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言葉だけではなく、精神のリレー

京都へ。

なんにも知らずに、新幹線で。

2002年の10月14日、「あおいのきせき」を書き上げる4日前、僕は渋谷で映画を観ました。

北野武監督の「Dolls」という作品です。

見終わって、感動のあまりに茫然となり、気がつけば、その日の夜は京都にいました。

ワンダーラスト。

主人公の「放浪」が乗り移ってしまったのでしょう。
渋谷から、どこをどう歩いたのか、東京駅まで歩きました。
あるいは、乗り移った作品の力を「放電」するのに、それくらいの運動が必要だったのか。

都市とモードのビデオノート

つい最近、ヴェンダースさんの、山本耀司さんを主題にした映画を観る機会を、ようやく持つことが叶いました。

ヨウジヤマモトの服の秀でていることは論を待ちません。

「それをお作りになる」山本耀司さんは、優れたクリエーターとして、心のどこかに必ずおいでの方です。

けれども、ほぼ服を通してしか、山本さんのことを存じ上げませんでした。

この映画作家の新作がかかる度に映画館を訪れる「きまり」になっていた筈の、平成元年の映画を、どうして見逃していたのかわかりませんが、一つの時代をまるまる跳ばしてのようやくの邂逅が、久方ぶりの痺れるような映画体験となったのは、不思議な幸福でした。

この静かに激しい映像作品は、山本耀司さんという偉大なクリエーターの、いかにして「無から有」を生み出すかについてを、ビデオとフィルムに記録した、ヴェンダースさんという、これもまたすぐれたクリエーターが映画という形の「無から有」へを生み出していくことで、いくつもの「韻を踏んだような」美しい共作となっているのですが、確かに、僕の2002年10月14日から翌日にかけての「放浪」の力が、山本耀司さんの手によって伝わったのだということが、映画に接して、強く、はっきりとわかったのです。

北野武さんが「無から有」として形に仕上げた「Dolls」という「映画」と手を携えて。

そのつもりもないのに、渋谷からそのまま京都に行ってしまうのは、JR東海のコピーだけの力ではあり得ないでしょう。

糺の森を抜けたい

その時分の私が、鴨川デルタを真っ直ぐ北へ歩きたい、という、理解不能な「欲望」にとりつかれていたのは確かです。

おそらく「あおいのきせき」をまるで取り憑かれた様に書いている日々の中で芽生えたのでしょうが、以前にも申し上げました通り、僕は「葵祭」というお祭りも、「鴨川デルタ」と言う言葉も、もちろん「糺の森」という地名も由緒も全く存じ上げませんでした。

にもかかわらず、そこへ行きたかった。

ただ、京都のあの、川の交わるところから北に向かって歩きたかった。

その引力に抵抗する糸を「断ち切って」くださったのが、山本耀司さんでもあることに、改めて、気付いたのです。

本当に力強い映画というものがあります。
本当に力強い作品というものがあります。

しかし、その佇まいは、一見
静かで、
穏やかにみえるのです。

激しさというものは、直接的な情動というかたちをとることは、
実は、あまりないのかもしれません。

「あおいのきせき」が受け取ったバトンは言葉だけではないのでした。

そうして2003年には「座頭市」です。

お分かりになりますでしょうか。

そして、いよいよ。

ネックになっていたものが、とれたのでしょう。

皆さん、お揃い。

下の映画、撮影は、2003年。

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