きている、という理解です。

これにより、物理学に於いて、非空間(と非時空間)を理論に組み込むことが可能になります。

そして、非空間を意識と定義すれば、その要素(または範囲)として、言語や感情などを含めた心を置くことが可能となり、すると、「心の働き」を含めた宇宙全体を、物理として論理的に扱えることになるのです。

■即非の理論の真髄

仏教(特に中観派など)、特段、禅の思想などで主張されている様々な言説にご理解の深い方であれば、それらを言語理解する際の大前提に「存在の方程式」を置くならば、仏法が指示する内容を無矛盾で理論体系に組み込むことのお手伝いが可能になるかと思います。

即ち、存在は「わたくし」という「境界 = 中間」を挟んで、物質と非物質(⊃ 心)の二重構造である所を、存在は、一つの時空間に「わたくし」がいるという前提の上で言語化すれば「Aは非AであるからこそAなのである」という言い方にならざるを得なかった、と簡単に理解が及ぶことになります。

元来が、別の異なった界(宇宙)にあるAと非Aを、同一界に在る前提で「この事」を語ろうとすれば、矛盾した言説になるのは必然です。

矛と盾は別の宇宙に存在するので、矛盾しないという通りです。

自同律の不快即非の理論 は、同じ事を別のやり方で言語指示したものであったのです。

詳しくはこちらを

因みに、

白隠禅師の隻手の声という高名な公案を、是非、存在の方程式を前提知識にして、考察してみて下さい。

■色 即是 空

般若心経のあまりに知られた一説ですが、物質宇宙非物質宇宙、その両者を繋ぐ境界(つまり人間の「働き」)を即是と翻訳すれば、そのまま存在の方程式と同じことを指示していることは、無矛盾で言語理解が可能になります。

■真理を伝える日本古来よりの智慧

あまりに畏れ多いので、ここでの解説は控えますが、日本古来より伝わる仏教寺院や非国家神道に伝わる秘伝は勿論真理を表現したものであり、すると当然、その表現内容を言語により端的に抽象表現すれば、存在の方程式と同様になり得ることは、容易に理解が可能でしょう。唯しかし、「運動(時間)」そのものを言語によって表現することは叶いません。古来より宗教施設に伝えられる儀式に含有される真理には、と同一存在であるが、ヒトの行為を伴って表現されていて、存在の方程式を遙かに凌駕する意味内容が含蓄されているのです。

ある意味「言語で真理を理解する」事は、真理を生きる事と、全く関係が無いのです。

そして、司馬遼太郎翁に「この世には移ろわぬものがある」と言わしめたこれら儀式は、まさに真理にふさわしい形容というに間違いはありません。真理は、時を超えいつまでも不変であるに違いないのですから。

■無と有の解決。正しい宇宙像を手に入れる

言葉で考えた(脳を使った)人類の叡智を、全て存在の方程式という大前提に置き換えれば、すべて正しい結論にたどり着くのが道理です。

例えば、有と無の問題も、存在が一つの時空間であるという前提で考えると解けませんが、空間と非空間が人を挟んで存在していると理解できれば、有の空間には非空間はあり得ないのがわかります。非空間に空間があり得ないのも分かります。

有と無は、非ざる関係にある相対的宇宙の呼称、と理解すれば、有無について合理的に無矛盾で語れます。

時間の問題も、非空間こそが時間であり、今現在人類が「時間」と理解しているものは、「移動」や「変化」であると、再定義して考え直せば、無矛盾で宇宙が理解できる、と分かります。

■宇宙の始まり、宇宙の外

時間とは、特に心と同義の、非空間に対しての別の呼称なので、時間に対して空間をモデルに問いを立てることは不可能です。例えば、時間に対して、起点と終点といった幾何的な空間概念(物差し)を適用して問うことはナンセンスです。空間存在は空間存在でしか測れません。質を非量と定義すれば、量が質で評価出来ないのは道理です。すると、根源的な時間には、始まりと終わりという意味自体が適応できないということになります。「始まり」や「終わり」という概念自体が、非空間である時間を空間に於いて図示するという無理を押し通しています。

その無理を押し通す術が微分積分という訳になります。

動いているモノの長さ(或いは距離)を、止まっている所から測ろうとしたら、動いているモノを止めなければ、測れません。だったら時間を止めてしまえ、というのも微積分のトリックですが、微積分を物理に採用して認識できる世界とは、止められない時間を止めて繋いで見たらたらどう見えるか、という「もしもボックス」の世界です。

絶対的見地(あるいはごく個人的な経験からの起想)からすると、この宇宙において、止まっているモノは皆無です。相対的な位置やサイズの関係で止まっている「か」のように見えることはありますが、「万物は流転する」のです。

もし、あえて時間と空間の両方を「はかろう」と言うなら、それは時間と空間について、ではなく、空間の変化や移動についてであろう事は、過去記事の通りですが、いずれにしても限界があります。

逆さから申しますと、宇宙(空間)を「始まり」とか「終わり」(という時間概念で)を問うことは、できません。空間を非空間という「物差し」では計れません。

長さを重さで指示できない(はかれない)のと同じ事です。

ところが、同じ事を別の言い方で繰り返しますが、物体の移動こそが時間であると定義して、無限のコマ送りにすれば、時間を空間に持ち込める、つまりグラフとして図示可能だという詔を降ろしてきた( = 思いついた)のがライプニッツとニュートンであります。ですが、移動は時間という意識あるいは心のもたらす現象の一部と理解しないと宇宙全体を無矛盾で言語表現できませんし、現実問題として時間は非物質であり分割(という概念・行為も空間にしか適応)できません。

この注意点は、「宇宙(空間)の外」という問いにも適応可能です。「外」とは空間概念です。空間の外に空間があるとすれば、それは外ではありません。問いの意を汲んで回答すれば、空間の外は、非空間であることが、存在の方程式から理解が可能です。更に非空間とは非物質でもあるので非空間を意識と呼んで語義矛盾はありません。すると「宇宙の外」は非物質でもある意識と言い得ます。

更に、時間と空間の外、という疑問には非時空間という回答が得られますが、この言葉を私たちが今手にしている人類知にあたってみれば、梵我一如と言う言葉が見つかるのでした。

このようにして、存在の方程式からは、非空間(数学的解釈は非ユークリッド幾何にしても空間概念内にとどまっています = 幾何とは空間の別義です)という解釈を物理学に導入することが可能になり、すると現在の科学に内在する論理矛盾が大幅に解決することが可能となります。

そして、無矛盾の論理体系を持った言葉で指示された宇宙像が正しい宇宙の姿であり、正しい宇宙像を手に入れられれば、間違いなく、人が可能であると設定されていることは、全て可能になる、という理屈です。

存在の方程式が、「知のマスターキー」と呼べる理由です。

■環境問題とエネルギー問題の解決

■効率化(早く・安く・間違いなく)だけの新製品

いま賑されている新技術で、今以上に、人類に何か新しい生き方を直接与えてくれるものは皆無です。

AIは、人のできることのごく一部を肩代わりしてくれる機械にすぎません。(もちろん「洗濯機」だってそうですが)

しかも、AIは「人工知能」というわりに、知っていること(覚えさせたこと)しかわかりません。端的に、AIは思いつくことが出来ない。大規模言語処理とは一種の統計に過ぎません。AIの指示する未来(要するに出力された回答)とは過去の統計に照らし合わせた確率論でしかないので、コンピュータの「知能」は文章を理解することを知りません。非ロジック(アナロジー/各種メタファー)を理解せず、ロジック(演算式に乗ること)だけしか理解し得ませんが、故に、自ら理解をする、ということができません。ロジックだけでは、もっと大きく言語だけでは、構造的に外部を持てないからです。

言語機能は、普遍文法と、それに則った因果的考察からの論理的思考だけではなく、比喩という非普遍文法による、たとえ話(アナロジー)に則った所謂直感的な、非論理的思考の両方を有しているのですが、コンピュータ(言語)では、非普遍文法がまったく考慮されていません。(この辺りは過去記事を参照ください)

電気自動車は、ただ動力を置き換えただけで、人や物の空間移動を歩くより早くするというベンツの発明や、それ以前のスティーブンソンの功績からなんら進歩はありません。

インターネットによる情報ネットワークと、それに繋ぐ電子計算機(コンピュータ)による情報革命からの労働(生活)環境の変化も行き詰まっていて、問題は過去記事に書いたような金融経済の問題を解決しなければ、これ以上改善はできないでしょう。

移動や生産の効率の向上に寄与する技術に、なんら私たちの価値観や人生を一変させるような革新的なものはありません。(生産の見直しの必然は、過去記事に記しました)

次世代テクノロジーと呼ばれているものは、ほとんどが19世紀以前の古い知見から導かれた技術を改良して効率を高めることしかしていません。

そして、エネルギーはほぼ「(お湯を沸かして)タービンを回す」という技術に頼ったったままです。

■新発見がなければ、新発明もない。新製品もない。

歴史において、生活様式の変遷への視点をテクノロジーに置けば、人類は、確かに進歩していると言えそうです。動力と電力の獲得と、その効率化こそが、社会構造の基盤となっています。

人力を超えたエネルギーを獲得する術を手に入れ、その効率化を図ってきたことが文明の進歩と呼べるものでしょう。

効率化には算術が役に立ちました。算術はまた電子計算機の発達と不可分です。

更に、算術と計算機は金融経済の基本です。数字と計算が金融の本尊ですから。ややこしい経済指標に基づいた未来予測と算術が同一のものであることは、過去記事に詳しくあります。

それらのインチキと電子計算機と決済機能のネットワーク化はまだまだ広がる様相を見せていますが、ここで止めないとなりません。このままでは、自由度のない金融支配の奴隷として生きるほかないという未来(あるいは現在)については過去記事に詳しくあります。

金融デリバティブなどを含む全ての金融は仮想空間において天文学的に膨れ上がり、実存在の価値の比喩として通貨の意味をなしていません。どころか、実体経済の足枷となっていて間も無く弾けそうです。

■文明とは石の活用

近代文明は土台である採石業と、それを捨てる産廃業によって支えられています。

コンピューターテクノロジーだの金融トレードだの情報産業が可能であるのも、石を取り出し近代的な都市を造り、それらを壊して捨てるという大きなサイクルがあって成り立っているのだという事を忘れてはなりません。そして、このサイクルの動力・エネルギーが、我が国では輸入に頼る石油です。

山を削って、海を埋めるこの作業と、金融経済の関係については後ほど述べますが、これに限らず、近代産業はすべて、流行の半導体にしてもレアメタル・レアアースという地面の下にある石や石油に頼っています。

地球こそが価値の源泉である事をここでは思い留めて下さい。そして、このサイクル(価値循環 = 経済)に対しての疑義が大枠、人類の課題なのです。

■スムーズになっただけで、ほとんど何も変わらない生活様式

上段のサイクルの中、少なくともこの半世紀以上前から私たちの生活は何も変わってはいません。
移動は、相変わらず、自動車(バス・タクシー)と電車(機関車)と飛行機(ヘリコプター)に頼ったままです。

コンピュータとインターネットの普及により双方向の情報交換が可能になり、買い物や映画や本などオンデマンドでアクセス可能になるなど、生活は「便利」にはなりましたが、逆を言えば(逆じゃありませんが)それだけです。

リモート・ワークなど新しい働き方が、インフラ的には可能になってはいますが、地方の過疎と都市部の一極集中という人口動態の偏移は過激化しています。

この問題の解決策は過去記事に記しました様に、金融経済から次世代の経済に向かうことで、大胆に解決していくことが、存在の方程式から可能になります。むしろ、今の金融経済の価値観を変えない限り、止めようがありません。

スマートシティは権力(微積分的世界)の絶対化が前提です。何にも考えないで過ごせる街とは、言われたことだけしかさせてくれない世界と同義です。

■当たり前を取り替える

これらのテクノロジーの基幹は、ほとんどすべてが英国科学アカデミー由来の知見によっています。そうして、そこから逸脱する科学技術は、いま、存在しないと言って過言ではありません。

既存の外燃機関からの発展拡大したエネルギー転換と動力の技術、それから微積分を前提にした宇宙像と金融経済という私たちの日常は全て、世界各地の科学アカデミーの差配する独占的「土台(あたりまえ)」の上に乗っかっているのです。

私たちの世界を規定し動かしている大元は、お金でもなく、政治でもなく、武力でもなく、思いつきによる発見(みことのり)から導いた宇宙像と、宇宙像と合理的に結びついたテクノロジーであることは、過去記事からも明らかですが、このことはIISIAの原田武夫氏がことあるごとに口を酸っぱくして述べていることでもありました。

自分たちが住んでいるこの世界がどのようであるのかという、いわば「当たり前」を構築している知見と、知見から導かれた社会構造を牛耳ることが現代の権威・権力であるということです。

すると、現在の権威・権力である金融と武力による支配を可能たらしめている源は、まず全てが英国科学アカデミーの知見に元を発していると気づくのです。(学術誌や査読論文は権威によって、アカデミーに相反する知見を省くという働きをして、利権を確保しているとも言い得うるのです)

