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母の亡くなったのは、歴の千の位がかわった年の真夏のことでしたが、それは「あおいのきせき」を書き上げる二年ばかり前のことで、そのころ慣れ親しんだ古里も失うことになったことと重なり、それでも2002年の夏までは、なんとかだましだまし日々を過ごしておりましたが、結局は全てを捨てて神宮前のアパートに一人蟄居することと相なりました。

「あおいのきせき」で持ち帰ったものの計り知れない価値を考えれば、所有物すべてを捨て、さらに命すら賭したところで、過去それを成し遂げたものは皆無である、という事実を鑑みれば、いまこうして、生きて皆さまにその成果を提示できるまで生き延びたことを喜ぶべきなのかも知れませんが、しかし、それも限界です。

それが死んで生き返ったに等しいことでも我が身に起きなければ、決して手に入らなかったほどの知見であることは、過去に偉大な、どの先人たちによる、如何なる思考や瞑想やその他必死の努力によっても「(その近いところまでしか)手に入らなかった」ことで分かります。

言えそうで、言えなくて、先人たちは、どのようにそれを(言語・非言語)によって指示できるか大変悩んで、その苦労の跡が山ほど残っていることでも分かります。

「あおいのきせき」の知見は試金石となっています。この価値の理解の有無が、即ち知恵ある者との御自認の真贋を計る物差しです。

さて。

母の棺に入れたものの中に、志賀直哉の文庫本がありました。亡くなる前、たまに実家に帰ると一人台所で軽くビールを飲みつつ何度も読み返していたのが「焚火」という物語でした。

仲の良い友達が集まって楽しそうにしているのがいい、と言うようなことを話していたように記憶しております。

僕は、母親などむしろ鬱陶しく思う程にまだ若く、ろくろく真面目に聞いてはおりませんでしたが、母の亡くなった後その短編小説を読み返して、果たしてその中身に驚いてしまいました。そうして、いまでは、僕の愛読書です。

それにしても、それが赤城山の大沼を舞台にしていることは、最近になって分かったことで、或いは、読み返すといっても、それが母の死と直結するものだから、なかなかきちんと読み取れていなかったように思います。

これはおこがましいかもしれませんが、偉大なサー・ポールマッカートニーのクリエーターとしての出発点について、ご自身の語るご本を拝読して、感嘆のため息をついたのも最近のことでした。

赤城山にはここ最近とてもすてきなご縁を賜り何度もお邪魔する機会を持つことになったことも不思議で、ありがたいなあと思っているのです。

赤城神社には「焚火」の碑が建っていました。

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