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全て悪い物事の解決方法[獣の刻印を消す]


■真実の世界の常識は、魔法の世界の非常識

■ついに見破られたお金の魔法(トリック)!

勿論、前回記事はお読み頂けたかと思いますが、まだでしたら、是非、お読みください。必ず歴史に刻まれる「人類の目覚め」のきっかけになる記事であることが、大げさではなく、ご理解を頂けますことに相違はございません。

貨幣を通貨として組み立てられた金融(国が中央銀行にお金を借り、諸銀行が貸し出したお金と同じ金額のお金がお金として発行される(信用創造))という仕組みに立脚した経済自体が、とんでもないインチキをして私たち人類全員を不幸にしていることのカラクリを(おそらくは人類史上初めて)明示することに成功いたしました。

私たちは、自分たちが実存在であると信じている幻(数字・数学/通貨)のせいで、自らを幸せから遠ざけているということが、必ずご理解頂けます。

心の中にしかないものが、物質(空間)の世界に実在するかのような魔法に、全ての人たちがかかっているのが、この地球だとわかります。

そうして幻(お金/通貨/貨幣)の介在なしには生きてはいけない、という現実が、すべての私たち地球に住む全員が罹患している病である故、その病を治癒することこそ、私たち全員が抱えるすべての問題を一時に解決する逆魔法なのだということを、根拠をもったことわりとして言葉でお示し致した次第です。

金融経済とはすなわち算術つまり数学のことです。そして数は実体をはなれて意味を持つことはできません。心(頭)の中の他は、です。

そうしてこれらの仕組みには「当たり前」以外の根拠がありません。
「当たり前」ではないことを「当たり前」として意識させないようにしている何かが権威権力であります。

しかし、私たちはいま、真理という絶対の根拠を持っております。その根拠を以ていたしますと、金融経済の絶対に間違いであることが明らかに主張できるのです。

■預言されていた貨幣経済の悪であること

前回記事で明らかなように、新約聖書に収められておりますヨハネの黙示録に現在の貨幣経済(金融経済)が獣の刻印・獣の数字として預言されていたことがわかりました。中央銀行制度の下では、通貨がないと価値の交換が出来ずに生きていけませんし、銀行がわたしたち人の価値を決定してまうことまでも記されておりました。

獣の刻印とは、数字を実存在である、と心の中で思い込むことです。

お金とは数字の事です。すべてが数式で表現される算数、数学です。

刻印(数字を実存在と思い込まされた心)が獣である訳は、前回記事にも記しましたが、手段と目的が通貨により切断されているが故に、人が「獣」のごとき「悪行」を行うことになる、ということを指示しています。

今回記事でも詳しく説明いたします。

そして、獣の刻印を押されたが故に、貨幣(制度)が成立します。

獣の数字は価格のことです。お金の多寡が人の価値であり、その価値自体は銀行が決めると読んで不都合はおきません。是非、詳しくは前回記事をご参照ください。

獣の刻印の恐ろしいのはこのような無根拠で人々に不利益な独善的システムが「当たり前」という認識だけで世界にまかり通っている、というそのことなのです。

■金融(貨幣)経済のトリック

■[私たちの価値が銀行に盗まれるトリック]①

私たちが日々生産している価値は、通貨と交換しなければ、価値として通用しません。そしてその通貨は貸与という形で存在しています。

つまり、生産した価値は「売る」ことができなければ、つまり、自らの差し出した価値が通貨と交換できなければ、その価値は実質、経済(生活)のための意味をなしません。(価値の選り好み = 主体は銀行)

言い換えますと、「売れるもの」以外は「価値」がなく「売れる価値」を差し出すことができなければ、生きるに必要になものを何一つ手に入れることが出来ません。(殺生権は銀行にあるという事)

生きるためには「売れるもの(通貨と交換可能な価値)」を生産する他道はありません。

「売れるもの(通貨と交換可能な価値)」を決定するのは、銀行です。

なぜなら、すべての通貨は銀行の貸し出したものであるからです。金融経済下に於いては、まずすべての産業が銀行の融資を受けたものばかりで成立しています、そこで生産される価値とは、銀行の認可を受けた価値と同義であります。銀行(支配)経済から逸脱した物事を生産したとしても、価値として意味をなしません。(経済の話をしております。交換を目的としない価値については経済から外れるということで議題からは、はずれます)

