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慈愛プロジェクト〜IISIAの取り組み〜


在ることの例えとしての「日の丸」(弊社ツイッターアカウントから引用)

これで平和になる

弊社note(火の国へ。)から引用

原田武夫さんが、この意味を、
なぜ「あおいのきせき」の知見が平和に結びつくのか、
を、
教えてくださいました。

曰く、

自己愛から慈愛の世界へのグノーシス主義的転回

原田武夫・週刊レポートなどから引用

何故いま「自己愛」から「慈愛」へのグノーシス主義的転回が求められるのでしょうか?

「平和の方程式」

自己愛の世界。いまの世の中が概ねそうです。
自己を主張することで成り立つ世界です。
自己に固執する(こだわる)ことで成り立つ世界です。

つまり
「自己」に軸足を置く世界です。

在ることの例えとしての「日の丸」を参照して申しますと、

の上に(朱)色を塗る事によって成り立たせようとする行為により、である「自己」は立ち現れます。
そうでしか「自己」は成り立ちません。

である「自己」はそもそも成り立ちとして、である「非自己(≒他者)」を「自己」の色(朱)へ染める「欲望」を持たされています。

「自己」は「自己」に「こだわる」事で「自己」たりえるのです。逆さまから言えば、「こだわ」らないと「自己」はありません。

非自己(≒他者)を自己化することでしか自己が保てない。

これが「自己愛」の世界。今の社会です。

結果「自己」は"別"の「自己」とぶつかり合い諍いを起こすことが運命づけられているわけです。

この社会では何処かで誰かが必ず我慢を強いられます。対立する「自己」が安定して存在するには、どちらかが(或いは相互に)意図的に欲望を抑える必要があります。時空間の現実世界はそうする事でしか平和は成り立ちません。

他人のためだけに生きるっちゅう事は、
出来るとやろか?

映画「EUREKA」(青山真治監督作品)より

「慈愛」の世界とは、「非自己(≒他者)」に軸足を置いた世界と考えると筋が通ります。

つまり「非自己(≒他者)」に軸脚を置いた社会(=「慈愛(Compassion)」に拠った社会)に於いて「自己」は「こだわら」ず「他者」を「自己」化する「欲望」を持たないので、平和であることは寧ろ常態です。

図ではなく地へ軸足を移した世界へ。

自分のためだけに生きる世界(自己愛の世界)
から、
他人のためだけに生きる世界(慈愛の世界)へ!

これこそまさにグノーシス主義的展開です。

平和な世界への道筋がたちます。

更に、

「非自己(≒他者)」に軸脚を置いたとしても「自己」は保たれます。

他の何(誰)でもない(何ものでもない)
=非自己に非ず
という感覚がありさえすれば、自ずとそれが「自己」である、となります。
なにも「自己」に「こだわ」る必要もないのです。

別の言い方をすると図と地が反転しただけですから、自己も非自己(≒他者)も存在します。

自己と自己がぶつかることなく、平和に共存できます。

「あおいのきせき」で平和をロジックで語ることもできる、
と、
IISIAで教えていただきました。

ありがとうございます。原田武夫先生。これからも何卒よろしくお願い申し上げます。

追記・「慈愛プロジェクト」とは何か、これ以上の論は待たないと思いますが、いかがでしょう(笑)個別具体的な話は、色々とございますでしょうけれども。

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