見出し画像

【真理】或いは【詔】で国がはじまった事、そして現代の超克も【真理】という【詔】


■究極の【真理】を、初めて手にした人類

■(はじめに) 2002年10月18日以降

【真理】は発見されてすぐ「秘匿」されるという道を選ばされる憂き目にあいました。本来なら間違いなく表に出るはずの大発見の公告が遅れたことによる人類の損害は想像することも難しい。【真理】こそ、人類が長い長い歴史の中で追い求めてきた「絶対なる宝」です。これが「暴力的」に非公開化されてしまいました。

世界の外れ(といっても渋谷の神宮前)で一人文筆に打ち込んでいただけの発見者としては「どこで何が起きたのか」自身の生活の範囲と、そこから推測されることしか分かりません。【真理】の発見は、すぐに大きな意味(所謂政治家などといった「レイヤー」を越えたレベル)での「政治」問題と化したであろうことは分かります。

この21年の間に発見者が係わった世界は「新聞とテレビと教科書で組み立てた世界」とはまったく違いました。このことを語るとき「レイヤー」という捉え方がしっくりときます。「現実(はそんなものじゃない、というレベルでの現実の意)」という名のレイヤーは重層的に存在しているのです。

このことは20世紀の終わり頃、日本の芸能音楽界の片隅の脇でその世界を眺ていた時に、既に経験から分かっていた事ではありました。個人として100億円単位のお金を日々動かせるような人たちは、同じ東京で同じ時間に同じ事(例えば、ご飯とカラオケ)をしているにも係わらず、僕とはまったく交叉する事のない「場所」にしかいませんでした。(資産レベルという概念の外の人たちはレイヤーに関係なく縦横無尽であると理解しています)

同じ「時間」とほぼ同じ「場所」なのにも係わらず、まったく異なった「世界」があり、その「世界」はまったく異なった価値観と規則で動いている、ということを理解するに(受け入れるの)は難しくはありませんでした。

■【真理】とは宇宙の法

【真理】とは否定できない正しいことに他なりません。

【真理】とは即ち万物を満遍なく支配する【則】です。「言語による究極真理」とは科学で言う「物理法則・及び自然法則」と等しい。この「法則」を使って「世界を測る」つまり、「当てはめて類推を計る」と最後には「宇宙の全てが明らかになります(一例は既にご披露致しました)」

【真理】とは「未知の扉」を開く事の叶ういわば「魔法の鍵」です。

【真理】が反証不可能性に拠っていたり(要するに無根拠)、容易に反証されうる事象がある限り、それは絶対に【真理】とは呼べません。

それ自体が根拠になり得る、否定され得ない絶対の普遍を持つのが【真理】であり、この厳しいルールに耐えうる(今のところ)唯一の言葉こそ、

【A = A + 非A + Aと非Aの境界(自己)】(「存在の方程式」という名の「あおいのきせき」からの知見)

という訳になります。(お陰様を持ちまして弊社noteはトータルで2.5万View余でございましたが有効な反証は絶無でありました)

〘先走りますと【真理】である【A=A+非A+Aと非Aの境界(自己)】から【物理・自然法則】と【非物理・非自然法則】が必ず自己を挟んで存在していることが分かります。

ここに機械論と自由意志(ラプラスの悪魔)の問題が両立という決着をみる事にも相成ったのです〙

人が知り得うる全て(宇宙の仕組み)は、この鍵から手に入ります。

否定のできない【真理】から順に類推してゆけば、順々に否定出来ない正しい知識が広がっていくのは通りです。

知り得た知識を使って図面を描き、その図面から得た技術は即ち「力」

絶大なる「力」と、なり得ます。

「神の設計図」とでも言うべき【真理】は、「神自身の設計図」でもありました。

■【真理】の争奪戦

この争奪戦こそが(語ることを省かれた)「歴史の核」である事を、学術的史実に批准しつつ、ソースの確かな「非公開情報」を交えて情報発信を行っているのが原田武夫氏です。(或いは、わたしたち一般人が手に入れることが可能な「最も異なったレイヤー」の正確な知識や情報は「ここ」 にしかないと思っています)