私たちの人生はすべて「お金儲け」という枠内に規定されております。そこから、はずれることは、人としての価値すらないと価値判断(禁治産者)とされてしまう狂った社会が金融経済(貨幣経済)であることを丁寧に論証いたしました。(聖書(ヨハネの黙示録)による預言。すべて人の価値(獣の数字)を決めるのは銀行(666)である)

通貨の保有量が人間の価値であるという価値観は、銀行経済という前提によって規定されています。

■[私たちの価値が銀行に盗まれるトリック]②

トリック①を別の角度から指摘いたしますと、金融経済において、すべての価値の交換には、通貨を介在させることが義務づけられている、ということになります。

金融(貨幣)経済において、交換可能性という価値が発生し、それを中央銀行が独占することで、通貨に絶対的価値が生じます。

価値の交換可能性は法定通貨にしかありません。要するに通貨がありませんと、「売ることも」「買うことも」できません。(獣の刻印)

売買とはつまり、

価値      ↔      通貨
    (売る) (買う)

上の通りですから、価値の交換は、売買の相手ではなく、通貨との交換である、ということになります。

そうして、この仲買(組織)は国家単位で一つですから、すべての取引の仲買を独占している企業(団体・組織)が通貨を発行している主体(中央銀行)となるのです。

生きる為の衣食住を手に入れるには、

すべて手持ちの(あるいは生産した)価値を通貨に「献上」する他はなく、入手した価値は中央銀行から貸与されたものであります。(借りた価値で交換した価値の持ち主は貸主)

対価としての通貨とはただの数字に過ぎません。数字が価値を持つのは、数字を使わなければ、まずどのような価値も手に入らない(生きていけない)からです。

要するに「有の価値」は「無価値」と交換することが経済(生きること)ですから、価値を通貨に「献上」といって間違いではありません。

そして、私たちが何か(他の価値)を手に入れようと思ったら、貸与された通貨(価値)を使って別の価値を「買う(相手に価値を通貨に献上させる)」以外に価値を他者から手に入れる道はないのです。

■「売る」「買う」の正確な意味とは

「売る(sell)」とは価値の通貨発行主体への献上です。
「買う(buy)」とは貸与された通貨の返却です。(返済ではない)

どちらも数値化された価格によりますが、前述いたしましたように、その数値を決定した大元は中央(銀行)です。

すべての価値の移動(売り手・買い手間の)は一時的(仮)であります。

実際の現実的価値の所有者は通貨(の発行主体)から移動しておりません。

■[私たちの価値が銀行に盗まれるトリック]③

さらに加えて、すべての通貨は貸与によります(国債および信用創造)から金融経済は必ずどこかで銀行に対する金利がついています。

この金利は(中央)銀行の都合でさじ加減が調整できますが、いずれにせよ、すべての存在するお金に金利がかかっていて、すべて私たちの生活する際の無自覚な税金として機能していると理解することが可能です。

私たちの経済(生活)はすべて銀行に対して借りを受けて回っているのです。

通貨が国債と信用創造(借金)で発行されるとは見方を変えればそういう意味になります。

この事態を所有権という字義を徹底して追求して鑑みてみますと、お金で買ったすべての物の所有権は通貨の発行主体(銀行)にあるという事になりそうです。

■[私たちの価値が銀行に盗まれるトリック]④

金兌換を米ドルが廃止(金本位制の廃止)して次に始まったのがアラビアン・オイルを米ドルでしか買えない、という仕組みでした(です)。
ペトロダラーはオイルと通貨の交換を米ドルに限ったことで米ドルの価値を担保させたというトリックですが、何をかくそう、そのトリックは、すべての物事が法定通貨によってしか価値の交換ができないという、もっと大きなトリックの応用にすぎなかったのです。

こと、わたしたちの生活が通貨を通しての価値交換しか出来ず、しかも、その交換可能な価値についての判断はすべて市場によっているとすると、私たちは生き方 = 経済を、市場の判断から逸脱することが、原理的に塞がれています。

例えば、いくら素晴らしい絵(価値のある絵)を描いても(価値判断とは心によっていて、心が金融経済から省かれているということは前述いたしました)市場価値という欺瞞によらなければ、それを他の価値と交換できない、つまり生きるために必要なものを手に入れられないという仕組みのトリックはここにあります。

