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僕らのいる所が時間と空間である訳


意識と言葉、その境界は今ここ

存在の方程式(「あおいのきせき」の知見)のおさらい。

詳細は以下マガジンを、是非、お読み下さい。

何か「それ」が「在」れば、絶対に「それではないなにか」が存在しないと、そもそも「それ」は在りようがありません。

「何か」があれば、その「何か」とは相容れない「別の何か」が必ずある、ということです。

ウィキペディア「ルビンの壺」より

存在も(は)上の絵と同じようにして存在しています。「向かい合う横顔にみえる部分」の存在無しに「壺」が存在し得ない、のと同じ理屈です。

「壺」を 「A」
「向かい合う横顔にみえる部分」を「非A」

とすると、
「A」があれば、必ず「非A」が存在するといえます。

数式にすれば

A = A+非A

「あおいのきせき」より

となります。

反対に、「非A」がなければ、「A」はありようがないのです。

見えていようが、見えていまいが、です。そういう意味でも「ルビンの壺」の例えは正確です。「向かい合う横顔にみえる部分」である「非A」は見えません。

時間の不用(時空間外の方程式)

「壺(A)」と「向かい合う横顔に見える部分(非A)」は因果関係には無い事に最大限留意しないといけません。

自然法則とは、時空間の仕組みについての決まり事ですが、「あおいのきせき」の知見は非時空間においても意味をなすのは、これが為になります。

「あおいのきせき」の知見の最も特異な点が、其処にあります。

因果は必ず同一線上の時間軸にある必要があります。
原因は結果の「前」にあり、結果は原因の「後」に、必ずあります。そうでなければ因果の意味をなしません。

しかし、

Aと非Aの関係は、根源的に、因果に拠らないという事になります。
因果という言葉をあえて使えば
Aと非Aは相互因果関係。
むしろ因果の入れ子構造にある。
と言った方が実際に近いように思います。

存在の方程式(Aと非A)に因果関係は、時空間において初めて生じるのです。

ところで、

ところで、故・埴谷雄高さんは「自同律(同一律)の不快」ということを生前、強く仰っておりました。

A=A

に、納得がいかなかった。
どうしても、腑に落ちなかった。

上の数式から、漸くその訳がわかります。

埴谷さんは、存在Aが在るからには、非A(曰く「虚体」)が不可欠であることを理解しておられたのです。

それから、

そのことは例えば「一即多」という言いようで過去、指示されていることを僕たち人類は既に知っています。人知としている、ということです。

一をAとすれば、非Aは、Aではない全てを意味しますから、上の数式を「一即多」と言い換えることが可能です。

また、

「仏の説き給う般若波羅蜜というのは、すなわち般若波羅蜜ではない、それで般若波羅蜜と名づけるのである」

という、鈴木大拙師の所謂「即非の理論」も式にすれば、

「A = 非A ∴ A = A」

となります。

これは、

A=
{
(A = A)

(A = 非A)
}

と、分解し、
(A=A、が成り立つためには、A=A、と同時に、A=非A、があらねばならぬ)
と解釈すれば
A = A + 非A
と同じことを指示していることがわかります。

更に

「あおいのきせき」の知見は更に、ここから先へ進みます。

「ルビンの壺」の壺とそれ以外の部分の境目を拡大したら、どうなるでしょう?

境界問題

これが「境界問題」です。
境界は有るのか無いのか。有るとすれば「何処から何処までか?」

また、こうも考えられます。

壺(A)と、それ以外の部分(非A)=向かい合う顔と「一つの場(視覚野)」を二分割しているのは「認識主体」が一つ、あるからです。

或いは「非A」という認識機能に引っかからないところ(非有)と、
そうで無い部分「A」(認識可能なところ)を繋ぐ働きをしているところ「Aと非Aの境界」がある事になります。

境界を有るとして数式にすれば

A = A + 非A + Aと非Aの境界

「あおいのきせき」の知見

と、これを「存在の方程式」と呼びますが、これが「あおいのきせき」の知見となります。

因みに、

因みに「ルビンの壺」の例えによれば、観察者、または認識主体(境界)の「誕生」により、時間が動き出し、空間が広がり出す、という事になりましょう。

これは、そうとしか言えない、そうであること、です。
実存の問題として(物が存在するにあたって)、現実に否定しようがありません。

現実に昼と夜の間には必ず、薄明が存在します。薄明のグラデーションをへて昼は夜になり、夜は昼になりますが、間に朝と夕が必ず挟まります。
それを「存在として数える」のです。

ただ、

ただ、先ほどの「即非の理論」も「仏の説き給う、」というところを、ことさらに言挙げし、意識と言語が別の「(いわゆる)宇宙或いは界」であることを踏まえて解釈すると、
つまり「仏の説き給う」を「意識without言語」と理解すれば、
そこに「Aと非Aの境界(意識)」のあることを言わんとなさっていた
と、言うことも不可能ではない、
わかります

壺と「向かい合う横顔」は同じ何かの別の「側面」

壺と「向かい合う横顔」は、まさに「正反対の存在」です
まったく「相容れません」

しかし、

しかし、そのまったく相容れない存在は「同じ何かの異なる面」に過ぎないのです。
ルビンの壺から、それを知ることができます。


言葉を存在の方程式に代入する

言葉 = 言葉 + 意識 + 時空間

言葉は時間とセットです。普通の意味で「言葉」が意味をなすためには、時間の存在がかかせません。{時間を止めたら(無いと)「聞く事」も「読む事」もできません}

言葉は空間とセットです。

ところで。言葉は意識に「います」
「思う」とは、大抵の場合「わたしの心(わたしの意識)」で言葉を紡ぐことを意味します。「考える」、もそうです。

時空間は言葉と意識の境界

発話するには時間と空間がいります。
なので、
時空間があります。

言葉そのものに空間は属性として、ありません。
意識には時間は属性として、ありません。

非時間かつ非空間

発話。対称性の破れ。

非非時間かつ非非空間

あおいのきせき、是非。


ロゴスに則ったままロゴスを超えることは出来ません。中有と言った仏教(インド)哲学も、例えば排中律や同一律、矛盾律を排除する処から理解を始める必要性のある事についても「あおいのきせき」に指摘があります。

もちろん、偉大な先人はいらっしゃいます。

同時的には中沢新一先生が此方を。 


太極図(ウィキペディアより)

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