宗教と科学が同じもの(現実と接地した、あらゆることに応用可能なほど抽象化された否定のできない命題 = 真理)を求めていたことから、弊社のこれらの知見を隠蔽し、発見者を脅迫し、陥れ、あらゆる方面に煙幕を貼って「あおいのきせきの知見」が見つからないようにしてきたのが、宗教団体やその後ろのある種のインテリジェンス機関であった事も、このことから容易に理解が可能でしょう。

しかしながら、ごく一般的な末端の工作員や信者氏ら以外、まず、弊社知見から発生する出来事から開かれる未来に同意がとれていることは、弊社の旧Twitter をフォローしていただいている方であれば、ご理解頂いている事かと存じます。

この件に関しましては再度、以下過去記事をどうぞ。

そうして、この「あたりまえ」こそが、現在私たちの抱えるすべの問題の根源、つまり核だということを、この note では訴え続けてきました。

国際社会全体で、間違えた前提を取り替えずに結論まわりの辻褄合わせに終始した結果、なんらの根拠を伴わないポジショントーク(お為ごかし)ばかりが跋扈する世の中になっていて、それを「世界が煮詰まった」と表現したのです。

■宇宙の構造と仕組みが明らかになると

微積分という前提の上に組み立てた演算による世界観・宇宙像がわたしたちの日常生活を縛っています。それについては、過去記事で明らかにした通りです。

金融経済とは、過去の延長として規格化され、計算により決定された未来を絶対として、そこから逸脱することはできない経済のこと。国債と信用創造による通貨の発行と、それに付随した金利政策という確立された絶対のルールを基軸にして固めたピラミッド型組織構造を保持することが、権力であることも記してきました。

そして、その金融支配の根拠となっているのが、時間を図示(空間表現)できるとする、つまり、演算により予測した数字こそが未来だとするのが、微積分というインチキなのです。

それは図と数という空間には存在しえないものを、存在すると信じるという「信仰」ですから、数学こそ神であり、金融が数学信仰に基づいた権威となり、その金融とは銀行制度そのものである事から、中央銀行以下の銀行群を権力と呼べるのです。

■空間と時間をつなぐのは微積分ではない

時空間は、人がいてもいなくても関係なく、在る。

と、いうのが、微積分由来の考え方であることは、上、過去記事での論証の通りです。

空間と時間を繋いでいるのが人の心身であるという正しい理解をせず、「1 = 0」(ゼロの無限近似値はゼロ)という無根拠な公理を採用した演算式から「逆算して」導いた(ニュートン由来の)宇宙像を信じ込んでいるのが今の科学であり、それこそが、さまざまな量子パラドクス(観測問題、存在の二重性、事象の地平面など)に陥っている理由であることも論考いたしました。

微積分由来の宇宙像は、宇宙を、本質的に外部を想定していない、「多次元である捻れた一つの時空間」であるとしますが、存在の方程式から、実際の宇宙は「認識主体(人)を結節点にして時間と空間という非ずの界が繋がったもの」と理解できます。すると、存在が粒子(物質)かつ波動(非物質)であることが、無矛盾で理解可能となります。さらに、認識主体が(現象の境界)として、宇宙存在にそもそも関与していますから、観測問題も無矛盾で解決可能です。もちろん「決定論」と相反する理由がここにもあります。

つまり、「無いものであっても、無限に無いに近いものであれば在る」という命題を大前提に採用したことで成り立つ微積分を前提にして、私たちの世界認識は構成されていますから、「見えないところ(感覚として認識不可能な場所 = 無いと知覚されうるところ)」を微積分で理解すれば、当然、在るものがなかったり、ないものが見えたりすることになります。

■微積分という病を治す

結論が前提から逸脱しないのは論理学の当たり前です。

すると、論理的に三次元(上位次元)空間に点も線も面も存在できませんが、微積分は存在できるという前提を採用しているので、計算すればブラック・ホールという天体があり得ることになり、それをもとに、天体観測データを微分解析すると、それが現実に実在するということになりますが、それらをすべて微積分のトリックと考えれば、宇宙を無矛盾で理解できるという事を、過去記事で記してきました。

間違った前提からは、間違った結論に至るのは必然です。

■微積分が脳の機能を奪ったということの意味

有と無、要するに 1 と 0、つまり、空間と時間を「本当に」繋いでいるのは、「1 = 0 」という公理の上に立った(微積分という)計算式ではなく、身体と心、つまり、空間(身体)と時間(心)という両方の宇宙を有した私たち生物、特に人であるということがわかります。

過去記事でも繰り返し検証しましたように、要するにブラック・ホールとは、意味論的に、外部(空間)と内部(心)を繋ぐ脳の機能と同義であるので、ブラック・ホールとは私たちの脳であるという仮説が論理的には否定され得ないという結論へと至るのです。

少し話はそれますが、マルチバース理論は、存在の方程式を一個人の誕生であると仮定して考察を進めて到達する理論と重なることが分かります。一人一人が異なった心(⊂ 非空間/非時空間)を有していると考えれば、自ずと導かれる仮説です。つまり、非空間(意識)の「範囲」と考えられる各人に宿る「心」を一つの宇宙としてカウントすれば、心を有した生き物の数だけ宇宙があると言うことも可能だからです。

すると、存在の方程式に導かれる新しい宇宙像は、時空間が誕生するビッグ・バン理論とも相性が悪くありません。自分(一つの生命)が生まれる以前の宇宙は、自分自身(一人の生命体)からしてみれば、存在し得ませんので。

■死の謎が解ける

結論までの論考につきましての詳細は、上の過去記事をお読みください。

身体の死とは、生命活動が停止する、つまり、身体を維持する恒常性が崩壊して物質として自然へと還元されていく事を指示します。身体は、エネルギー保存の法則に則れば、個体を構成していた物質が要素に還元されていくだけで、何かがなくなるわけではありません。

物質(空間)において、死によって失われたものは、「わたくし」という「生きている身体(個体)」に他になりません。

心と身体が存在の方程式によって相補的存在であると分かりましたので、心も同じである、と推測されるのです。

非物質(時間)においての死によって、心は自我(「わたくし」という主体)を失うけれども、無くなることはない、ということです。心(という個)が非物質に還元されていけば、「わたくし」という「心」がいなくなると考えられるのです。

そして、非物質を意識と言い換えれば、心は意識の一部であり、死によって心は意識へと還元されていく、と理解できるのです。

身体が物質(存在)の一部であり、死が身体の物質への還元であることから、そう推測可能でしょう。素朴に考えて、私の身体を離れて、「私の意識(心)」はありえなさそうです。

このあたりは「トランスパーソナル心理学」の知見が応用可能になるかと思います。

また、もう少し詳細に、別の言い方を採用しますと、

{身体 ⊂ 物質 }
という関係にある
身体の死も、
《[ {精神 (心 with 言葉)} ⊂ {意識} ]
という関係にある
精神の死も、
どちらも、自律性を有した「生命システム」(個体)が破壊され、外部環境へ還元されていくという課程と、理解できます。

現在、死は身体の三大兆候を以て外的に判断されていますが、それは社会に要請されての便宜的な措置に過ぎず、システム論としての死は、起点も終点も決定不可能な過程としか理解が不可能なものであります。

すると、「死にはゴールがない」という解釈に非合理な部分はないことも、分かります。

また、その有効性には疑問符が残るとしても、「身体を保存することが、その人の精神を保つことである」という思想の由来も存在の方程式から理解が可能になります。

個体が死ぬと心がどうなるか、の、イメージとしては(非空間に於いての現象なので、元来は空間イメージでは表現不可能である所に留意して下さい)非物質空間である意識を水、心を氷のかけら、と喩えると、生前、私たちの心(氷)は意識(水)の中に沈んでいるのだというイメージです。死は、その氷が水へ溶けていく過程だとイメージ可能です。

要素の変異モデルとしては、十分に通用する喩えであると考えられます。

ところで結論から申しますと、「死ぬとお星様になる」という言い伝えは、アナロジーではなく、ロジックであったことがロジカルに証明されることが予想されます。

いずれにせよ、多くの宗教では、死後の世界も自我(というか、私という主体)が存在していることを前提にした言説を教義として流布しているところも多いですから、やはり、このあたりの「真実」が「うつしよの利権」と相反するので弊社知見の周知の妨害に走っているのかもしれません。

※因みに※
心に言葉が宿り、精神となって身体を動かし、行為として現れた「非物質」を魂と呼びますと、精神や魂という曖昧な言葉の物理的な理解が容易になり、混乱した非科学的言説の一掃に役立ちます。

■ラプラスの悪魔 と 自由意志

人のダイナミズムを省いたニュートン由来の宇宙像では、どうしたってラプラスの悪魔と自由意志が対立してしまいます。微積分に由来する宇宙観は、無から有を生むこと(= 思いつく事 ) で成り立つ人の意志という機能を「0= 1」という公理にして採用することで、意志ある人の存在を宇宙(の運動)から省いてしまった宇宙像なので、その結果、機械的に動くはずの宇宙と、意志を有した人の存在が、同一の空間では相容れないという矛盾に陥ります。

ニュートン由来の宇宙像の思想とは、無から有を生む機能を、「零の無限近似値は零」という公理を採用した微積分で表し、宇宙の成り立ちや仕組みを理解することです。無から有を生むことの比喩として「0 = 1」という数式は優秀です。しかし、数式だけでは、物質(身体)と意識(心)の合作で動く宇宙で役に立ちません。

つまり、「0=1」と思ったところで(或いは計算に組み込んだところで)、現実の世界で何かが発生する事はありません。

しかも「0=1」という式は、ヒトが心の中で「思う事」ですら、ありません。「思いつく」という(心の中の)行為を「数式に喩えた」だけです。

古代の人類が洞窟の中に狩りをする所を描いた絵と一緒です。狩りを描いた絵が実際に狩りをすることはありません。アニメーションにして絵を動かしたら、本物の獲物は捕れるでしょうか。捕れません。絵の中の世界と現実の世界が繋がっていないからです。

つまり、思ったことは、それを実現する行為としなければ、空間宇宙は動きません。科学は科学技術として運動させることで、ようやく宇宙全体が動き始めるのです。行為・技術には、言葉を紡ぐということも含まれます。言葉を伝えることが、現実世界に働きかける力となるからです。言葉が行為されて初めて「ことのは(言の刃 = 事の端)」として意味をなします。思い込みだけではなんにもなりません。その言葉がどれほど他者(無機的な物質を含む)に影響を及ぼす力を持っているか、ということです。「ごっこ」を共有した仲間(教団内)だけにしか影響を与えないのは、唯の「嘘っこ」にすぎません。

思いついて動くとは、まさに自由意志の事をいいます。

演算(数学)と現実の世界との関係において、記号接地問題こそが鍵であることは過去記事で検証いたしましたが、ニュートン由来の今の宇宙像は、星々の運行など生命の関与しないマクロの機械的運動しか扱うことはできません。この宇宙観では、ラプラスの悪魔が世界を牛耳るのが当然の帰結です。

演算という非物質(時間)は、物質(空間)と接続していないので、演算だけでは空間が作用される事はなく(ノイズが発生することはなく)、宇宙は要素設定された物理法則の通りに動くしかありません。

演算、すなわち数学という人工言語を駆使できるのはヒトだけです。

時間(非物質)と空間(物質)を繋ぐことが出来るのは生物だけです。

ことのほか、人工言語であろうとなかろうと、言葉で思ったことを(あるいは言語化以前に)行為して空間に作用する事が出来るのはヒトだけであります。

存在の方程式から導かれる宇宙像では、ラプラスの悪魔と自由意志とが無矛盾で同居することの説明が可能です。

存在の方程式に依りますと、機械論的宇宙(星々の世界)があるとすれば、必ず、境界(生物)を挟んで非機械的宇宙が存在しなければならず、それこそが、自由意志によって作用される宇宙、と言うことになります。非人為と人為が両者一対となり働くことで宇宙全体は運動しているのです。(生物と非生物の境界とは、例えば粘菌)

要しますと、宇宙は二種類の対義的構造から成り立つので、当然その仕組みも対義的(非ずの関係)なものになります。

存在論もその両義的見地から考えるべきでしょう。または、思考の枠組みもそうです。例えば、実体論と関係論は矛盾するものではなく、両方の原理が成立しうるのです。

■ゼノンのパラドクスの解決

また、微積分由来の時空間は、コマ送りのアニメーションとしてしか機能せず、故に、アキレスと亀のパラドクスに陥ります。

数学にお詳しい方には釈迦に説法でしょうが、時間を空間表現可能にする(宇宙を一つの時空間と理解する)トリックとは、「時間とは、対象が空間を移動する事である」と定義し、移動を無限に切断すること(零の無限近似値は零という公理の採用)で「傾き」という概念を「連続して」空間に点描(図示)させることで空間の変化を記述可能たらしめることですが、「無限の分割が無限退行を伴う」ことは既に数学的にも結論がでていることであります。要するに微積分の「連続」には隙間が空く、ということです。