そうして原田武夫氏の情報によりますと、すべて価値のない絵はないにも関わらず、その中で市場価値を持たせるか否かはいわゆるロスチャイルド家の判断によっているそうです。

要するに芸術(作)品という徹底して個の判断に委ねられるべき対象すら銀行(家)の判断に従うほかないのです。

上は露骨な例ですが、一般の「市場価値」も経済全体が金融経済に取り込まれていますから、産業による商品のすべてが銀行の価値判断によって生産されたものです。

細部の商品は多様で、市場はいかにも受給のバランスで調整されてい(るかのように思い)ますが、近代産業のすべてが銀行融資の可否によって可と判断された企業によったものでしょうから、市場価値を隠れて決定しているのは通貨の発行主体である銀行であるということになります。

すべての「商品」は銀行の検閲を得ないことには、産業(商い = 価値の生産と流通・交換)として成り立ちません。

交換可能性と、交換可能な価値判断がすべて銀行に委ねられているということになります。

つまり私たちは銀行の価値に従って価値を創造する(生きる=仕事をする=働く)意外に道はありません。

交換可能性と、交換できる価値基準が銀行に握られていますから、銀行のいうとおりにしなければ生きていけない、すなわち、すべての金融経済に従っている人は全員銀行の奴隷だと言って無矛盾です。

■[私たちの価値が銀行に盗まれるトリック]⑤

金融緩和で、お金を貸し出して価値を奪った通貨はさらに金利を加えたのち、不胎化政策で銀行に吸収されます。

私たちの価値は銀行に一方的に吸収されていき、働けど働けど、我が暮らし楽にならずです。

私たちの生産した価値は、通貨と交換した途端、「なぜか」中央銀行からの借りた「価値」と変換されてしまうのです。その価値は保存がききますが、実は、通貨には真義としての所有権はありません。

あるいは比喩として、サブスクで音楽をダウンロードしていても、配信会社の意志一つで取り上げられてしまう仕組みに似ています。(そのもの)

■「当たり前」はぜんぜん「当たり前」ではありません

しかし、これは「当たり前」ではありません。

意識化されない社会の規範「当たり前」を強いている組織・団体が現代社会における「権威・権力」だという論考を過去記事に重ねて参りましたので、是非、お読みいただきたく思います。

お金で売買する社会の「当たり前」は、人と会えば「こんにちは」という「当たり前」に紛れ込んで私たちを「当たり前」に縛っておりますが、よくよく調べてみると中身はまったく違います。

挨拶も貨幣制度も「社会の潤滑油」として振る舞ってはいますが、一方(挨拶)は本物で「金融貨幣制度」は偽物です。

金融経済は経済のふりして通貨制度を「社会の潤滑油」であるかのようにふるまいますが、実際のところは銀行による奴隷制度に他ならなかったのです。

是非改めて下過去記事を再びお読み頂きたく思います。

■銀行は奪うだけで、なんらの価値も創造していないただの詐欺師

銀行(通貨発行主体)は交換可能性(と信用)を私たちから奪うばかりで、なんらの価値も創造していません。

奪った交換可能性(と信用)を独占して差配する力をだけしか持ち合わせていません。しかし、その権力は絶対です。

銀行は自らの権力の維持のためにしか存在していません。

私たちの(創造した)価値は、どうして「交換可能性」と「信用」と交換しないと他の価値を手に入れられないのでしょうか?

しかもその「交換可能性」と「信用」は生来銀行に一方的に奪われていたものです。

奪ったものを「貸す」ことで、私たちを銀行自らの価値の世界に閉じこめることをしているのが銀行です。

すべての産業はなんらかの価値を(一応)は創造していますが、銀行は違います。ただ「返済可能性」という独善的「未来予測」にしたがって、「価値の交換可能性」と「信用」を貸し出すだけです。それがないと生きる事さえ出来ない私たちにです。

そうして、「返済可能性」という「未来予測」を可能たらしめているのが微積分です。

微積分は、無が有を生む(0 = 1)という前提を採用してあたかも価値を創造しているかのごとく振る舞いますが、それは違います。数字はいくらいじくっても数字に過ぎません。