「すべてを手に入れることの出来る秘密の宝についての物語」は枚挙にいとまがありません。「宝」は「指輪」だったり「剣」だったり色々ですが、それらは全て【真理】の比喩的表現だとする理解も可能でしょう。

これは実体験を物書きとしてのノウハウと照らし合わせて言うのですが、所謂ギルガメッシュ伝説の物語など【真理】を見つけて書き留めることの比喩と読解してまったく違和感はありません。

「彼方の世界」で「わかったこと」を忘れないように「現実の世界」に持ち帰ることの困難さの例えとして「君の名は。」は、出来すぎている程、よくできていました。

【真理】を持ち帰るには、例えて言うなら、一晩で見た夢を、一言に言い換えて、更にそれを忘れないで、文字にするくらい難しい。

要するに「彼方の世界」で言葉にしたものを忘れずに帰って来る、あの難しさ故に【真理】を端的に指示する言葉を私たち人類は「あおいのきせき」の登場迄手にする事が出来なかったのです。

■「あおいのきせき」を書き上げる

【真理】を見つける行為は「頭で考える」というよりは「密教の修行」そのものであると、体験からもそうですが、原田武夫氏の言からもそれが分かります。

そのときの事は過去記事でも少し触れましたが、机に向かってキーボードを打ち続けていただけだとしても、体験としては死に物狂いの大冒険として語った方がしっくりきます。いや、実際に死ぬところであったのです。

「小説を書くという行為」が「密教の修行」と地続きであることを最もよくご存じなのが、村上春樹さんであると思っています。「小説を書くという行為」を「深く井戸を掘る」という風に喩えることを春樹さんはよくなさいます。「深く掘」りすぎると帰ってこれないことをよくご存じの春樹さんは、であるからして走るという行為に予断が無かったと理解することは難しくありません。物を書くのは知力というよりは体力です。小説を書くにあたり、知力を得るのは準備体操に近い気がします。僕の場合ですが、たぶん、書き方が春樹さんに近いのだと思います。二十歳の時に「ノルウェイの森」を読んで「(現実というレイヤー「A」に)帰ってくる」のに一週間かかった体験が「いけなかった」のかもしれません。

ただ自分は【真理】を探していた訳ではありませんでした。まったく念頭に置いていませんでした。目標にしていたのは、未だかつて書かれたことの無い日本語文学を小説にして具現化することでした。

あおいのきせき」はそのようにして書かれたのです。

■神の設計図

詳細は省きますが原田武夫氏の情報によりますと、この「神の設計図の隠し場所」は世界で四ヶ所候補に挙がっていたらしいのです。我が国日本もその一つであったとのことですが、そのような事を知ることになったのは、つい二、三年前の事でした。

設計図は勅として降ろされることになっていたそうです。(レイヤー「非A」)

何時?何処で?

それは分かていなかったようです(予言されていませんでした)が、結果として「勅」が降ろされたのは、

2002年10月18日 渋谷区神宮前の暗渠と化した隠田川のほとり

に於いてでした。

■科学の発見と勅は一緒

ケクレは見た夢からベンゼン環を「思いついた」ことで有名(諸説あり)ですが、科学的発見がどのようになされたか、その仕組みを観察してみると、宗教の世界で言うところの「勅をおろす」ことと違わないとは、比較的簡単に気づきます。

両者とも「なにもないところ」から「言葉(やイメージなど)」を「具現化(記録)」させることに違いはありません。

小林秀雄やアインシュタインが述べていたように「思いつき」というものは論理的な思考の果てに帰結として「やってくる」のではありません。いきなりまず「結論」がやってきて、むしろ、あとからその結論に至る道筋を見つけるのです。

■天皇の勅使

2002年7月に命を絶とうとして失敗したのを機に、文字通り全てを投げ出して創作に打ち込みました。管理者の不手際で、400年近く根付いていた故郷に沢山あった土地建物全てを手放す事となり、前々年には母親が急死し、前年には歯科医師の職を辞していました。よく考えると、かなり背水の陣で挑んでいた創作活動でした。創作とは小説を書くことでした。