即ちニュトーンは「宇宙とはアニメーションである」と言っているのですが、そのご説がパラドクスに陥るのは要するに、時間と空間を同一空間で説明するには限界がある、ということを意味しています。この件につきましては過去記事で論じましたとおりです。

つまり、ゼノンのパラドクスも、存在の方程式から導かれる二つの非なる空間が人を介して相互に作用している事が分かれば、その原理がわかります。

空間と非空間(時間)をつなぐ認識主体(わたしたち)こそが両者を「一つの時空間」として変化(移動)を同時に理解可能たらしめていて、ニュートン的一元論(時間と空間は一つ)という前提では、時間(0)と空間(1)を同時に描写しようとしても叶わず、片方ずつ交互に点描する他はない、ということです。

つまり同一空間で両者を扱うと、0と1を交互に「記述」する結果となり、0が隙間に当たりますから、そこを詰め(微分し)ようとしても叶わず、宇宙は永遠のコマ送りにならざるを得ません。

むしろ、このパラドクスは微分思考の嘘(無限分割は無に至らない)を暴いているともいえるのです。

■神の居場所

また、微積分由来の時空間には、ここまで説明してきましたように「人の意志」という動力が宇宙像に組み込まれていませんから、現代科学が最後の最後でヒトと切り離された神の意志などというものを持ち出すことも厭わないというオチになってもしまいます。

神の居場所も、正確な宇宙像を手に入れることで理解できる事の筋道も、過去記事で述べさせてもらいました。

マガジンにまとめてございます通り、言語化の可否はどうであれ、存在、あるいは宇宙から理解不可能な曖昧な部分・範囲が消滅します。

すべて宇宙は非ずの関係で結ばれていると考えれば、範囲と細部はどうあれ、(言語で明示できるか出来ないかは問わず)理解( ≒ 説明 )不可能な曖昧模糊とした存在は一掃され得ることが、明らかにされています。

繰り返して申し上げております通り、過去、その「説明不可能な曖昧さ」の存在( ex.氣 )に価値を置くことすらが、一部宗教組織・団体の利権の元であることから、存在の方程式が忌諱される根拠とされているのです。

■環境問題の解決

地震の原因も、異常気象の理由も、存在の方程式から導かれる新しい宇宙像に依れば、それらの機序に対して理解可能な仮説を導くことができます。

すると、いままでお手上げだったこれらの天災に対して人為的に対処が可能となります。

詳細は過去記事にある通りですが、宇宙を、

非空間(意識)と非時間(物質)とそれらの交差する心身、そして更にそれらに非ずの何か(梵我一如)からなる

と解釈し、

各々の間を情報(ある時は粒子又は波動、ある時は感情又は言語)が循環している

という仮説に立ち、

或いは、地球と太陽と言葉が密接に関係していると解釈した場合、自ずと天災がどのように発生するのが無矛盾で説明可能になります

機序が分かれば、悲劇的な結果を導かない道理も、分かりましょう。

■エネルギー問題の抜本的解決

また、エネルギー問題とは、つまり物理の問題ですから、正しい物理を手に入れれば、今より余程スマートにエネルギーを手に入れることができると考えられるのです。

■電子計算機の致命的欠陥の解決

すべてのコンピューターは、量子コンピューターですら、論理の規則に縛られています。しかし、宇宙の仕組みは、人の言語機能に限ったとしても、論理に限定されてはいません。すなわち、ブール代数に従うしかなかった計算機能を言語機能として働かせるためには、排中律や矛盾律を超越する(つまりテトラレンマの機能を使う)必要があります。(脱・ゼロイチの二元論 = 半導体を超える分導体の開発)

言語の機能がアナロジー(メタファーなど)とロジックを併せ持っていることは過去記事にも詳しくありますが、これらの知見から、機械に思考させるための術が手に入った訳です。弊社は今の物とはまったく違った人工知能の開発を考えております。ご興味がございましたら、是非ご一緒に研究をいたしましょう。金銭的援助も大歓迎です。

■発明による新製品による経済の活発化

また、新しい知見からは必ず新しい発明が次々に生まれてきますから、未知の知見が周知されると経済が活性化するのは必然でしょう。

■脱・金融経済からの新しい経済

まず、必ず以下の記事をお読みいただきたく願います。

■金融経済からの脱却の手がかり

自然の一部である人の存在を、物理科学として解釈可能になれば、論理的に自然と人が共存可能になる術が手に入ります。自然と人が別でしかありえない微積分理解の世界観からは、そのような術は手に入りません。

逆さから述べますと、人と自然が共存した経済は、微積分由来の金融経済からはたどり着くことはできません。今のニュートン的世界観、或いはデカルト的哲学をベースにした自然科学からは、人のあり方が省かれているからです。

金融経済が地球環境に相反しているからこそ、つまり、今の科学がきちんと自然を描写することに失敗しているからこそ、経済が自然の破壊と異常気象などの天災をもたらして、人を不幸にするのです。経済が天然自然のサイクルと合致したものであれば、経済の発展は環境保護と同義になります。

(経済における)利益の定義が180度転換すれば、つまり、「交換可能性・信用」が銀行(の発行する通貨)からすべての人に取り戻されれば、「数字」の増加だけを目的とする以外には無目的な現在の金融システム下での経済活動のベクトルが反転します。

例えば、GoogleMapを開いて、緑の部分を「なにもない」「経済が発展していない」即ち「何の価値も(生ま)ない」と、判断するのが、今の経済の価値観です。確かに、ここで通貨が生まれてくる事はありません。

逆に、この点こそが、現行の通貨経済の過てるポイントを的確に指示しています。

通貨に価値があるとするならば、私たちから奪って寄せ集めた信用に、ではなく、大自然から贈与された価値としてあるべきなのです。

衛星画像で緑色(や青色など)に見える所こそ、多様な生命が生まれ出ずる豊かな空間(場所・土地)を示しているのですから。

つまり、現行の金融経済は、根本から「間違っている」のです。

価値の根源は、大自然の営みの中からしか生まれては来ません。そして銀行経済(金融経済)は、経済の本質である大自然間に於ける価値の循環と、まったく(記号)接地していません。

地球環境での自然な、生物と非生物を巡る、エネルギー循環こそが価値の源泉であります。そこを離れた価値など存在し得ないことは、経験としても考察としても疑いようがありません。

けれどもヒトは言葉を持ったが為に、比喩でしかない言葉自体を、空間存在と切り離して価値化する術を持っています。これこそヒトのヒトたる由縁なのですが、反面、ヒトであることの最大の悲劇でもあります。

■比喩の具象化(お金と神の誕生した訳)

比喩の具象化がなぜ人に於いて可能となったのか、養老孟司先生による仮説が最も的確かと思われます。

その前に、まず、物事を言葉に喩える、つまり、実際の「花」が、「花という言葉」と同じである、と思えるのは、どういう仕組みがあってでしょう。

言い換えますと、人はなぜ、意味(シニフィエ)[花]、に、言葉(シニフィアン)[花という言葉]を与えられるのでしょうか。

音声に意味を接続可能であるのはどうしてか。
もっと言えば、脳に入力された五感に意味を持たせることができるのは、どうしてでしょう。

身体(感覚・空間という外部からの入力)と心(時間)を繋ぐ事の出来る人の機能がこれに当たります。微積分には出来かねる、数式では記号接地が叶わないパートに相成ります。大雑把に、ヒトは、プログラム抜きで、見たものに名前を与えることが出来る、と言い換えることも出来ます。

この機能こそが、過去記事でも考察いたしましたように、先天的に備わっている普遍言語機能のうちの比喩機能であると思われます。(因みに、非比喩機能が、所謂普遍文法機能)

存在の方程式として言い換えますと、A(花)と、非A(花という言葉)が、Aと非Aの境界(ヒト)によって繋がる、ということです。

ヒトの赤ん坊は、あるとき、気づきます。

「まんま」という声(音)で、目の前にいる乳を飲ませてくれる「存在」を、言える事が分かるのです。

即ち、存在を、言葉にして表現できる事を覚え始めるのです。(この作用を「喩える」と言い得ましょう)

脳の中に元来備わっていた「見えるもの(視覚情報)」と「聞こえるもの(音声情報)」を繋ぐ回路(言葉)に「電気が流れた」と比喩的に言い得そうです。

つまり、五感信号を結線する役割が言葉にあると考えられます。もちろん、あおいのきせきの知見とは、言葉が事象の分切作用と同義であるということでもありました。

ところで、習得する順序から言えば、言葉は、話し言葉が基本です。しかし、養老先生は脳の解剖学見地からその考えに疑問を抱きます。成る程。

さて。

養老先生は、言葉には、上のように、主に聴覚言語(話し言葉)と視覚言語(書き言葉)の二種類があることに着目します。(触覚言語についても触れられておりますが、詳細は、「唯脳論(筑摩書房)」を是非)

脳に入力される二種類の情報の質に互換性はありません。元は、目に「見えた」電磁波と、耳から「聞こえた」音波という別のものです。

この別々の、異なって感じるしかないはずの情報を、なぜ、私たちは同じ対象であると理解することが可能なのでしょう。

養老先生は、脳を機能(非構造)と構造(非機能)に分けて考察していくのですが、要するに、「言語」が、脳内において、その二種の異なった情報を同じであるとする、との仮説を立てられました。

言語という、いわば「中間子 = b = 言葉」によって、意味が繋がるのです。

( a =  b  ∩  c = b  ∴  a =  c )  ⇄  存在の方程式 

「まま」という獲得された言語によって、「まま」という声(音)が、「まま」という文字(目で見えた形)と同じであると、ヒトは、わかり得るのです。

現象(見えたもの、聞こえたもの)を抽象化する働きが言語機能の一つですが、喩えて抽象化された言葉を、こんどは、実存在だと思い込み、脳の中から切り離して、身体の外に誕生させてしまったのが、「お金」と「神」です。

ヒトには、言葉を外界に延長する機能が装備されていると言い得ましょう。

再三述べて参りましたように、お金の実体は数字です。事物を数値化したもの(価格)を価値だと信じることが出来るのは、数字が、空気と同じように、例え見えなくても、空間に実在するなにかであると、信じているからです。空間には存在せず、非空間にしか存在していないものについて、私たちは「妄想」というレッテルを貼って一蹴してしまいます。そうして、お金、つまり、数字は元来非空間に在って、空間には存在していません。すなわち「お金」は「妄想」に過ぎません。にもかかわらず、私たちは、お金が欲しいというヒトを妄想にとりつかれた狂人とは思いません。

お金こそ共同幻想と呼べるかもしれませんが、なら、それが金融経済が妄想経済だと気づくのも容易でしょう。

硬貨は実在ですって?

あれは、鋳型にはめた金属ですし、紙幣は印刷した紙です。後段でも述べますが、見えて触れる実在する物質を、それとは別の何かだと信じられるのが、「フリ」と「ごっこ」遊びが出来る幽玄な私たちである、ということです。(見立て。盆栽。造園。芸術)

まず、その前に、私たちは「数字をお金ってことにして遊ぼうね」という「ごっこ遊び」をやっているのです。その後、「じゃあ、お金はこの丸い金属ってことね」と二重の「フリ(ごっこ遊び)」をして成り立っているのが、貨幣経済を基軸にした金融経済という訳になります。

そういえば、イルカもごっこ遊びが出来ると聞いたことがあるような気もしますが、どうだったでしょうか。

■偶像崇拝禁止のオキテを破ってしまった科学

偶像崇拝が禁止される、本当の意味がお分かりになりましたでしょうか?