繰り返しますが、銀行が「創造する」価値とは私たちから奪った「価値の交換可能性」と「信用」ですが、それはもともと私たちのものです。

(時間)泥棒が泥棒したものを貸し出して、借りないと死ぬという世界に君臨しているのです。

■信用の担保とは

金融機関は信用の担保として貸し出す通貨とほぼ同等の実物資産を担保としてとります。この作業の論理的な根拠は皆無です。

通過の貸与に金利と担保をとるとは、絶対に負けないゲームのルールとして君臨しています。これを可能にしているのも通貨にしか「交換可能性」と「信用」がないというインチキです。銀行の好む(通貨と交換可能な)価値を所有していることが銀行の信用なのです。

実物自体を自在に分割して差配することが、通貨を省いて不可能であるため、このような暴挙が可能なのになっています。

もちろん、ある意味末端の銀行ですら捨て駒であるのは、バブル崩壊後に多くの銀行が統廃合されたり消えてしまったりしたことでわかります。

しかし、グローバルな視点からみますと、中央銀行の発行する通貨そのものは「不滅」です。

いまのところはです。当然、そうはいかない事態がまもなくやって来るでしょう。金融デリバティブなどいんちきが極まって限界を迎えています。

金融経済から離脱するまたとないチャンスはまもなく訪れるでしょう。

■微積分由来の嘘の経済・嘘の宇宙像

権威・権力の歴史と現在の権威がお金であり金融機関が権力であることがお分かりいただけた事と思います。

要するに、決め事に逆らえない、逆らったら(逆らうとは通貨の否定)死ぬ対象が権力であり、その権力がよってたつ「信仰」(貨幣金融制度)が権威だということです。

それは数が実存在であるという信仰であり、それすなわち、時間が切り売り(区切ることが)できる、すなわち、本来「虚数」である時間を整数として扱えるという信仰によることは過去記事に詳しくある通りです。

時空間として時間を計算に組み込めるという宇宙象と金融経済システムは、「微積分」という同一信仰のもとに成り立っているのです。

心(意識)と物質が脳と太陽(他?)で接続し、宇宙線やらの電磁波が言葉などに変換された情報として循環しているという(おそらく)真の宇宙像を、大国たちが知っていながら隠し続ける理由は、金融経済システムを温存させたいが為かと思われます。(別班(どこの自衛隊でもいいけど)ちゃんと自国の国益(弊社小生)を守ってくださいね)

「彼ら」がそれをご存知である事は、中学生の頃から私淑しておりましたカール・セーガン博士の小説を映像化した「コンタクト」を観ますと分かります。

或いはメタファーとして理解可能な映像表現を、実はロジックによる表現であると解釈すると、そう理解可能です。

驚きますが是非ご覧下さい。どちらかのサブスクに入っていると思いますし、何れ解説をしてみたいと考えております。

地球の外は、おそらく太陽系(物質宇宙)外は意識の中(非物質宇宙)です。

空間(物質)と非空間(意識)が心で繋がる。(存在の方程式から導かれる宇宙像)

存在の方程式は、そのような宇宙像と、ほぼ無矛盾です。

(おそらく)アメリカが放った暗喩による自慢(本当の宇宙の姿知ってるもんね−)だった「2001年宇宙の旅」も、

(たぶん)俺らも知ってるもんねーと、旧ソ連が(むりやり)タルコフスキーにとらせた「惑星ソラリス」も

どちらも宇宙(地球の外)は「心(を通しての意識/記憶)」でした、というオチです。

さらに、ブラックホールが脳であり得ることは過去記事にてずいぶんと論考を重ねてきました

■現代の魔術(宙に浮いた価値という絶対)

■法定通貨の数字だけが価値であるという魔法

通貨に価値があるのは「当たり前」ではないか。だからこそお金で物が買えるのだ。馬鹿言いたまえ。

こう思われませんか?まずこれが魔法です。

数字はただの比喩です。数それ自体は頭の中にしか存在しません。頭の中(非空間・非物質界)だけにしかなく、現実の世界(空間・物質界)には存在し得ないモノを妄想と言い、そうしてその妄想に価値があるというのであれば価値でもありえましょうが、なら、どうして「法定通貨の数字」という、妄想だけに価値があるのでしょうか?

通貨の価値とはなんでしょうか?