小説を書き始めたのは1995年のことです。1996年には文藝新人賞の一次を通過しましたが、そこまででした。その後も一年に一本の新作を書き、都度文芸誌の新人賞に応募しましたが落選を続けました。これらの作品は現在弊社の商品としてAmazonに並んでおりますので、是非、お買い求めの上お読みいただきたく存じます。自薦として申し上げますと、【真理】へと歩む道筋の記録としての価値以上に、(なかなかの)傑作揃いであると自負しております。お疑いの方こそ、どうぞお読みいただいた上、是非鋭くご批評賜りたく存じます。庵野秀明さんの作品中、「エヴァンゲリオン」の外皮は装甲ではなく拘束具であったという逸話がありましたが、(当時の)大手出版社の新人賞にも当てはまる話であると深くご理解が及ぶことに間違いは無いと思います。

閑話休題。

窓の向こうの出来たばかりの青山パークタワーを横目に、六畳一間のアパートで毎日こつこつと文章を書き続けました。昼過ぎの朝食に竹下通り出口の「オーバカナル」で瓶のオランジーナとハムサンドを、別の日には未だ混んでいない「原宿餃子楼」でもやしと水餃子を食べる胡乱な日々でした。

世間では多摩川に現れたアザラシがその間ずっと話題になっていました

10月に入り、京都に参った話はこちらでも何度かいたしましたが、あの欲望はなんだったのでしょうか。昼夜を問わずマッキントッシュに向かいながら、鴨川デルタに行きたいという思いが消えなかったのです。

その数年前に友人宅に呼ばれて参った京都ですが、八坂神社にお参りしたきり部屋にこもったまま皆で桃電ばかりをやりつづけ、豪華なマンションの屋上で賑やかに大文字焼きでお盆をおくることが叶ったのは良い思い出ですが、そのときは鴨川デルタになんの興味もありませんでした。ただご近所の大層立派なお寺の御門ばかりが記憶に残っています。

■現代の戊辰戦争はヴァーチャル空間

■新時代の幕開け

いまから155年前の1868年に江戸幕府が滅び、明治新政府が発足し、今に至る近代日本の礎が築かれました。その後1945年に大日本帝国は滅びましたが、実質、その支配体制は所謂薩長土肥人脈による各核部の占有からのピラミッド型支配という日本の仕組みに(ある意味公然と米国が組み入れられただけで)なんらのかわりはありませんでした。(全ての「レイヤー」)

それがいよいよ変わるのです。

次の時代がどのようになるのかは、明治政府が何方のご意志(の曲解)のもと、どのような経緯で、誰によって組み立てられていったのかを調べると、そのときの失敗を糺すという視点から多くを学ぶことが可能です。

一言で、

非日本(特に西洋)と、どちらにも正しい関係性を築くための仕組みを国内において、日本固有の特性(歴史)を考慮して、正しく築く。

ということになりましょう。

もちろんその核になるのが「あおいのきせき」の知見という絶対なのです。
考えなくても分かりますが【真理】に矛盾する(相反する)所謂統治法を作って国を治めようとして歪みが生じない訳がありません。自然の摂理に反するわけですから。よく言われる「法の歪み」の根本解決は【真理】からの応用によらずして叶うわけが無かったのです。いきなり下世話な話になりますが、レントシーキングなどという事態の発生する隙をも塞ぐ事が、理屈として、大義をもって万人が納得するかたちで可能となるのです。

法治と人治は対義ではなく、法が人によって定められたとすれば、法治とは法に則った人治に過ぎません。この「法(学)」の抱える根本問題については偶然にも原田武夫氏がそもそものご専門でいらっしゃいますので詳細はお任せ致したいと存じますが、天治と人治が一続きになるという人類の夢が叶うまたとないチャンスもPaxJaponicaと呼ばれることになる、課題解決先進国としての我が国の役割に違いないと思われます。

■次の時代の「錦の御旗」

この国の大義は「錦の御旗」と決まっております。体制を変えるに足る大義無くして革命は起きません。(レイヤーA)

では何なら大義たりうるでしょう。

絶対の【真理】をおいて他にどんな大義があり得るでしょうか。

絶無です。

そうしてそれが適うのが「あおいのきせきの知見」という絶対なのです。(反論は常にお待ちしております)

ここまで理解して、ようやく、何故私が「あおいのきせき」を書き上げるその丁度三日前に「都へ呼びだされ」糺の森に立たされて無事を叶うことのお許しを得たのか、合点がいきます。(レイヤー「Aと非Aの境界」)