頭の中の妄想を実存在として扱うと、大変なことになりますよ、ということです。{弊社が盛んに訴えていることと同じです。そう。ブラック・ホールが仮説として存在してしまうのは、数や図それ自体は空間には存在できないのに、出来ると(偶像崇拝)してしまったからに他なりません}

動植物では持つことの出来ない文化文明は、ヒトのこの「中間子」を実在と思い込む機能によるものであり、反面、自然に反した破壊行為(概念による人殺しなど)を可能にしているのも、この機能のある故であります。

ハンバーグと書かれたメニューは食べられない(価値がない)にもかかわらず、言葉の書かれた紙切れが証券や債権に化ければ、価値があるという魔術が有効なのも、偶像崇拝を可能たらしめるヒトの機能がある故です。

もちろん、金融経済の大本である、数字を価値だと信じる事が出来るのもこの機能、「フリ」と「ごっこ遊び」が出来る故です。

偶像崇拝の禁止と、アポカリプスに於ける獣の刻印の逸話は、一神教における人類に対しての同一警告です。

端的に、行き過ぎた貨幣経済が人類を滅ぼす事への警告です。(まさに今)

■現世(実在の世界)と常世(言葉の世界)

言葉の世界と現実の世界が合わせ鏡であることを、もちろん、人類は知っていました。ただ、存在の方程式とは、表現の仕方が異なっていただけです。

常世に在るしかないもの(言葉)を、現世に持ち出し、現世のどこかに常世があると勘違いして、神が生まれます。

偶像崇拝の禁止とは、要するに、常世の存在(非空間)を現世(非時間)と勘違いするな、ということです。

もちろん、数字をあがめてはいけません。元来が現世には存在し得ませんから。

ただし、アイドルは別かもしれません。生き物で「ごっこ」すなわち「演じる」ことが可能なのがヒトだけであるのも、常世から中間子を現世に持って来られるというヒトの力によるものだからです。

■偶像と大自然が繋がった経済

常世である言葉を現世に在ると勘違いせず、現世と等しく接地した経済にならなければ、本来の経済活動が阻害されるのは当たり前です。(経済の記号接地問題)

要するに妄想を現実として突っ走って現実が壊れないわけはありません。

現行の金融経済が、自然経済(経済学用語としての意味ではなく、大自然の営み = 全生物と非生物の共生システムの事)と、まったく無関係である故に、双方の営みが相容れないのです。

お金という常世の世界を、現世と勘違いして組み立てた仕組みが、金融経済です。

ヒトという「生き物」は自然経済の一員であるにも関わらず、ヒトの経済が自然経済を無視している理由がここにあります。「頭の中で組み立てた」だけの経済が、「実存在の世界」と繋がっていないのです。

このような事になってしまうのは、人の介在を要せずに、時間(常世)と空間(現世)が一体化してしまう(微積分によって心と空間が一つであると仮想する)ニュートン的宇宙像に基づく経済のせい、とも言い得ます。

今の宇宙像から、一つの時空間と錯覚される世界は、実際には心の中と現実の世界とに分けられて別に在るので、現実の世界にある自然とは、金融経済からすると、ただ単に価値を奪う対象でしか、構造的にあり得ないのです。

また、微分思考とは、動的なものを止める事でもあります。なので、存在自体が動的である、動植物を生かしたまま経済に組み込めません。

即ち、木は切り倒さないと、価値(貨幣)になりません。

そして、そのようなヒトだけの経済と、自然経済との勝負の結果は、火を見るより明らかでしょう。

今、盛んに危惧されているような、地球環境の危機は、ヒトの経済を自然経済に内包させなければ、絶対に解決できません。

さもなければ、ヒトが自然を巻き添えにして滅亡する、という未来以外に想像がつきません。奪うことが金融経済の基本だからです。与えることで回っている自然経済を奪い尽くして、いずれ奪うものがなくなりヒトが死ぬのは「当たり前」です。

国債と信用創造から起動する金融経済に於ける価値の循環は、「貸し出した価値を返却させる」という天然自然とは正反対の向きに循環しています。

大自然は価値を創造して行くことで、価値が循環していきます。

このような金融経済が、自然経済と合致しようがありません。

現行の金融経済の発展が、自然環境の破壊もたらす原理が、存在の方程式によって明らかになりました。

まず、実際問題として、ヒトの行為が、通貨(貨幣)の介在によって、目的と手段に分断されない経済が必要です。

大自然の一部でしかないわたしたち人間の営みも、ビーバーのダムのごとく、或いは自然と見分けのつかないカタチになってしかるべきなのです。もちろんこの言いようは、建築の問題に限りません。

問題は、エネルギーの「採掘」と「転換」と「配分」そして「還元」という循環構造に集約し得ます。

現代の街作りが確かに、そちらの方向に向かっているのは確かですが、経済の意味を見直さない限り、かならず歪みやごまかしが生まれてしまいます。価値を生まない緑を増やすのは利益に反するから価格転嫁するなんていう馬鹿げた現象を解決するには「利益」そのものの意味を転換するしかありません。

ポスト・金融経済においては、GoogleMapの緑色の部分が、例え人が住んでいようといまいと「豊か」で「経済が発展している」となります。

我々のチャレンジは、鮮やかな緑色に彩られた場所で、どのようにして自然な経済を棄損せずに生きていけるのか、そうではない部分をどのようにして「非人工的(緑色的)」な生活圏へと移行させていくのか、という事になっていきます。

そこからも「素材とエネルギー」へと話が繋がってきますが、そのアイデアにつきましても「あおいのきせきの知見」は持ち合わせているのです。

■ピラミッド型社会から粘菌型社会へ

公平で平等な社会は、現代のようなピラミッド型社会では実現し得ません。
言われてみれば「当たり前」だと気づきますが、そもそも社会構造が不平等で不公平なのですから、その構造の中で公平・平等を求めるのは、青の絵の具しかないのに赤い絵を描こうと言っているのと同じです。社会構造を変えなければ、問題は解決不可能です。

上下下達のピラミッド型社会は、構造的に不平等と不公平な社会です。

ピラミッド型社会でのトップの奪い合いと、その後の規格化された仕組みの構築は、いずれかならず革命か被侵略によるトップの交代という混乱に至ります。そうして、その混乱までの道のりは、要するに不平等による社会に対しての不満の積み重ねです。人の歴史がすべてそのように動いてきたのはご存じの通りです。これでは、恒久平和など夢のまた夢です。

ピラミッド型社会では、システムのバランスを保つために、(権)力の配分が逆三角形に反転します。組織の上が強く、下が弱いことで、社会のバランスが保たれますが、もちろん、これは「物理的」にとても不安定です。故に、何れ崩壊するのだと「(社会)科学」としてアナロジックに言い得ましょう。

社会の維持には適材適所が不可欠ですが、権力はネポティスティックに固定化する方向に向かうのが自然なので、太平の信賞必罰を嫌います。すると、社会全体の恒常性が担保され得ません。端的に申しますと、愚劣な者ばかりの権限が増大するので社会がおかしくなります。

それが今の日本です。(加えて日本は、権力から疎外された権威の問題も抱えています)

経済の仕組みが変われば、価値基準もかわり、組織がピラミッド型である必然性(或いはそれに向かう人間の欲望)が失われていきます。過去、ヒトがそのような生活様式を採用して不都合があまりなかったことは、歴史が証明しています。そうして、私たち日本勢は、縄文文化という知見を他に先駆けて有していたのですから、幸いにも積極的に(見習わないを含めて)見習うべきお手本を、既に、持ち合わせているのです。

適材適所は人材に限りません。すべての物事が「Let It Be」であろうことを指示しています。前提としての価値判断が正しくされることが大事なのです。

詳細は過去記事に当たっていただきたいのですが、真理に基づいた社会を構築すれば、大自然も真理に基づいて営まれているので、すべての人が幸せに人らしく生きていける社会が自然とできあがります。

社会構造と経済システムは密接に関わっています、というか、同じものの別の側面です。ポスト金融経済に希求される社会構造は必然的に(粘菌型へと)決まってきます。

別の角度から指摘しますと、社会構造を考えた場合の根本の問題点は、要するに規格化、或いは数値化( ≒ デジタル化)の不可能性の問題です。

次節でも詳しく述べますが、線形代数での例えの通り(或いは過去記事での検証の通り)、経済(あるいは社会構造)全てを言語化(数値化)して規格化することは、できません。これも対角線論法の一面とも言い得うるのですが、要するに、生命体、特にヒトは自由意志を持った非ラプラスの悪魔的宇宙に住まうものであるからです。計算通りに動かないのが基本原理であるものを、計算に当てはめて無理が出るのは当然でしょう。

社会構造からの外れ値の処理として、固定した(静的な)ピラミッド型社会は、アジールというトポスを作ることで、それらの規格外を回収するという術を持っていた(る)訳ですが、現在ではその力が大分失われていることも問題になっています。

しかし、社会の構造そのものが粘菌型であれば、規格(ネットワークの形態)の変化を構造に取り込むことで、規格外を内包する仕組みが組織に備わります。

逆から申しますと、粘菌型社会システムは、規格外でしかあり得ないヒトを基軸にして組み立てる動的な社会構造なので、真の意味で「誰一人取り残さない」ことが出来るのです。

確かに、今の固定されたピラミッド型社会構造のままで、このスローガンを施行すれば、全てのヒトを規格化する、という意味になり得て、そんなのはごめんだ、という答えしか出てきません。

■動的で規格化され得ない社会と、個人のより良い関係を求めて

古人のよく指摘されているように、世は諸行無常こそが常なのです。

生物は、ましてや言葉を持った私たちは、日々刻々と変化しています。一個人として、よく言えば成長していくし、悪く言えば老化していきます。心も身体もです。そうして、その常ならん私たちは、この国に限っても1億2千万という人々が、ひしめき合って暮らしています。そして、その一人一人の関係も日々刻々と変化していきます。加えて、誕生と死によってその構成要員も変わっていくのです。

そのような動的である社会こそが常態の中で、社会を構成する仕組みが固定されていて歪みが出ない訳がないことを指摘するのに、何もわざわざカントールの対角線論法だの線形代数だの持ち出すまでもないでしょう。そんなことは、経験則として誰しも容易に理解が可能であると思われます。

これはすなわち、未来予測の不可能性の問題の、別の側面でもあります。規格化された社会とは、変化を認めないことと同義ですから、昨日と今日は同じ、そして、明日も今日と同じであろう(同じである)事が、前提とされた社会です。

過去記事でも、いろいろな角度からこの問題に触れましたが、社会問題とは要約してしまえば、

規 格 ↔ 非規 格
決定論 ↔ 非決定論 

という対立軸の上で、私たちが如何にしてバランスをとって生きていくかの飽くなき挑戦であると言い得ます。

非決定論に振り切って、規格無き社会に生きるとは、明日がどうなるか全く分からない世界です。

そこは、思いつきと直感ばかりで、出たとこ勝負のバトル・フィールドの社会です。うまくいけば、食べ物にありつけるし、さもなくば、飢え死にです。

要するに、生き物たちの調和無き自由意志だけの世界です。

歴史から、私たちはこのような時代の経験を積んだ後、今に至っているのだと学んでいます。

かなり恐ろしい世界ですよ。日々世界との戦争です。

人類の戦いとは、このような明日をも知れぬ世界の明日を知ることへの挑戦であると言い切って言い切れるほどです。

そして、いつしか私たちは言葉を手にし、宇宙を言葉に喩える事を覚えました。

宇宙に規則があることを言葉で以て理解し、すると、逆に言葉を世界に当てはめて、未来がある程度予測出来ることを知ったのです。

太陽と月と、星々の動きから、今と未来を知りました。そして、動植物に名前をつけ、彼らの生態を観察し、その規則を理解しました。

すると今度は、その反対を行為して、予測した未来通りの未来を実現する術を学びました。こうすれば、こうなる、事が分かったのです。

そこで、狩猟採集が可能となりました。

そうです、次は、飼育と農業の世界です。

ここからは、飽くなき規格化の世界です。規格化により知り得た未来は、私たちの直ぐ目の前にあった死の恐怖を先へ先へと追いやることに成功して、ついに、日常ヒトの死を見ることはまずないところまでやってきました。

私たちは、規格化によって安心を手に入れたのです。遙かな時間をかけた甲斐もあり、ついには安心こそ常態で、死に至るような出来事は、(病すら含めた)事故や事件という非日常である所まで世界を反転させることに成功したのです。

これを人類の偉業と言わずに、何を偉業と言っていいか分からない程です。

しかし、

一方、規格化された世界は、非日常を許さない世界と同義です。安心な未来は、予測された通りであることが条件です。予測された通りであるには、ニュートンの言うように、ヒトも物理法則に則った機械の通りに動く必要があります。

要するに、人は、思いつきと直感という勝手を許されないから、未来予測が可能になりました。

しかし、もし、規格以外のことが社会として不可能とされていれば、つまり、確かに明日は今日と同じで安心ですが、理屈では、1000年後も1万年後も今日と同じ社会構造のままです。

そもそも発明・発見は、ヒトが勝手をして規格を外すためになされるのですから、規格化に振り切った社会は進歩が止まります。止まるだけではなく、社会は劣化して熱死へと向かっていきます。

ところで、そもそもが勝手に出来ている私たちヒトは、何処まで勝手が許されるのでしょうか?

或いは、道徳とヒューマニティだけを手放さずに、どうにか、安定した社会は築けないものなのでしょうか?