購入品の価格でしょうか?そうともいえますが、実はそれがトリックです。

前述いたしましたが通貨の価値とは独占された交換可能性のことで、「売買」の対象品ではありません。その価格設定も、大枠金融経済で決定された枝葉にすぎません。

価格が商品(交換対象の価値)と相等の価値がある、というのは幻想です。

前回記事にその論旨の詳細を記しましたが、質(価値)を量(数値)で表現することは(A/D変換)できません。(してもかまいませんが、普遍性が担保され得ません)

はじめから量である(個数として、重さとして計ることが出来る)ものを別にすれば、です。

■記号接地問題と金融経済

数字という非空間存在は、空間存在と接地して初めて意味を持ちます。そうでない数は算術(という人工言語)をいくら屈指しようが、妄想にすぎません。数は意識に言葉の宿った精神に存在していて、空間には存在していません。(ちなみに言葉とは、意識という非空間に「住み着いた」非粒子と言い得ましょう)

価格という数字は、一方、接地した実際の価値がなければ、ただの妄言にすぎません。

人が記号や記号を敷衍した象徴を手に入れたのが新石器時代であろうことは、前回記事でも中沢新一先生のご本を引用して、推測いたしました。

「レヴァント回廊で農業を発展させた時期を「アジア的段階」と呼び、農業が価値と意味の増殖の起因となった」(「精神の考古学」より)と解釈されておりますが、意味と価値の増殖をもう一段可能にしたのは、記号が空間存在と切り離されて考えることが可能となった時であると考えられます。

ラスコー洞窟に壁画がありますが、人は写実画を知った時、音(音声言語)以外にも実存在を形と色で喩えられると分かったのです。

「情報は変化しない」と養老孟司先生はどちらかでお話ししていらしたと記憶しておりますが、空間存在との接地しない記号(情報)はデジタル情報として劣化しません。万物は流転する時空間にあって非空間にとどまる記号・数は減少することはなく、保存が利くのです。

ここで指摘したいことは、現実(実際)の価値と等しく結びついていない(「null」である、シニフィエ抜きのシニフィアンのみの)数字が価値として一人歩きし出したことが、最大のトリックである、ということです。

■目的と行為を分断する貨幣は、当たり前と思うトリック

これから今の経済の「当たり前」を指摘していきます。思い出してください。権力とは注意を向けることがない「当たり前」強いて(強いられている事すら気づかせず)私たちに不利益を与えている「なにか」です。

生(生老病死の生)きるための「当たり前」とはなんでしょう。

食べることです。

食べ物を手に入れるために食料品店、或いは畑や釣りに行くのではなく求人雑誌を開くのはなぜでしょうか?

食べ物を直接手に入れられないのは、自分自身の価値と、食べ物を交換することが出来ない経済に縛られているからであるとは、ここまで記した事からご理解が可能でしょう。

自分自身の価値(または信用)を交換相手と直接取引きできないからです。

自分自身の価値は、通貨の保有量であるというお話はいたしました。

(銀行の=お金の)価値とは交換可能性なので、経済における利益とは交換可能性の最大化であります。

「利益」とは「生きる意味」を銀行の価値にスライドさせた言葉です。「自他の幸福の追求(生きる意味)」が本来であるところを、お金をたくさん稼ぐことという銀行の価値にスライドさせられています。

自分自身の信用や価値を決定する権限は銀行にしかありません。

経済価値という銀行の価値は融資・投資対象か否かであり、それは(計算による)返済可能性と同義です。

すなわち信用創造の信用は銀行が決定します。

銀行の言う、人の信用とは金を返せるか否かの信用にすぎませんが、現在の金融経済においては前述の交換可能性と同義となっています。

お金を払える人(返せる人 = 信用 = 交換可能性)にモノを売るのです。

価値の交換可能性が通貨に独占されているということの別の角度から見た実際です。

問題は、本来すべての人に委ねられているはずの経済のルール(信用のなんであるか、価値の何であるか)が銀行のそれだけによっていて、しかも、その規範に従わ(え)ない者は衣食住を満たすことが出来ない、ということなのです。

衣食住を満たせずに、如何にして自分自身の自由な人生を歩んでいくことができるでしょうか?

お金が払える人としか価値交換できないというルールは銀行のルールです。
端的にお金が払える人が価値であるという銀行の価値基準が、人としての価値とは全く関係がないことは周知の事実です。

にもかかわらずこの「当たり前」がなぜいまの「当たり前」に劣るのでしょうか?