本邦において【真理】が御門による勅でないわけがございません。私はただ勅使としてみことのりを京の都にてお預かりする事を任されたのです。(レイヤー非A)

このnoteの一等はじめの記事にて申しました通り、鴨川デルタへ行きたかったのは、唯そこからまっすぐ北へ歩きたいと思ったに過ぎず、つい最近まで世に「葵祭」という日本最古と言われる祭りのあることさえ、それが「勅を代理人が読み上げる」という中身であるということすら、存じてはいなかったうつけであったのです。(レイヤー「A」)

今度のご維新での「錦の御旗」こそ、目には見えない言葉そのものである【真理】であったのです。(レイヤー「A+非A+Aと非Aの境界」)

■(日本の)統治システムの本質(Basedon原田武夫情報)

■統治に関しての権力闘争の本質

統治に関する権力闘争に関して、少なくともこの21年間は手に入れた「御旗」を巡る「仮想空間」での闘争劇こそ、社会の本体であったゆえの「失われた20年」であり、政治(家)と官僚と大企業群による「いわゆる現実世界」での諍いこそがヴァーチャル(幻)であったことに今、どれくらいの方がお気づきでしょうか。(レイヤー「Aと非Aの境界」)  

要するに「いわゆる現実世界(レイヤー「A」)」にての「いわゆる天下」を取っても
圧政を敷いて他者を従わせるか、飴をまいていう事をきかせるかの下でさえ、大した事ができませんでしたでしょう?(例えば、このかんの首相等)

本邦の「クニのテイ(すなわち国体)」は実は(かろうじて)「いまもそう」なのであまり表立って話題にもされず、教科書にもその視点からの歴史言及が為されることは先ずありませんが、

この国の歴史とは、

御門まわりの「朝廷(京都)」の権威

と、

征夷大将軍(現代では国会周りwith官僚)の武力

の間を有力な商家(現代だと所謂財閥)を挟んで

権力の座を巡っての組んず解れつです。

そしてその「基本ライン」としては長い間(およそ鎌倉時代くらいから)、征夷大将軍が武力を統べるカタチで権威を笠に国を統治する。

今は征夷大将軍の代わりに総理大臣まわりがその地位を預かっているはずなのですが、まともに機能していません。それは、誰の目にも明かな筈です。

日本の歴史とは、武力と財力が権威を巡って権力を取ろうとする際に揺れ動く、公と個の関係性を巡る運動のことです。(レイヤー「真A」)

■権威の源【詔】

ではなぜ権威が権威たり得ていたのかというと、元来は【詔】によってでした。

【詔】とは元来【預言】のことで【預言】とは未来と未来の為に必要なことを語る【予言】でもあります。

太古の昔、この「降りてきた言葉」こそが権力の源であり、【勅】を手中にする事が、権力を巡っての歴史の本質であることは原田武夫先生に学びました。

確かに「未来がわかって、その通り」になれば、誰だって感謝するし「言うことをき」くでしょう。「未来」を味方に付けて従う方が「得」ですから。

まさしく原始権威の誕生です。

そうして派生した権威を中心とした社会システムが「権力」となりました。

これが国家(ヤマト)の誕生です。(レイヤー「真A」)

■【詔】という権威の失墜

【詔】には精度・解像度があります。大抵の【詔】【預言】【予言】に解釈の多義性があることは、キリスト教の黙示録にあたる事でも理解が及びます。「未来を語る」あまたの【神示】【啓示】全てがまずそうです。

「何時、何処で何が起きる」

といった誰にでも検証可能な「未来予測」は「当たらなければ」すぐに信用を失い、そこに権威も権力も生じようがありません。

誤解を恐れず申し上げますと現存全ての「(予を含んだ)預言書」は「何時何処で何が」の具体性を欠いていたが故に生き延びているといっていいでしょう。

幾ばくかでも力を得た「預(予)言を中心にした権力機関」が、得た力を失わないために、預(予)言を成就させる「自作自演」といったことまで行う事を「オウム真理教」の事件から私たちは学んでおります。