出来ます。

金融経済を脱しての粘菌型社会こそが、ようやく人類が得ることの叶った、規格と非規格の見事にバランスを求めた、最新の回答であると断言できるのです。

■ポスト金融経済に於ける粘菌型社会とは

ピラミッド型社会は、ピラミッド型組織の集合体で、基本、上意下達で動く生命体のようなものです。法人という概念が、これにほぼ適合しますが、同一という訳ではありません。組織の構成は三角形型にほぼ固定され、運営には規格化された組織図の通りに配置された個人が「言われたとおり」に動くことで目的を果たすよう機能します。

ピラミッド型組織は一貫した名前を持ち、組織の中で個人が名前(個性)を持つことはまずありません。組織の中では決められた役割を果たすことが求められるからです。

組織が求めるのは役割ですから、そこで働く人に求められるのは、交換可能性になります。代替不可能性は組織の永続性を棄損しますから、規格化され得ない個性はむしろ忌諱されます。

過去記事でも述べて参りましたが、人々の価値観が均一で、身分制度など立場の規格が固定された社会として、全体の目的が明確な場合には、この組織形態は非常に有効に機能します。つまり社会全体が静的な場合にとても有効です。

社会全体から見れば、です。

反面、この社会構造では、システムの含有するノイズ を全て個人が負担することになり、この点がこの仕組み最大の欠点になります。

未来予測を線形代数、y = ax + b、 で表した場合、 y を社会の求める予測された値とし、x を規格化された社会構造を意味する固有値とすれば、ヒトはあらかじめ ab に振り分けられてしまいます。即ち b を社会参画させないことで  x という社会の規格を固定したまま 望ましい y を得続けるという訳になります。

ほとんどの場合、この振り分け作業は、ヒトが社会化する直前に決定されてしまいます。大きな濃淡はありますが、a として y を導けないヒトは、社会 = x と結びつけない非規格化個体(不適格な変数) = bとして社会からはじかれてしまいます。

もちろん、 この社会では本来変数であるしかないヒトは、固定された yx に縛られた a という固有値 で在り続ける必要があります。

個人は組織の駒に過ぎません。システム(社会)の維持は要するに、システムが望まないヒト (b) をシステムに受け入れない事と、システムの不具合( y が予測された値になりそうもない場合)は変数である a を 社会からはじく( b として扱う)事で、特に、日本のピラミッド型社会は機能してきました。

この機能により、日本社会では驚くべきことに、まったく非のない犯罪被害者ですら、システム維持に不適格な存在として、排除の対象である規格外としてしか扱ってもらえません。

また、日本の場合、ピラミッド型組織の所属に関して融通がききません。いったん所属した組織を抜ける( = b となる)と、次に身を置く場所を見つけるのが容易ではありません。( = a に戻る事ができない)

加えて、ピラミッド型組織は、組織の所属する社会全体が動的であり(そもそもの、方程式の成立する前提要素が変数化した場合)、それに合わせて組織の目的を細分化させたり、次々に変化させたりといったことには全く不向きです。まるでタンカーが障害物競走に向いていないが如くです。(要するに固定された値である x を変更することを嫌う)

対して粘菌型組織は、いわゆるネットワーク型組織とかぶるのですが、粘菌の言葉どおり、社会の状況にあわせて個人を組織したり、非組織化したりして、縦横無尽に動ける有機体としての組織です。

粘菌型組織は、個人に役割を求めて構成されるのではなく、役割に求められた個人の集合体です。真の意味での適材適所が徹底された仕組みです。

線形代数を再び引用しますと、y を項目ごとに細分化し、方程式を永続化せず、x を固有値とさせない(変数化する)事で、 a b もない社会を構成するということです。

ポスト金融経済下では、信用と交換可能性が個人に帰属しますから、ヒトは非個人(他者)・又は組織に依存することなく生きていけます。或いは生きていかなくてはなりません。もちろん、社会での役割は完全に個性に依拠していますから、各個人の負担する生きるための労力は、必ず相応なものになります。そこは、生産性とは無縁の社会です。弱者適応性という言葉が意味を成さない世界です。

一個人に組織されるネットワークは、固定したものではありません。プロジェクトされた問題解決のためのチームと考えるとわかりやすいかもしれません。必要に応じて、必要なスキル・スペックを有した人材が配置され、状況や環境にあわせて、組織構成が変化していくのが粘菌型組織です。

ただ、この物言いは、組織という仮想された有機体から考えて見たものですから正確ではありません。

あくまで、粘菌型組織は、個人が主体の仕組みです。解決の必要な問題を見つけるのも個人ですし、解決の為に主体的にネットワークを組織するのも市井の個人です。

必要に応じて人々が集まり、タスクが配置されて執行され、必要がなくなれば、解散します。

同じ個人でも、時期によって複数の組織に所属することもあれば、どこにも所属する必要がない場合もあるでしょう。

分人という考えがあるそうですが、非常に粘菌型組織の思想と相性がいいようですから、この分野の研究がとても有用かと思われます。

粘菌型社会では、個人の所属するコミュニティは動的であり複数であることが常態の社会になりそうです。

家族を基軸に、子供ですと、学校、クラブ活動、学童、塾、習い事、など複数のコミュニティに所属するとことがよくありますが、それに似ています。

また、個人的にイメージが沸くのは、腕の良いミュージシャンです。プロジェクトごとに集まり、一枚のアルバムをつくり、解散し、何かのライブツアーで各地を巡り、今度は俳優として映画に出演し、それ以外は畑で農作業をしたりする、そんなイメージです。

実は現在でも次世代型社会で参考になる生き方をなさっておられる方はいらっしゃいます。唯、それが可能なのは、万に一つ以上の飛び抜けた才能と幸運を兼ね備えた一部の天才に限られています。このようなライフスタイルが一般化していくと考えればイメージが沸きますでしょうか。

完全なる自責の世界ですが、併せて利他の社会であるので、疎外とは無縁のとても暖かい人間味のある社会となり得ます。

もちろん、社会構造改革は教育改革とセットです。今の金融経済下の社会構造に合った価値観に基づいた教育システムでは、自責を生きる大人を育てるのは大変困難です。

過去記事にも記しましたが「何かの専門家(得意分野がある)けれども大抵のことは何でも出来る」個人が育つ教育の仕組みが求められます。もちろん、このような社会になり、初めて「生涯教育」というものが本当に意味を持ちます。「勉強は長くても大学(院)卒業まで、その後は組織に所属して労働」という当たり前を再構築するところから始めないとならないでしょう。

一つ注意点として、粘菌型組織はピラミッド型組織と対立するものではありません。粘菌型組織も、必要に応じてピラミッド型を組織可能ですし、その組織を長期間保つ事も出来得ます。それでも、主体はあくまで個人ですから、関係する全ての個人と接地しない組織の意志がないことに意義があります。組織がそれ自体を目的化することがないのです。

更に、Web3.0や人工知能といった技術を加えれば、ネットワーク(コミュニティ)は、空間の近接を必ずしも必是とはしません。近頃流行ったリモート・ワークも弊社知見による「大きな文脈」を与えられれば、俄然、その意味合いも変わってきます。デジタル・ノマドが世界の最新トレンドだそうですが、ポスト金融経済において、人は空間に縛られる必然性を失いますから、これらの新しい働き方も、粘菌型社会と親和性があることが分かります。

しかし、繰り返しになりますが、空間に接地しない価値はありませんから、そのことを忘れてはいけません。

第一、農業や重工業など土地と不可分の産業が直ぐになくなることを想像するのは困難です。インフラの保守という役割がなくなることも考えにくい。

デジタル・ノマドと言えども、身体は必ず何処かの場所にいるわけですから、世界の何処であろうと、その場所の歴史(言語と文化)を無視するわけにはいきません。

もし、デジタル・ノマドが、何処でもない場所 {= あらゆる場所を無縁(アジール)化すること}こそ理想郷であるというトポスに陥れば、近現代の「過ち」とも言える「グローバル」化した世界での「コスモポリタン」に再帰するだけになってしまいます。これらの文脈が価値相対主義と地続きで、その考えは結局、人の幸せを見誤らせる罠であることを、ずいぶん昔に西部邁先生がお話になっておりました。(幸福論は機会があれば、別に論じたいと思います)

空間(地域の言語・文化)に全く接地しない金融経済のみの価値観が、歴史と文化の破壊を伴う世界の均一化にしか至らない事は、21世紀の今を生きる私たちにはもう理解が十分に至っていることと思います。

人には帰属する何かが必ず求められていて、そは何れ母語という言語に収斂されていくのではなかろうか、と個人的には予想しています。そうして言葉は大抵、固有の土地と不可分です。

いずれにせよ、次世代型経済を大きな文脈として「リスキリング」といった流行言葉を理解すると、そこには全く異なった意味が浮かび上がってきます。人が生きてすべきこと( ≒ 仕事)が一つである必然性はないし、人生の時期によって変わる場合もあるだろうという事です。もちろん、一つを極めることも大変意義が深いことでしょう。これが職業多様性の本来の意味です。

また、官民一体となって個人の起業を推し進めているという流行も、同様に弊社知見というナラティブを獲得すれば、その本当の意味も分かります。粘菌型社会においては、一人一人がスキルに応じた相応のヘッド・クォーターでいなければならなくなるということは、一人一人が(法人化の有無にかかわらず)個人事業主としてあるのだ、という意味になり得ます。

非正規雇用という労働形態や、異業種のコラボーレートという流行も、大企業主体の国家と強く一体化したピラミッド型社会構造のままでは、ただの個人搾取の道具にしかなり得ていない事が、社会問題となって久しくあります。この社会構造では、ピラミッドの上から仕事をアウトソーシングしていく事が、ただの中抜きにしかなっていないのは自明です。

けれども、これら経営のニューウェイヴも、脱金融経済からの粘菌型社会という大きな文脈に乗せることで、はじめて生き生きとした、お為ごかしではない意味を獲得できるのです。

さらに空間(土地)との関係では、「多拠点生活」という流行りも、この文脈を背景にすれば、その大きな意味も理解できるようになるかと思います。ある人にとっては、関与するプロジェクト( ≒ 仕事)がその人のいるべき場所を必然的に決めることもあろう、ということです。プロジェクトに要請されたり、複数のプロジェクトに関わっていれば、自動的に生活は多拠点にならざるを得ないでしょう。

これから必然的に要請される社会変革を簡潔に申せば、個人が生活するために、利権化されたシステムに従属せざるを得ない仕組みがなくなる、と言うことにつきます。つまり、常ならんが常になるということです。

■奴隷の解放

「私たちは自由だ」という思い込みにより気づきませんが、私たちはまず、通貨の奴隷状態に置かれています。

自由とは、時間と空間の自由(好きな時に、好きな所で、すべき事が出来る)を意味しますが、現代社会に於いてこれが可能なのは、「時間と空間の自由を享受するに十分な通貨を有していること」が大前提になります。

銀行の計算した支払い義務に拘束された未来から自由になることが叶わないのが人々の生活です。人々はみな数字としてはじき出された金利を併せての支払金額を、決められた未来に返済する以外の自由を奪われています。仮に個人で借金をしていないとしても、その個人の属する社会・自治体/国家がこの仕組みに未来を縛られていますから、結局は誰もこの「原罪」に等しい借金の支払い義務から自由に生きることが出来ません。

なにしろ法定通貨は、国債(と信用創造)という借金に担保されているのです。通貨が債券である事の意味は、法定通貨を使う限り借金を背負っていることの証なのです。

価値の創造が借りである事自体が間違っていることの考察は過去記事でも行いましたが、今回も後半で繰り返します。

この事の意味は、要するに、地球人は皆、お金に自由を奪われているということに他なりません。

私たちが、お金に支配されている仕組みについて解明され得たのはひとえに存在の方程式のおかげなので、貨幣/金融経済の仕組みを追求するのに、この知見は間違いなく役に立ちます。というより、この知見がなければ、お金に使われるという奴隷状態からの解放は、未来永劫不可能であります。

経済が、価値の創造と交換(ではなく相互贈与)の自然(じねん)に則ったかたちにならなければ、私たちの不自由と環境破壊はとまりません。

金融経済は、銀行(通貨)に「私たち自身の信用・交換可能性」を剥奪されていることで回っていて、故に、私たちは通貨がなければ自分で生産した価値で生活が出来ず、結果、銀行(通貨)に支配されていることの仕組みは以下、過去記事に明らかです。まだお読みでない方は是非。

ところで、通貨が「獣の刻印」であっては困る新興宗教の方々による弊社知見の周知の妨害については、一例として 「#獣の刻印」など弊社のつけているハッシュタグ をたどれば直ぐに分かります。彼らこそが奴隷の看守を担っているのです。

■あおいのきせきによる社会改革の歴史的意味

■経済、テクノロジー、社会構造

科学技術と産業が不可分であることに疑問はないでしょう。そして、産業とは価値の創造と循環の機関部分です。

即ち、ヒトの経済。

そして、社会構造は、経済に寄り添ったカタチになるのが本来です。
言い換えますと、価値の循環があまねく隅々まで行き渡るような仕組み(構造)にしませんと、生体と喩えた経済は病んでしまいます。構造的な病因を全て社会の構成要員である個々人に転嫁していよいよ行き詰まっているのが日本社会(或いは世界経済)であると言って間違いないでしょう。

しかるに、社会構造は旧態依然のまま、現代の最新テクノロジーと産業に沿うようなカタチになっていません。

情報革命で手に入った「非空間(時間)の自由」を「空間の不自由」が阻害しているのです。

眺めてみますと、私たちの「空間の自由」を束縛しているのが、生きるために必要な(労働対価としての)価値というものが、銀行経済に同期した土地に縛られた産業構造自体にあるのだ、と分かります。

私たちの「時間(心・非空間)」は、それを切り売る事でしか、貸与された価値(通貨)を手に入れることができません。これが金融経済という時間泥棒の仕業であることは、過去記事にて述べましたとおりです。

「信用」の宿る心を奪って、寄せ集めた「交換可能性」という通貨に従うしかない世にあって、そのような金融経済の社会構造に従属させられた状態に、皆が疲弊しています。

これは、要しますと「時間の自由」を金融経済に奪われた結果「空間の不自由」に晒されている、という事になります。

人々の日々の行動が、通貨によって、目的と手段に切断されている経済では、そうならざるを得ません。しかし、その切断がなくなってなお、産業と社会構造は今のままでいられるでしょうか?