この「当たり前」は私たちに不利益しかありません。

価値と価値観、つまり時間(心)と信用を奪われ、生きるために銀行の価値に従うほかはない世界に、どのような「利益」があるのでしょうか。

■信用を通貨が独占する経済

上の段でも少し触れましたが、「通貨」に奪われているのは、交換可能性だけではありません。わたしたちは信用を銀行に奪われています。

経済とは生活(範囲)と同じ意味ですから、信用や交換可能性を銀行に奪われていいわけはありません。

信用とは人が社会を形成する際の土台となるものですが、そこへ銀行が横入りして、その意味を攪乱させます。

銀行は融資対象になる人物が信用がある人物(法人)であるという定義を押しつけてきます。実際この価値判断に逆らって生活(経済という社会)に参画することは出来ません。上に記しましたとおりです。

この信用創造で通貨は流通しています。

社会(生活)は人と人との信頼関係で成り立ちます。価値と価値の交換も、個々の信頼関係の上なされるのが本来です。

そこへ銀行(の発行した通貨)が割り込んで、私たちを幻惑します。

信用とは通貨である、通貨の有無が信用の有無である、という「当たり前」を社会に押しつけたのが銀行主体の金融経済です。

獣の刻印とは、生きることを銀行に許された印とも言い得うるのでした。

金のないのは信用がないことだから、価値交換させない、というルールは銀行のものです。(実は、交換する価値は無価値の通貨というお話はいたしました)

■ あらゆる悪の根源 《通貨》

■目的(価値)と手段(時間)に割り込み悪をなす通貨

要するに「金のために」悪をなすという道が開ける、ということです。

端的に、

生きるために必要な価値の交換可能性と、そのための自身の価値に対する信用が銀行(通貨)に奪われていますから、自身の価値(多くの場合は自分の時間)を通貨を手に入れるために通貨の発行主体(銀行)へ献上し、信用と交換可能性を銀行から借りる必要があります。

このシステム(金融経済)では、衣食住という絶対に必要なものを超えて、自身のやりたいこと、すべき事、が出来ません。要するに銀行に価値を認められていない行為は、通貨を貸与される対象にしてくれないからです。

するとまず、銀行に価値を認められた目的(融資の対象になった企業の生産する価値など)の為に労働を捧げる(時間の切り売りをする)必要があります。銀行は自身が貸与して価値の生産行為を認めた企業の生産活動の為に時間を切り売りすることを求めてきます。

■時間の切り売りマクロの弊害

前回(過去)記事で時間とは心であり「虚数」でしか表現できないものであるから、「割る」ことは出来ないことを論証いたしました。

この無理を押し通すのがニュートン由来の宇宙像(時間は空間と同一対象として扱える)への信仰であることも論証いたしました通りです。

この信仰により、時間(心)を切り売るとどうなるか。

企業自身の目的は利益を最大化させることです。利益とはつまり通貨の量です。通貨それ自体に価値はありません。金融経済下の人々の信用と交換可能性を奪って寄せ集めた信用と交換可能性を増やすことが利益となります。

その利益がどこから来たかと言えば、私たち自身が献上した時間です。労働の対価として貸与された通貨に属している交換可能性と信用は、そもそも私たちから取り上げられたものです。

いったい、自分自身で価値を生み出して生きている人がどれだけいるでしょうか?いわゆる第一次産業や小規模な第二次産業ばかりでなく、すべての個人が生きるために行うすべての行為の価値を認められる経済であるべきなのです。

今は、自分自身の価値とは無関係な価値の為に時間を切り売りして、あたかもそれが自分自身の生きる意味(価値)だというお為ごかしで自身をごまかしている人ばかりではありませんか。

そうして人は本来悪を成すことをしないのがほとんどであるにもかかわらず、社会に大小の悪がはびこっているのは、生きるためにすること、するべき事が、通貨によって遮断(切断)されているからなのです。

■人殺しが産業として成立する訳

自身の生きる為にしたいことが即、経済価値、であれば、どこにも人殺しを目的に行為する人はいません。(殺し屋はどうでしょう。利益が通貨の量ではなく、皆の幸福と定義されても商いはなりたつでしょうか?)