曖昧(検証不可能)な「預(予)言【詔】」をもった集団・組織の間での権力闘争は「預(予)言【詔】」の「真贋」ではなく、財力とそれに直結した武力だけによった争いと化すのは通りでしょう。実際、歴史はそのように動いてたようです。

【詔】が力の源であるが故に【詔】はいつでも探されていました。探し方も【詔】を指す言葉もいろいろですが、要するに所謂宗教の元来の本質は【詔】とそれを見つけるためのノウハウです。

無論、【力】とは即ち「正確な未来予測」であることを知っている既存の権力機関が本気でこっそり「それ」をさがしていた(る)のはフィクションだけに限ったことではないのです。(レイヤー「非A」)

■【占星術】という「未来予測」

具体性を持って未来を予測すること、これが大事でした。

いつ、どこ、で、何が起きるか

分かれば、先に備えた者が勝ちです。これはオカルトを持ち出さずともどんな勝負においても当たり前の鉄則です。例えば、将棋もそうでしょう。

【詔】に頼って「未来予測」をすることに多くの価値が在りました。

一方「いつ」「何処」で「何」が、を探ることは、「占星術」の分野でもありました。

ギリシャ由来のリベラルアーツの文脈から「星の動き」の規則性を見いだし算術により「星の位置」を予測しました。

所謂「占星術」は技術により「未来」を「予測」する目的を持っていました。アナロジーは因果律に押されてあまり顧みられなくなっておりますが、過去「宇宙法則」としてはもっとも思考の筋道とされていたものでした。
つまり「星の動き(位置関係)」と「人の営みの世界」に、重要な相関関係があるとする考えです。

【占星術】も【詔】と持ちつ持たれつ「未来予測」を可能たらしめる術として発展していきました。

この文脈において我が国では中国由来の【陰陽道】が用いられたことはご存じの通りです。

■【微積分】という【詔】

人類史とは即ち「未来予測」を巡る旅といっても過言ではないでしょう。

そこへ17世紀に登場したのが英国のニュートンと後期神聖ローマ帝国(ドイツ)のライプニッツでした。

「天体の動き」が計算により予測できれば、即ち【占星術】のアナロジーというロジックから、人を介する事なく「機械的」に【詔】に代わる「未来予測」が可能になる。

ニュートンら「源科学者」たちの目的が何であれば分かると、晩年のニュートンの(現代からみると)奇妙な行動も埒が空きます。

彼らの「思いついた」つまり「【詔】として降ろしてきた」【微積分】は過去記事で多く触れましたように、人のかわりに「時間」と「空間」を接続するというトリックでした。

【詔】による「未来予測」は【ヒト】が「喋る」か「書く」かに拠ってもたらされています。

【微積分】は「計算」により「未来予測」を可能たらしめました。

【微積分】は【無限】と【無】を接続するという人の機能を計算上で奪うこと(「極限ゼロ = ゼロ」という公理の導入)で、未来予想を可能たらしめました。それはあくまで【微積分】が有効である範囲に於いてだったのですが、人類はその事を忘れてしまいました。

■【(虚)無】から【有】を生み出すのが【詔】

「無から有を生み出す」ことの意味は多くの場合【発明】を指さします。その仕組みを観察してみると【発見】を「実現」することだと分かります。

【発明】とは「おもいつき」からはじまります。「どこ」からか「イメージ」や「言葉」を得ることろからはじまります。それはつまり【発見】のことに他なりません。

【詔】も仕組みは同じです「どこから」か「イメージ」や「言葉」が「降りてくる」のです。

定義の問題にすぎませんが、「なにもないところ」から「言葉」や「イメージ(ヴィジョン)」を得ること自体を「無から有を生み出す」ことと言って違いはありません。

要するに「おもいつき」とは「なにもないところ」から「有」を生み出すことであり、そのような「物理を逸脱した機能」は「エネルギー保存の法則」に則る限り、人(の心を介して)しか起こりえません。

(新しい【宇宙論】から実は「無ではなく非有(虚無)から有を生み出していることに於いて「エネルギー保存の法則」は有効であったことが予見され得ます)