時間泥棒から時間(心)を取り戻すとは、通貨から「交換可能性」という「信用」を一人一人に取り戻す事です。おのおの好きなことから、すべき事を見つけて、それに挑んでいくのが、脱・金融経済での私たちの姿です。

言い換えますと、24時間ある一日をどのように過ごすかの主権を取り戻す、となります。

これが脱・金融経済の一歩ですが、そのような事が可能になったのも、テクノロジーの進歩によります。「価値」は一例として、銀行抜きでも通貨というカタチを保持したまま循環させることが可能であることは、ビット・コインなどの暗号通貨の登場によって既に明らかです。(暗号通貨もその発行、例えばマイニングというやり方が自然なのか検証する必要があるでしょうが)

また、別の意味で「空間の不自由」は、世界中を移動することの手間とスピードの進歩によって、かなりの改善を見ています。19世紀と比べてください。今なら、3日あれば、大抵の所までいけます。江戸時代、3日ですと日本橋から東海道を下って箱根を超えられたでしょうか?

手にしたテクノロジーによれば人が自由であり得る経済を、金融経済と、それに寄り添ったピラミッド型に固定化された社会構造が、阻害しているのです。

■脱・金融経済。そして自然の一員としてのヒトの経済

通貨の発行が、生前から決められている「私たちの借り(国債・信用創造)」ではなくなった途端、経済、つまり、価値の循環が社会構造改革を伴って、自然と一体化した経済と化すことは明らかです。もちろん、順番を間違えると大変なことにもなり得ますが、まず、銀行がなくなりますと、そうはなりません。そうして、千載一遇のチャンスはまもなくやってきそうです。

すなわち、国家債務が吹っ飛ぶ(国家デフォルト)というチャンスです。

無意味(無目的)な通貨の存在自体が、自然経済と私たちの生産活動(ヒトの経済)の一致を阻害していることは、過去記事に記しましたとおりです。

実在と接地していない唯の数字が無いと生きていけない、或いは、通貨の量に比して、交換可能性が果てしなく増殖して行くと設定された、金融経済が失われて尚、自然破壊と人殺しを好き好んで行う人間は、狂人しか思い浮かばないのですが如何でしょう?(もちろん、交換可能性という信用が、全ての個々人にとり戻してなお、そのようなことは出来るのか、という疑義にもなり得ます)

別の角度から言えば、私たちの経済が自然と接地していないから、私たちは自然の破壊と無関係でしかいられないのです。即ち、日常の生活(経済活動)に於いて、自然破壊を止める事に無力なのです。そして、自然が壊れても、直接心身が痛むということもないのです。自覚症状のない大病の如く、このままでは、気づいたら、人は、自然の中で生きていく場所がなくなっているかもしれません。

■「かのように」フリをする偽りの経済から人心を取り戻した経済へ

ピラミッド型社会も、金融経済も、ヒトを偽らせることで、成り立つ世界です。

過去記事の通り、貨幣制度を基幹にした金融経済とは、人の行為にお金が入り込む事で、目的と手段に行為を分断してしまう社会です。つまり、何事も「やりたい事」の前に、お金を稼がねばならず、すべきことができません。「やりたくもない」「すべき事でもない」事が仕事なのが「当たり前」とされている世界では、すべてがフリをする世界にならざるを得ません。もちろん、そうではない人も沢山いるでしょう。でも、それはそう教育されてしまっただけかもしれません。確認してみてください。貴方の本当にしたいことは何ですか?

今の教育システムは、子供の個性を見極め、本人の適性とやる気から、その子供がどのような方向性に進んでいけば、ほんとうに充実した生きがいを見つけて満足できる人生を歩んでいける(すべき事を見つけて、挑んでいける)のかという事を、まず無視して成り立っていますから、下手をすると、すべき事はおろか、自分の好きな事すら分からないまま社会に出てしまうといった悲劇がまかり通っています。

努力というのは、やりたくないことを我慢してやることではなく、やるべき事を見つけ出して、それに邁進することを言います。

教育で必要なのは、精神世界風に言い方を変えると、社会として子供を育てる中で、いかにして皆が「運命」を悟り「宿命」をつかんでいけるのか、です。

本来の人生の価値が、それら果敢なるチャレンジの中にしか見つかりようがないことは、歴史と文学という人智の宝庫に数え切れないほど豊富に積み上がっていて、それを人が知らない訳はないのです。

無論、現在の人類が置かれた斯様な蒙昧こそ、お金に幻惑される他はない金融経済の悲劇と言えるのです。

いずれにせよ、例えば、接客に於ける心と接地しない嘘笑いが成立する社会は嘘っぱちであるとの自覚がないのが社会の根本病理です。

一方、前段で述べましたように、そもそも役割を演じないといけないのが、ピラミッド型社会です。一部上場、もとい、プライム上場する大会社の社長ですら匿名の社長という役を演じさせられているに過ぎません。なので、会社を退職してしまうと「Nobody」と化して身の置き場所が分からないなどという現象が起きるのです。

善悪の判断を誤らせ、社会に悪、具体的には、犯罪と戦争が一向に無くならない根本の理由は、この偽りを大前提にした仕組みが変わらない故です。

お金のため、仕事のためという「便宜」を働かせる構造がある限り、社会から悪は無くなりようがないでしょう。要するに、人心に必ずある善によるコントロールがきかない構造が社会の基幹なのですから、「地球を救う」には、これを直ちに排除するしかないのです。

また、いつわりの人生では、ほんとうが手に入りようがありません。偽の切符で電車に乗れないのは当たり前だと知っている割に、その根本原理が人生に応用できることを知らない人が多すぎます。

幸福や充実感は、本物の中にしかありません

今の世の中を見回すと、嘘っぱちの偽物の人生の中でどうやって自分をごまかすかというテクニックばかりがあふれています。カルト宗教しかり。(だって本当の幸せへの道を示す弊社知見を潰そうとしているでしょう)

心と身体(行為)が必ずしも一致していないのが当たり前である「ニセモノ」が、人生の幸せという「ほんもの」を手に入れようがありません。

すなわち、金融経済下のピラミッド社会では、誰も皆、自分自身で自分自身の人生を歩んでいません。今の仕組みの中で指摘すれば、まず、自分の名前を持たず、役割の中で生きておられる方は要注意です。

金融経済では、金銭的価値という幻が世界を覆い尽くしています。要するに「獣の数字(価格)」というニセモノの価値によって、私たちは本物の価値とは何なのかかすら、分からなくなっています。

生きることが、通貨によって分断されていて、その向こうにある大きな意味(価値)の本質が見えません。

今の経済システムでは、生きることが金を稼ぐことと同義になっています。生きることの第一目的として君臨する通貨自体には何らの価値はありません。にもかかわらず、私たちに属してる筈の「人としての価値」に意味は無く、「獣の数字(値段)こそが全ての価値」であると主張します。そしてその通り、金融経済においては、その価値基準こそが絶対として、価値の循環、つまり経済を実際に担っています。この世界での価値基準とは金融経済の決定した、数の多寡という独善的価値基準です。しかし、質を量ではかることなどできない事は、過去記事にて検証致しました。

本来、経済的価値は、信用として自分自身に属するものです。銀行の決定する返済可能性(数字は人間)が、人の価値( = 信用)ではありません。

金融の決定する「人としての価値(所有する通貨の量 = 融資可能な額 = 返済可能性 or 労働対価)」の支配する今の世界は、本来の人の価値とは無関係なニセモノの価値観に支配された経済です。

現行の経済では、ヒトの行為と交換可能性が無関係であることが問題と言い換えることも出来ます。

行為は人間性と直結しますが、それとは無関係に交換可能性( = 財産)が増えればどうなるか、世界中のニュースを見れば分かります。あらゆる不幸なニュースの遠因は、すべて「この問題」に帰結します。

通貨の独占する交換可能を取り戻し、一人一人に宿る私たち自身の信用としなくてはなりません。時間、即ち心を取り戻すのです。人の経済は、相手を信用して価値を差し出すのが本質です。交換ではなく、贈与です。数値化され得ない価値の相互贈与の連鎖であるのが、自然な経済の仕組みの筈です。

金融経済では、信用の宿る個々の人間性と、経済が無関係である事が、大問題なのです。そして、無関係である理由は、経済に於いて、人間性が問われない構造を有しているからです。

貨幣経済に於いて人としての価値として問われるのは、人間性ではなく、返済可能性です。そして、返済可能性として求められる価値とは、結局は通貨の量(数字)なのです。もし金融( =貨幣)経済が価値の循環を主張するのであれば、銀行が問うべきなのは、返済可能性(担保)ではなく、善意という人間性を含めての価値創造の可能性でなくては、論理的につじつまが合いません。

それ以前に、なぜ、通貨という名の価値の創造と、通貨と交換可能な価値の基準を銀行が決めることになっているのでしょうか?

結果、ここまで述べてきましたように、通貨それ自体が、なんらの価値と接地していないのです。

本質的なヒトの価値創造性と、通貨の主張する価値が無関係だと言うことです。

これでは、ヒトによって創造された新しい価値が通貨として循環する余地はありません。地球はいつまでの銀行の価値観以外の価値から抜け出すことが出来ません。

そして、その世界こそ、通貨に信用と交換可能性の宿る価値を奪われた、自由のない世界というわけです。

というか、再度申し上げますが、どうして価値のなんたるかを銀行に決められなくては、経済が回らないのでしょうか?

例えば、日本銀行は日本国憲法の外に存在しています。では、日本銀行という権力機関を統治する監視機関はどこにあるのでしょうか?世界銀行でしょうか?

私たちの住む世界は、民主主義の絶対を謳うわりに、どうして、通貨の発行と流通という大事にまったく民意が反映されないという仕組みになっているのでしょうか。このことを疑問に思わない事が「当たり前」であることの意味を是非お考え下さい。

■価値の循環が自然とは逆向きになっている貨幣経済

ここでまた、金融経済を線形代数的に喩えてみます。すると、外れ値 b が社会奉仕活動(善行)という位置づけになっているのが分かります。

y = 経済的利益 の為の効率的な規格 x と結びつくための私たちヒトも規格(マニュアル)化を求められていて、規格化され得ない優しさ、人間らしさは、規格外にしかなり得ません。

しかし、善行(ヒトらしい優しさ)を経済活動に包摂しなければ、社会が恒常的に良くなりようがないのです。そして、一人一人に宿るヒューマニティこそ、価値や信用の本質でしょう。

繰り返しますが、今の経済では、ヒトは信用に、何を問われますか?