目的  ← 手段(あるいは行為それ自体が目的(価値)である場合)

経済が上のように素直な形になっていれば、兵器を作る人はいません。(あなたが引き金を引くということですから)

目的(兵器を作る)  ⇄ 通貨 ⇄ あなたの行為
          ⇅
          あなたの目的   

金融経済では目的と行為の間に通貨が介在することで、貴方の意図を超えて悪をなすことが可能になります。

あるいは、だれしもが通貨に交換可能性と信用という生きるに必要なすべてを奪われていますから、お金のために悪いことをせざるを得ないということが起きています。

■信用と自分自身が切り離されているから詐欺ができる

自分自身の信用は銀行に取り上げられて、通貨に付与されています。信用は通貨にあって自分自身にありません。おまけに価値判断の裁量も、価値の交換可能性も通貨(銀行)に奪われていますから、通貨さえ手に入れば自分自身の「信用」がなくなったところで、困りません。

故に、詐欺をしてお金を稼ぐ、老人をだまくらかして必要のないものを売りつける、といったことが平気でできる人間を量産する社会が成立しているのです。

経済が自然であれば、つまり、信用の失墜が、自身の価値交換可能性を毀損したり、自分自身の価値が落ちたりすれば、人はまず意図して詐欺は働かないと思いますがどうでしょうか。

■余剰生産は通貨経済の必然

行為が目的と接地した経済であれば、目的以外の事はしません。(当たり前)

生産の話をすれば、必要な物が必要なだけ作られたら生産は止まります。

今の経済では利益の追求が保存可能な通貨(それ自体は無意味・信用と交換可能性という絶対価値)の量を増やすのが目的であります。

働く人たちにとっても、生産の目的と自分自身の目的は一致せず、また、それ故に手段である自分の行為が目的の為の(この場合生産)行為と合致していませんから、自身の意図と無関係に、或いは、積極的に利益の追求に資してしまうのです。

要するに不要な量(エネルギーの無駄)も質(社会悪)も、通貨経済の構造により発生していると考えられるのです。  

■銀行価値観の支配

地球上のすべての人の適応性、つまり価値が銀行の価値にに従えるように出来ているはずがありません。

登校拒否や引きこもりの問題も金融経済の過ちをたださなければならないという人類の悲鳴です。

■今の学校教育(無目的に無感覚になる為の洗脳)

手段と目的が通貨によって分断されている中で何を言っても「お為ごかし」にしかなりません。

いくら高邁な教育目標を掲げても、ほとんどの子供たちは自分の価値を価値と認められず、したいことをして生きることが出来ない、又は、するべき事が見つからない中で、時間を切り売りすることを強いられる訳ですから、自ずと、意味を問わずただ言われたことをこなすことが出来る人間を量産するだけになっています。

なにもスカートの長さを言われたとおりにするだけの話ではなく、試験に次ぐ試験で成り立つ学校教育の本質的な意味に答えられる大人はいません。(弊社 note の文脈に於いてそれが可能な方は是非ご教授ください)  

すると、人を不幸にして平気な大人が量産されます。不幸にしているのは自分ではなく「仕事」なのだ、という人間です。実際「そう」だったりするのが通貨システムの恐ろしさだということはご理解いただけたかと思います。

過去記事でも記しましたけれども、今の教育は突き詰めると専門家が育成されるのが「当たり前」となっていて、それはロゴス(論理)を基にした社会の必然的な結果、つまり縦割社会へと行き着きます。

あるいはピラミッド型の社会構造において「言われた通りに(規格則り)」行為可能な人材を大量生産するのは、金融経済においての経済効率を突き詰めた場合に有用なものだったのかもしれません。

また、その場合の(つまり今の)教育は規格化された人材(専門性と数値化された成績)がゴールであります。

金融経済は計算によっていますから、そのシステムから逆算して求められる人材がそうだったのかもしれませんが、計算不可能な「外れ値」を省いた予測可能な因子だけで成立した社会は閉鎖系であり、いずれはエントロピーの増大に至り崩壊いたるのは必然です。「未来予測」から逸脱した人材こそ社会(組織)を開放系にして、社会システムの恒常性に資する肝なのです。