【微積分】は計算式であり、現在では人の手を離れ「機械」が「未来予測」の機能を担っている。。。ことになっておりません。

何故か。ここが「AI」と機械文明の根本問題なのです。

その答えは下、過去記事に詳細に記しました。

ゼロに無限に近づいたら、有、と設定して計算したところで、何も生まれるはずはありませんよね。

計算と現実世界の現象は違います。この当たり前をわすれているのは何故か不思議でなりません。

AIが何も思いつくわけありません。メニューにハンバーグと書いたって、ハンバーグはできません。

しかし何故、計算で「未来予測」が可能であると信じる事になったのでしょうか。

■【詔】vs.【微積分】は【微積分】の圧勝?の「未来予測」

このあたりの話は「社会構造」と密接に関係してきます。

「権力」を巡っての【詔】の占有と【王政】はほぼ同義でありました。そこへ【宗教】組織が絡んでくるのも【詔】あってのことでした。

「権威の失墜」と「フランス革命」からの「民主主義」勢力の発展と、【微積分】による「計算した通りに物が運ぶ」ようになったことで【詔】の代替が可能になった事は相関関係を超えて、因果関係にありそうです。

何より【微積分】による複雑な計算からの技術の獲得は、未来すらコントロールすることを可能せしめました。

【微積分】による【計算】は【詔】に代わり【技術】をもって未来を欲望のままに構築させていくことになったのです。(レイヤー「A」)

何故「ニュートン」の国が力を持ち得たのかを語る本質的な文脈は、人類史的には、ここにあります。

■【計算】に支配された社会の到来

【詔】は【微積分】からの【科学】と【科学技術】に吸収合併されていきました。

アインシュタインの理論も【詔】ですが、【宗教】ではなく【科学】に属します。

私たちの未来はいま【詔】ではなく【計算】によって予測され或いは【計算】による【計画】のもとにあらかじめ決定されています。

あまりに当たり前で注意を向けることがありませんが、現代社会の金融経済から科学技術まで予測可能性の限界に支配されていますが、それは即ち【数学】の限界です。

決して【人類】の限界ではありません。そうしてその限界は【微積分】というニュートン先生とライプニッツさんの「降ろしてきた【詔】の限界なのです。

【宇宙】の限界や、人の可能性の限界が、計算か出来るところまでしかない、というのは本末転倒です。

■権力と結びつく【詔】は現代では【数学】による【科学】【科学技術】

【科学アカデミー利権】のお話も過去記事に記しましたが、【科学】が「利権」と結びつき、むしろ私たちを計算可能性の檻に閉じ込めることで支配する「力」を維持しているのが本当のところでしょう。(レイヤー「非A」)

「計算」による【科学】と【科学技術】で人々の生活を規定し、また、【金融】による【経済】は金利という「未来予測」の範疇にしばられ、そこから逸脱することが困難でいる限り、人々をルールに従わせられます。

このあたりのことは過去記事にも記しました

【科学技術】と【金融】という【権力】は主に【微積分】という【詔】によってもたらされたのです。(レイヤー「非真A」)

私たちの未来はまるで弾道軌道と同じようであるかでしかなくなっています。

■近代を超克するためには新しい【詔(おもいつき)】が必須

【微積分】という【詔】が限界にきていることは、誰の目にも明らかでした。それによって組み立てられた人類の住む世界はあまりに自由を失っています。【微積分】の限界に因る社会現象の一例として過去記事で「細分化する物語」について少し触れました

世界では新たな【詔】の争奪戦が始まっていたのです。しかし真の詔である「あおいのきせき」が今の今まで表に出ることが出来なかった詳細は既にお話いたしました。(レイヤー「Aと非Aの境界」)

今回記事では、何故「あおいのきせき」が簡単に表に出なかったのかもお分かりいただけたことと思います。

本物の【詔】の登場は過去の【詔】に拠った世界全てを塗り替えてしまうのが必然だとすれば過去の【詔】によった組織・団体・権力がどうするかは、「あおいのきせき」の登場が今の今になったことでも分かります。