銀行に行って融資を頼んでみれば、分かります。担保だけです。担保とはすでに銀行の価値観(未来予測)に基づく交換可能性(返済可能性)がある金銭と交換可能な別のカタチの資産(価値)です。この自己言及的経済は既に構造としてパラドクスであり、何れの崩壊は約束されたシステムなのです。崩壊・破綻を避けるために、銀行(と一体化した産業)は、貸し出した相手から価値(命・生きることそれ自体)を奪い続けるということを行っています。

今の社会で人はあらかじめ、道徳や哲学・思想を語る以前に、分裂せざるを得ません。金を稼ぐための自分(獣の刻印を押された自分)と、金銭とは無関係の自分です。もちろん、「獣の刻印を押された」自分は「ニセモノ」に相違ありません。そして、金融経済の参加資格は、人間性(ヒューマニティ)を失って得られるからこそ「獣の刻印」という名前なのです。

信用に直結する価値、具体的に、人間性とは何でしょう。ポスト金融経済では、この点を模索することになるでしょう。青山真治監督も映画「EUREKA」で問うておられましたが、おそらくは利他の心に関わることかと思われます。

ひとつ、具体的な例を挙げましょう。

今の金融経済で、贈与(又は寄付)はコスト(損益)です。与えることが利益として計上され得ない時点で、今の経済は贈与の循環で回っている自然(じねん)の仕組みから逸脱しているのです。これは税務上の控除といった、つじつま合わせで解決できるような問題ではなく、価値が循環する向きに関しての根本的な絶対的欠陥です。

人間性とは真逆の仕組みが、人を幸せにするわけがありません。善意、すなわち有形無形の贈与が損益であると定義される経済が、人を幸福にするはずがないのです。

これらの考えに強烈な違和感を感じることは、間違いなさそうです。そして、それこそが「当たり前」の力です。論理的にあり得ないこと、おかしな事であっても、それが「当たり前」であると思っていた事には違和感を全く感じません。反対に、正しいことであっても、それが「当たり前」でなければ、あたかも間違っているかの如くに感じてしまいます。しかし、立ち止まって、その違和感の大本を探ってみると、貨幣経済(金融経済)の「当たり前」には、まず「当たり前」以上の論理的根拠が皆無であることに気づくのです。そのことが、過去記事と今回記事で明らかにされました。

贈与は減るばかりではないか。いいえ。贈与されたら増えます。贈与経済では、持ち前の才覚から何かが減る事はありませんが、それでも増えないとしたら、貴方が、贈与して貰えないからに過ぎません。つまり、贈与経済においては、必然的にヒューマニティが経済に組み込まれることに相成るのです。

では、手始めに、どうすれば良いか。簡単に申し上げますと、ただ、逆向きに回る(奪うことで成り立つ)今の経済をやめてしまえばいいのです。

人間性を失うことは、動物である人間には、本来なら出来ません。猫が猫性を失うのが難しいのと同じです。非人間的経済で暮らさざるを得ない私たちは、すると、嘘笑いするしかなくなります。セルフ・マインドコントロールから、究極はカルトの得意な洗脳まで幅は広いですが、全ては如何に自分を偽るかです。

そんな贋物の経済・社会で、わたしたちが本物の幸せを手に入れることは出来ません。

と、

命を賭して、人類史上初めて意識の奥から真理を言葉にして持ち帰った人間が言うのですから、間違いはありません。

人間性と無関係な経済が、自然と人を破壊尽くす狂気と化すのは必然でしょう。

金融経済を脱して、ピラミッド型社会をやめることでしか、世界は正気を取り戻せないのです。

■規格と自由、血縁と能力主義

すべてが、対立事象で成り立つ世界の境界に、ヒトたる私たちが生活しています。

規格(機械論)と自由(自由意志)もどちらが正しいというわけではなく、両方の働きによって宇宙は動いています。

物質と非物質( ≒ 意識)も、両方を理解してこそ宇宙の全てが判然とします。今の科学は物質と機械論という一方の仕組みでしか世界を解釈できていません。(そして、波動というものの扱いに困惑したままです)

コンピューター科学もそうです。言語と非言語が知能であるにもかかわらず、現状の機械工学は言語しか扱えません。さらにはその言語も、文法と非文法(比喩)という相対する機能によって働いていますが、今の人工知能には言語の文法機能しか備わっていません。

社会構造の問題も、結局はこの対義的理解のどちらかではなく、いかに両者のバランスをとるかにかかっています。

未来予測について、社会構造の規格と非規格については前段で述べましたが、一方、血縁主義(国体勢力)と能力主義( ≒ グノーシス派)についても同じです。

つまり、能力主義を極めると、家族、親子の絆は崩壊します。能力主義は、要するに、無能な子供は家族から排除することが正しいとする考え方に行き着きます。

片や、社会を血縁主義で固めれば、社会が劣化することは述べるまでもありません。

すべては、それら対立事象の境界たる私たちが、智慧と経験を持ってバランスよく生きることにかかっているのです。

■あおいのきせき という奇跡

空間と時間の自由をあまねく全ての人が取り戻し、偽りのない自分自身の人生を歩んでいく事が「あおいのきせき」と言えるでしょう。

■あおいのきせき が未来の扉を開く

■大前提(あたりまえ)を取り替えない故の環境破壊・天災

間違った前提から導かれた間違った結論、例えば現状のさまざまな社会問題を解決するのに、前提をそのままにしているから、辻褄合わせばかりになるのです。

■利権と結びついた微積分を前提にした世界からの卒業

未来予測、つまり明日がどうなるか、来年がどうなるかは、私たちが今どうするか、にかかっています。

しかるに、いまの私たちの未来は金融経済による未来予測、即ち、銀行の言うところの「金利計算」と掛け合わせた「通貨の返済可能性」という呪縛にがんじがらめです。

要するに、人の全ての行為がお金に縛られているということです。

しかし、銀行の都合にあわせた演算式によって計算された未来は、人類の未来とは無関係です。過去記事にあります通り、計算による未来予測を正しいとする根拠は、ありません。

つまり、微分・積分を筆頭に、計算による未来予測を可能にしている根拠は、時間(例えば未来)を図示すことが可能である、という嘘です。未来を整数表現できるという嘘を前提にして、人の関係する未来を演算結果として数値化しているに過ぎません。過去の延長としての未来こそが絶対の未来であるという前提に縛られ、ヒトの行為は機械論に則るように仕向けられました。つまり、ヒトは金融経済の数字の通りに動く他、社会活動のしようがありません。金利と返済可能性という未来を計算によって規定した結果、ヒトは機械の如くであるという嘘を押し通すしかなくなりました。故に人の自由である思考や行為が阻害され、私たちの未来が暗澹たる様相を呈しているのです。

お金、言い換えますと予算が全てを決定しなければならない事の根拠など何処にもありません。しかし、人の未来はすべてこの予算からはみ出ることが叶いません。これらの理不尽な構造こそ、あらゆる可能性に満ちた私たちの未来を銀行の価値観に縛り付けいてるものです。ところで採算性が、わたしたちの幸せと無関係であることを態々ロジカルに証明する必要がありますでしょうか?

銀行主体にお金が全てを決定する事の是非が問われています。経済と金融はまるで不可分のフリをしていますが、そんなことはありません。

予測された未来に人を縛ることで未来を確定しているのが今です。しかし、本来の未来は人の自由な意志によって組み立てられるべきです。

未来は、希望に導かれ、自らで切り開くものです。誰かの決めた通りにはなりません。皆で希望という名の未来を望み、共に構築していくことが、未来の社会を予測することの本来であります。

将来「いつ・どこで・何が」起きるかを、都合良く当てられる事はありません。そんなことは、誰にもできません。出来にないにかこつけて、予測した未来の通りに人を拘束するなどもっての他です。

弊社知見の隠蔽に加担した、予言をお持ちの宗教団体のみなさんは如何でしょう。日月神示や霊界物語の何処に「あおいのきせき」による真理の登場が書かれてましたか? 書いてないから、数々の謀略を企てて弊社知見が表にならないようにしてきたわけですよね。未だに触れない。触れられない。貴殿らの「売り物」である「救済」がやってきたのに、です。なぜですか?「利権」を失うのが嫌なだけでしょう

人が、思いついて行動するという力を失わない限り、未来は何だって起こりうるのです。けれども、「誰かさん達のせいで」今の私たちは、見知らぬ誰かが勝手に決めた未来に押し込められています。

金融経済による未来の支配と、科学的宇宙像に存在するパラドクスの大本は、ともに微積分の採用している「無限の果ては無(または無は有る)」という無根拠な前提にあります。結果、時間が空間にあるという事になり、時間、つまり心が盗まれる根拠となったのです。そして、心が省かれた宇宙では、多くの矛盾が露呈することになって未だ解決を見ることが出来ません。

つまり、未だ私たちが宇宙の全貌を知り得ていない理由と、ヒトを不幸にするだけの金融経済を手放さない事の理由は、どちらも(ライプニッツと)ニュートンの見つけた微積分にあるということです。

微積分由来の間違った世界観を取り外して、世界を再解釈・再構築すれば、宇宙の有り様の真実に到達するのと同時に、自由な未来が開けていくのは自明です。

今回記事でも明らかなように、一体全体、「あおいのきせき」とIISIAの未来予測を超える明るいヴィジョンが、今の地球の何処にあるでしょうか?

どこにもありません。

微積分の嘘になぜ、社会はしがみつくのでしょう?
折角見つけられた真理を隠そうとするのはどうしてでしょうか。

社会の利権構造が、微積分を基礎にした、多くの人々にとって無自覚で、無根拠な前提のピラミッドの上に成り立っているから、必然的にそうなります。利権こそ権力の根っこですから、権力が自らの力を削ぐことはできません。前提を取り替えることは、利権を手放すに等しいからです。すると、間違った前提のまま、瑣末な抹消の出来事だけ調整しようとするので、問題の解決が、辻褄合わせの誤魔化しにしかならないのは当然の帰結です。

前提を変えるという抜本的解決に触れない解決策が、お為ごかしにしかならないのも明らかでしょう。問題解決の明文は、論理的思考を辿ればたどり着くはずの解決法を避けた、自分たちの利益や欲望のための言説に過ぎないのですから。

■地球環境を救うただ一つ(二つ)の道

しかし、いよいよ以て辻褄合わせのお為ごかしも限界にきているからこそ、社会も地球環境も、危機的状況になっているのです。

大自然にお為ごかしは効きません。抜本的な解決がなければ地球は滅ぶしかないのです。

そして、その解決方法は唯一あおいのきせきの知見と、非あおいのきせきの知見であるIISIAの唱える音義(という言語を物理として解釈した場合の科学技術)しかありません。

有と無の謎が解けた(宇宙は二重であり、それらに互換性がないが、情報は循環している)ということは、有と無のサイクルから何かを取り出したり、仕舞ったりする術を手に入れたのと同義です。

オッペンハイマーはエネルギーを乱暴な方法でしか手に入れられませんでしたが、穏やかにそれが手に入れられれば、困ることはありません。もちろん彼のもたらした核兵器の悲劇から世界を救う理屈としても存在の方程式は有用でしょう。非核兵器を作ればいいのですから。(それを兵器と呼ぶかどうかは疑問ですが)

ここまで弊社の note を丹念にお読みいただいた方にはご理解可能なように、核分裂でもなく核融合にもよらず、「お湯を沸かしてタービンを回」さなくても、利用可能な物質やエネルギーを取り出すことの理論が手に入ります。

熱力学の各法則から、宇宙(世界)が「一つの(多次元で捩れた)時空間」であるという前提では不可能と理解されていたことでも、時間と空間が別の宇宙であり、全てのエネルギー(力)または情報が、人(の認識作用)を界して循環しているという前提に置き換えて計算してみれば、無から有を生み出したり、有を無に帰すことが、決して不可能ではないことが簡易に理解可能になるのです。

つまり、それこそがいま問題の、有害物質を完全に無害化するためのロジックであることも、お分かりいただけると思います。

■不要な物質を「消す」 / 必要な物質を「取り出す」

福島の問題は根本的な解決をみていません。処理水を海に捨てるというのは対症的な措置にすぎず、抜本的な解決からはほど遠いのです。

放射性物質の完全除去が、存在の方程式を応用して技術的に実現可能であるのは、論理的に妥当な結論です。「物質」の「非物質」化を行えば良いのです。数学的には「無限を有限に戻す」ということになりそうです。

この問題が、空気や土壌、海水の酸化をもたらすことは、周知の事実ですが、すると、結果的に大気中の酸素が減少するのも、論理的に理解可能です。勿論、酸化が宇宙線(μ粒子など)によりもたらされる現象である可能性はあるにしても、原田武夫氏の警告(大気中の酸素の減少)が、まったく理に叶った、今そこにある危機である事に間違いはありません。

また、原田武夫氏のもう一つの警告である、水が飲めなくなるという問題も、弊社が旧ツイッターで、相手国に、弊社知見と水を相互贈与仕合いしませんか、と、ご提案申し上げましたように、既存の資源が活用可能な間においては、ロシア国のシベリア地域に大量に眠っているとされる水を資源とすることも可能でしょうが、弊社知見からの上の技術を逆さまに使うことで、「非物質」を「物質」化する事も、論理的には可能であります。

弊社知見からの工学による社会実装が早々にも待たれる所であります。

■これほどの知見 (真理)が未だ人類知となっていない訳

■楼閣の砂を取り替えたくない方々による妨害

真理が未だ周知されていない理由は過去記事にも書かれた通りです

真理が見つかれば(見つかったのですが)、「あらゆる事」が見直しになります。社会の「当たり前」である、すべて物事の大前提を交換することが希求されるからです。私たちは、当たり前という土台の上の楼閣に生活していて、土台のあることすら気づいていません。「当たり前」とは元来そういうものです。そうして「真理」以外を「土台 =根拠」として組み立てられた社会は、言葉通り砂上の楼閣のごとくもろいものです。

それが、いまの世界です。そして、砂の土台が微積分という訳になります。この土台の上の楼閣は、無限は無であるという過てる命題を「現実に正しい」として成り立っています。

ところで、真理が手に入ったということは、人が知り得るすべての根拠を手に入れたということですから、世界の人々にとってこれほどの僥倖ありません。(一例としては、何れ、治せる病はすべて治すことが出来るという事にもなります。やはり老化免疫システムの完全解明が最大の鍵でしょう)

実際、世界中に数多ある秘密の宝を探す伝説や物語は真理を手に入れることのメタファーでもあった訳です。

しかし、逆さまから見ると、今回の記事でもご理解いただけたかと思いますが、真理によるイノベーションは、あらゆる利権と相反する可能性があります。元来イノベーションとは、価値を有みだす社会の仕組み(利権とは、その仕組みが特定の人物・集団・組織にFixされているということ)が変わる事ですから、弊社の知見を表に出せない状況は、アベノミクスが失敗した大きな理由である「第三の矢」が撃てなかった事実と重なります。