■時間を切りうる。心を切りうる  

心が切り売られることに、人は耐えられません。世に心を病む人間が減らないのは、この経済の仕組みによります。

するべき事を見つけ、そのしたいことをして、しかも、それが、本当に他者の幸福に直結していてどうして心が病みましょう。

時間を切り売ることなしに、心のままの時間を過ごすことが経済に直結していれば、行為と目的をいちいち分解して解釈を加える必要は生まれる事がないはずです。

すべきこと、したいことを、心にしたがって(時間を売らずに)いる人は、まず、行為の意味を問うたりはしません。

自分のしたいことでも、するべき事でもないことをせざるを得ない中で、「労働」に意味・価値を見出そうという気持ちがわくのは当然でしょう。

つじつま合わせ、つまり、お為ごかしを言わざるを得ないのです。したくもない事をする自分をなんとか納得させる言い訳が欲しいのです。

すべては、金融経済を人に自然な経済に変えれば問題は解決します。

価値基準(判断)と交換可能性と信用を通貨から取り戻すのです。

逆に、この根本問題を解決しなければ、すべてが、つじつま合わせのお為ごかしにしかならず、何も解決はいたしません。

■これからの学校教育

未来の経済の話にまた戻ってくるわけですが、金融経済ではない経済を支えるのは、過去記事に記しました通り、「一人一人がヘッド・クォーターとなりうる人材」です。

一人一人がオーナー社長であり、また一兵卒でもあります。

規格化された人たちが集まって構成された今の社会では、「マニュアル(言われた事)」以外のことに対応するのが難しいのは「存在の方程式」を22年もの間、社会実装できないことからでもわかります。

ピラミッド型社会(金融経済)において「外れ値(未知・理解不能)」は省くという機能以外知らないからです。

宇宙は、世界は、無生物たちの「機械的(定量的)」な動きと、人など生き物たちの「非機械的(定性的)」な動きがミックスしてダイナミックな運動をして成り立つことは、過去記事からご理解いただけたかと思います。

人(経済)も、宇宙の自然な働きと矛盾しないように生きるのが健康で恒常的に生活を続けていく基本でありましょう。

すると、教育も、規格に則りながらも、瞬時の判断のもと、時と場合によって規格外にも動ける、という自責の人たちを育てる必要があると思います。

ケースによって(規模の大小に関わらず)チームを組み課題に取り組むこともあれば、一人ですべきことをする場合もるでしょう。

基本は、自分の適応に沿った(自分に向いた・あるいは好きな)仕事をする自責によった人材、というのが次世代に求められる「ポスト金融経済社会」つまり「粘菌型社会」に求められる人物像です。

要するに幼児からの教育の中で一人一人の適性(内的・外的)をみきわめながら、それぞれが望む道を社会の強力なバックアップのもと学びながら成長していく教育を考えるべきでしょう。

自分の人生は自分で選び取るのが基本です。(ほとんどの他責は、自分で決めていないから故に陥ります(言われたからやっただけだもん))

もしかすると、今の教育システムの中からでも「金融経済の足かせ」さえとれれば、自発的にそのような教育システムを作る方向へ進んでいくかもしれません。

農耕以前の毎日が生きるか死ぬかという極端な非規格的社会(狩猟社会)が理想ではありません。

しかし、今の社会問題の大元は農耕の知識を持った人々の過去のパターンに固執するという「未来予測」思考の限界であると思われます。

教育と粘菌型社会(ポスト・金融経済)は不可分であります。しばらく触れていませんでしたが、社会の課題解決という「PaxJaponica」は「非自己に軸足をおいた慈悲型社会」であります。

人の適性は千差万別であります。人々の適性を生かしつつ社会に恒常性が担保される程度に規格を求めるのは、大きなチャレンジかもしれません。しかし、信用と交換可能性を貨幣(制度)から取り戻した社会ではどうでしょうか。

人々の優位性が劣性を補い合い成り立つ社会こそ経済の理想であると思われます。相互互助ネットワークこそ、「誰一人とり残さない」社会の基礎となる構造であります。

ピラミッド型金融経済を温存したままこれを実行するのは不可能です。それこそ「陰謀説」のいうようにプロビデンスの目(銀行)が下々に目を光らせ、全人類にマイクロチップを埋め込み支配するという話にしかなりえません。
(全部規格化)

金融経済を人類が卒業してどのようにするのかは、宇宙の仕組みに反しない形で詳細を皆で話し合って仕組み化していくべきであると考えます。

どこかで、誰かが勝手に決めたルール(当たり前)に従うのでは、今と変わりません。

ここで、できましたら、再度前回記事をお読み頂きますようお願いを申し上げます。    




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