しかもその争奪戦は隠れた現実「レイヤー非A」で行われていたのでいわゆる現実「レイヤーA」が知ることは無かったのです。

いままで。

今度の【微積分】を超える【詔】は、単純な「未来予測」ではありませんでした。

【宇宙】の仕組みを全て解き明かし、【詔】がどのようにして「未来予測」を可能たらしめるのか解き明かすという【勅】であったのです。

■ 果たして現代の超克はいかに

■「あおいのきせき」の登場

いよいよ、いまから本格的に所謂【現実(レイヤーA)】と「あおいのきせき」の生きている【ヴァーチャル空間(レイヤー「非A)」】の主従が逆転いたします。あらゆる既存のレイヤーがシャッフルされて一つにまとまるのです。

併せて「真理の紛い物」が一掃され、PaxJaponicaと共に計画されている「慈愛プロジェクト」が発動致すのです。これらこそ我が国に於ける「バーゼルミッション」の一環に他なりません。

弊社小生が賊軍かつ公儀により取り潰しにあった武家の末裔でもあったのは歴史の不思議な偶然でしょう。また半分の血はその公儀の義によりもたらされた繁栄の恩義により栄えた商家のものである事の不思議。

よろしいでしょうか。大義(錦色の御旗)はこちらにありますことを、くれぐれもお忘れなきよう。

■シン・明治維新こそ平和裏に

■非暴力によった維新

明治維新が血塗られたある種、戦国時代を終了させた徳川(家)によったご維新に対しての復讐劇の面があったことは否めないと思われます。不必要な暴力ばかりが目立ちましたし、未だ東北(元奥羽越列藩同盟由来のいろいろ)は虐げられていて、国内のアンバランスをもたらしております。それが為にも、薩摩及び主に長州による一元的支配は終わらさなければならず、すると今日の支配体制そのものが終了する運びになるのは時の必然であります。一方、外国勢、特に各隣国と併せて米軍及び米国国務省との合意が必須であることも、マッカーサー元帥閣下と昭和の大帝との約束(原田武夫情報による)を確実に遂行する為にも、間違いが無いようにすることが大事でしょう。

開国を巡る幕末の動乱は、要するに「錦の御旗」という革命の大義がどちらにあるのかという正当性に遺恨を残すかたちで今に至っております。このたびの新しい時代を巡っての騒動に混乱があってはなりません。誰にも否定の出来ない【真理】こそ平和裏に事を納める力をもった真の御旗であります。この御旗に従わない者とは、理をわきまえない者と同義でありますから、彼らが即賊軍の烙印を押されることなることも理をもって易々と万人に理解が及ぶのです。(シン・レイヤー「A」)

■おわりに

随分と大上段に構えた大きな話だというのが、書き手である弊社代表の実感ではありますが、翻って「【真理】を手に入れた」という事は、天地を轟かせる人類史に残る大偉業であることを、理を持って理解すれば、むしろなにゆえにそれが分からない者ばかりなのか不思議です。

本気でモノを考えるということは、スポーツと同じように倒れ込むほどの体力を使います。使いました。意識も失います。意識を取り戻して気がついても、しかし記憶がありません。ありませんでした。本気で言葉を紡ぐことは命がけなのです。

実際、何千年という人類史の中で、真理を求めて命を失った死屍累々の跡の上に自分がいることが、自分ではわかります。この世界にはそれがわかる人が沢山いると思っていました。しかし、名のある方々にしろモノを考えるふりばかりが達者な偽物ばかり。

記憶喪失を三日がかりで、たった一人きりで、飲まず食わずで回復し、ようやく「常世」あるいは「現世」に戻ってきて、もう22年経つようですが、ある意味、自分は、あの意識を取り戻した机の前に一人突っ伏したまま今に至っています。

人類が求めて手に入れることのただ一度として叶わなかった真理という名の秘宝を初めて持ち帰ってきたのに、それを受け取ることが出来る人が誰もいないのは驚きでした。

たとえて言うなら、金銀財宝を持って鬼退治から帰った桃太郎を迎える者は誰もなく、それどころか「袋だたき」に逢うような話を現実として生き続けています。

本気で思うのですが、相対性理論を思いついたアインシュタインよりも、アインシュタインの詔(という思いつき)が人類史上初めて持ち帰った価値ある宝である、と理解した人の方がよほどすごいのだ、と、これは実体験として深く思います。


兎図(家光公作)

最終回に間に合った。(Follow the white rabbit.)

いよいよ姿を現す現代社会の権威。
次回へ続きます。     是非。

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?