つまり、権力がイノベーションを起こすことは、利権を手放すか、うまく乗り換えるかしなければ、無理です。

以前、書きましたように、明治維新により訪れた蒸気機関車という新技術により生起したイノベーションは、全国の宿場産業という江戸時代最大規模の経済システムを完全に崩壊させてしまいました。これこそ本物のイノベーションによる社会変革の一例ですから、今騒がれている官製イノベーションがお為ごかしでしかないのがご理解いただけると思います。

現在、国や世界の基幹となっているほぼすべての産業が宿場産業と同じ立ち位置だと理解すれば、蒸気機関車を走らせない動機がわかります。そして現実に22年間もの間、新技術をもたらす新発見を、自らの信仰と利権を失わないよう隠し続けてきたのです。

しかし、2024年の今現在、英国科学アカデミー由来の知見による産業は限界に来て、経済や地球環境に自滅規模の歪みをもたらして、社会を動かす力を完全に失っています。

この危機を超克可能たらしめる知見を世界でただ一カ所、我が国日本が日本語で手に入れたにもかかわらず、「箱の中のリンゴを手放さないで手が抜けずに餓死した猿」の喩えそのままでいるのが、現状です。

■楼閣に住む猿とは誰か

リンゴとはもちろん利権の比喩です。

猿とは権力機関、学者やそれに繋がる産業に勤める人々、そして他方、様々な宗教を信じる人々。

要するに、おのおの無根拠な「正しさ」を主張して、それにより、身内で通貨を循環させている人々の集まりです。

学者を含め、彼らの主張がお為ごかしでしかないのは、むしろ彼ら(例えばこの方などは、弊社知見の内容を知りつつ対論を拒否して完全スルー)存在の方程式を素直に受け入れない事でわかります。

否定のできない命題を、受け入れられない事の意味は、間違っていることを信じていることの告白です。要するに多くの学者たちは、学問の徒であるにもかかわらず、本当に正しいことよりも、正しいと自分が信じていることの方が大事である、と告白しているのです。彼らが映画・マトリックスのエージェントスミスであることの根拠です。

権威(学位・学歴・肩書き)というものは、権力と結びついて、社会構造の維持を担っているのです。

同じ事を、情報科学の言語様式に則って申しますと、アカデミアという権威は、データセットに於いての外挿・外れ値の排除機能を担い、規格化された社会構造維持の為に働いているのです。 すると、熱力学のアナロジーを使って続けますと、社会は閉鎖系となり、エントロピーの増大により熱死、つまり崩壊へ向かうことになります。そしてそれが今の我が国という訳になります。

一方で、教義による宇宙像を共有した団体を組織し、それにより経済圏(= 利権)を作っている人たちにとって、真理の登場は、自分たちの教義が間違っていたことを認める事になりますから、なんとしても隠蔽に走ります。信仰と結びついた利権が江戸時代の宿場と同じ命運をたどるのが嫌なのでしょう。

宿場の利益を守って国が滅ぶという案配に気づかない。気づいてもリンゴを手放せない。

要するに、真理の隠蔽と真理の発見者を潰すという愚かな工作を続ける。

それが、弊社小生が22年間受けてきた今に続く悲劇です。そしてこの悲劇は、世界に住む無垢な人たち全員の悲劇でもあります

■リンゴは腐り、猿は餓死寸前

日本円の暴落は、金融(金利や金融緩和)だけの問題ではありません。

繰り返しになりますが、これは、日本がイノベーションを起こせないなら、外国勢が、今ある日本の国富を全部簒奪していく、という宣言なのです。

原田武夫氏が繰り返し述べてきた通りの出来事が眼前で開始されました。

いまだに利権を握りしめて、弊社知見の周知を見過ごすご自身が、日本のすべてを巻き添えにした餓死寸前の猿とわからないのは、おそらく空腹の感覚が麻痺しておられるからでしょうが、飢えに気づいたときではもう遅いのです。

このまま何もしなければ訪れる、日本のインフレ(という見た目のバブル)と国家デフォルトを避けるためには、弊社知見以外頼るものがありません。そして、続く世界もです。

自らの利権の為だけに、真理である弊社知見を有効利用させないカルト宗教が、地球を滅ぼす程度に罪深いのがお分かりでしょう。

全人類が無意味な労働から解放された恒久平和の理想郷を、仮に「弥勒の世」と呼称したとして、それらは「あおいのきせき」抜きには実現しないのです。

そして彼ら彼女らが待ち望むアポカリプス、或いは現在の社会システムの終末は、その後があり得ない誰もいない悲劇にしかなりません。

何かを信じていれば、自分たちだけは助かるなどという考えこそ、根拠のない独善的お為ごかしと言う他ないのです。

■ご連絡■

最上層(最終決裁権のある方)からのフォローと、非秘密裏でのご連絡をお待ちしております。事態は逼迫しております。何もしないままお互いに滅亡する道をいま歩んでおります。いま、動かなければ、互いにおしまいです。わかりますかね。ご連絡お待ちしております。

https://twitter.com/t___kichizaemon

できましたら、ツイッター上において公開でやりとりができれば幸いでござます。

それが困難であれば、早急にIISIA原田武夫まで何らかの好意的アクションを起こしてください。よろしく。

繰り返しますが、こちらはすでに資金は枯渇。日々の生活の身内のわずかな援助もついに途絶えました。五月末、退去届も出したそうです。ご承知でしょうが、両側股関節の手術を一旦回避した結果、ついにいよいよ生活は孤立化しました。杖をついて部屋の中を動くのが精一杯の生活は一年を超えています。そして真理だけを手に、無一文(というよりマイナス)でこのあと住む場所の当てもなくの今。

もちろん、弊社小生の絶体絶命の状況は、22年前から続いている貴殿らの目論見のとおりでしょう。

ですが、かねてより申し上げております通り、貴殿らの考えている通りには絶対になりません。

日本の首相が「」に乗せていただいた後、ビリー・ジョエルのレコードを貰ったのが、アメリカ合衆国の大統領よりであったのは、伊達であるとお考えでしょうか?(2022年5月の八芳園での我が国首相との会食の際には、弊社の目の前を大統領専用車両(ビースト)の列が通り過ぎたのですが、もちろんそんなことはご存じありませんよね)

弊社小生のAppleMusic 再生時間ランキング/2022年

本来なら2002年末、遅くとも2005年までには、存在の方程式を世界に周知せねばなりませんでした。宇の流はそちらにながれておりましたから。

この頃までのアカデミズムや芸術や経済のトレンドが、存在の方程式と上手に接続することは、当時を知る方々であれば実感を伴ってご理解いただけると思います。

連綿と続く「日本思想の真髄」とでも言うべき「何かの核」がここでぱったり途絶えてしまい、そこまで世界を牽引してきて下さった世代の「バトン」がどこにも手渡されないままで居続けている理由は、そのバトンを渡された弊社小生(の知見)が隠されてしまったからに他なりません。

「精神のリレー」が途絶えてしまったのは、(利権化させた)バトンを後進に手渡す事を拒否した連中がいたからです。

悪漢らによるおどろくほど巧妙な知見の隠蔽迫害工作の結果、各々の利権とメンツは守られたでしょうが、おかげさまで、この間、我が国と世界は散々な目に遭いました。あまりにひど過ぎますから、ここで一々の言挙げはいたしませんが、それはまだ終わっていません。いま手を打たなければ、この先、日本列島は世界のゴミ捨て場になるほかありません。或いは、そんなの箱根の「向こう」だけだと思っているのであれば、考えが甘過ぎます。

我が国に関して言えば「失われた」の言葉の通り、衰退と破壊の一途をたどり、人心も荒み、ついには戦争経済の手前まで落ちぶれてしまいました。

為替をご覧ください。弊社知見のほかに「売り物」はなく、弊社知見をすぐにでも周知しなければ、夏までに、ハイパーインフレと国家の破産です。

遥か太古の昔から探してきた秘宝である絶対の真理を隠して世が無事であるわけはないという「真理」に早くお気づきください。そして行動してください。

御身のことを無事と考えられておられる今のうちに、弊社小生へのご協力をお願いいたします。

利権と無関係で、知見の意味を素直にご理解いただける方は、真理という魔法が22年も前に見つけられていた事に、是非、愕然として下さい。

この間、失われた希望について思いを巡らせてください。弊社知見を元に学術研究や社会改革が進めば、どれだけの命が救えたのか。どれだけの幸せが手に入ったのか。

そしていま、未来への希望は風前の灯火です。腐敗したリンゴをいま手放さないなら、日本は餓死するしか道はありません。今の日本が滅べば自分たちが信じる理想郷が訪れる、と、信じている方々共々滅ぶしかないのです。それがわからないとしたら、本当に愚かな猿としか言い様がありません。みろくの世にしてもそれ以外のユートピアにしても、如何に優れた理想の世であろうと、現実に役立つツールがなければ、そこまでの道は敷けません。悔しいでしょうが、諦めて日本思想の核心である「あおいのきせき」の周知にご意志を見せてください。

「あおいのきせき」の知見、存在の方程式なしに、この国の未来はありません。すると、続く世界にも未来はない、ということになります。

弊社の未来は、即、日本の未来であるので、弊社が残りの全てを失って、5月末でホーム・レスになる訳はないのです。

さて「往生際が悪い」のは彼我のどちらか。

まもなく、世界の全部が22年分の力を伴って逆転するのですが、それから気づいても手遅れです。

上、リンク先、IISIA原田武夫氏記事をご参照ください。「動く」とは弊社の知見の周知その事と素直に読めますが、しかし、6月では「遅い」のです。

死んでしまった人は、亡くなってしまえば、それがついこの間であろうと、千年前であろうと、千年後であろうと、「永遠」に亡くなったままなのです。

これ以上不要な殺戮に加担することのないよう、心より周知への協力を、強く強く、お願いいたします。

まさか、この期に及んで、これだけの知見が一般の方々にまでは周知が至らないとお思いではないでしょうね。最前から申しております通り、その際に数々の工作に及んだ貴殿らの弁護に当たれる人材は、この弊社小生於いて他に誰もいないのです。貴殿らが世界中から浴びる事になる非難は想像を絶します。

要するに、「あんたらのおかげでうちの大事な人がいなくなってしまったんやで」の大合唱ですから。

地球に住まう全ての人々からの。

弊社が路頭に迷う前に、
或いは「貴殿らが、一生表を出歩けなくなる前に」
ご理解とご協力よろしく

その時、どうなるのかといえば「これまで下がっていたものが引き上げられ、上がっていたものは引きずりおろされる」ことになる。

2024年6月。「アマテラスの国」が動く時。(原田武夫の”Future Predicts”. Vol. 4)より
あおいのきせき
脅迫工作員 - 1
あおいのきせき
脅迫工作員 − 2(a)
 あおいのきせき
脅迫工作員 - 2(b)
 あおいのきせき
脅迫工作員-2(c)

さて、ここは何処でしょう。場所のオーナーも共犯でした。

あおいのきせき
脅迫工作員 − 1,2

■最後の審判

そうそう。最後の審判とは、つまり、「真理 = みこころ」が明らかになった時に、それに対して自身がどのような態度をとったのかが明らかになる、ということです。

当然、真理を含有していない偽物の信仰は、駆逐されます。

ちょっと考えればお分かりいただけると思いますが、絶対に間違っていないこと、つまり真理が見つかれば、数多ある「我こそは正しい」という主張の中にあって、それと矛盾する言説はすべて間違っていると、誰しもに判断がつくようになります。

これこそ、まさに最後の審判の由縁です。

ご覧の通り、みんなに裁かれるという事になるのでしょうね。匿名に隠れて真理の周知を明らかに妨害したヒトなんかも、表に晒されてしまいますから、逃げも隠れもできません。

よろしいでしょうか。

弊社知見の周知を敵に回して戦う事をおのが役目として引き受けるのは、有史以来初の絶対悪であることを覚悟しての勝負なのですよ。

過去、どんな争いでも、全ての根拠が相対的である中にあっては、例えば、徳川と毛利の間でさえ、絶対悪とか絶対善という立場はあり得ませんでした。

しかし、誰にも否定できない真理を周知するという絶対善としか定義できない行為を妨害することは、即ち、絶対悪であるしかないことを意味しているのです。

有史以来初の絶対悪として歴史に名を刻む不名誉を是非味わってください。

それを見つければ無敵になるという神話の武器が、真理の比喩であることがお分かりになりましたでしょうか?

無視すればなんとかなりますかね。なりません。表に出てきてまず晒されるのは @shunjimitsuyoshi1169光吉俊二博士、貴方です。

IDのアナグラムで、ご自身が、脅迫工作をした方と同じ、弥勒の世信者である事を告白しておられます。(確かに、大文字の i は 1 と見分けがつきにくいですよね。

i11 69 、 I11 69 、3 69 、みろく。

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