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未来を語る。未来を作る。島原・雲仙。

1991年の4月、元号が平成に代わって3年目の春、僕は社会人となりました。とても胡乱げなまま馴染みのない肩書きで馴染みのない御代に押し出されたのです。なにもかもが丈にあわない感覚の中にありました。

新聞紙一面の普賢岳噴火の大きな文字は、今も尚、視覚として鮮明に思い出すことができます。

社会人一年目の記憶と普賢岳の爆発は一体となって分かちがたく、朦朧とした初夏の陽気と、遠く九州の地での悲劇が一緒になって記憶の一角に沈んでいます。

迂闊なことに、けれど、その時自分が向かっていた場所と、その大災害の記憶が、きちんと結びついてはいませんでした。

乖離していたのです。

あれから10年が経ったけれども雲仙温泉にはまだ客足が完全には戻ってきてはいない、という話を耳にしてようやく、ああここはあの噴火のあったところなのだ、と意識ができたという具合だったのです。随分とぼんやりしていました。

熊本から島原に向かうフェリーはとても賑やかでした。制服を着た沢山の若い学生さんが団体で乗船していたからです。長崎と熊本の人たちにとって、このフェリーはどのような存在なのでしょうか。ちょっと想像がつきませんでした。個人的には、久里浜と金谷を結ぶ「東京湾フェリー」を類比としてイメージしましたがどうでしょう。

さて。

さて、この九州旅のきっかけとなる、持ち帰ることの、初めて叶った「あおいのきせき」の知見は、差し迫った世界に未来の扉を開く唯一の鍵です。
(もちろん「非鍵」とその「境界」がある訳ですが)

新しい知見(発見)は、
新しいモノ(発明品)や
新しいコト(発明品を使って出来るようになる行為・発見により変化した世界認識に連動した新たな社会の仕組み)
を生み出します。

それが「根源的」な知見であればあるほどダイナミックな変革をもたらすモノやコトが生じます。

そして、「あおいのきせき」の知見は考え得る、最も根源的な発見です。

まさかあ、嘘だろう?
ですから、ご確認を。

併せてお読み頂きますと、世界の状況と弊社の商品(知見)との関係といった、(いま)の世界史的全体像をより深くご理解いただけます。(一見出鱈目に感じる様々な世界の出来事が、同一のストーリーとして理解する事が可能な「統一理論」が、例えてみますと、書かれております。)

「あおいのきせき」の知見を人類知すべてに当てはめて振り返れば「大変な気づき」に至ります。是非、ご貴殿ご貴女の専門分野にお持ち帰り、ご精査頂きたく存じます。

そうして是非知見の普及にお力をお貸し下さい。

下世話な話をいたしますと、
いたしますが、

早いものが、もっとも得をします。(ちなみに、我が国において、どうして後発の「三菱」が天下の「三菱」になれたのかご承知でしょうか?)

弊社の知見によって、社会の成り立ちや、私たちの日常生活が一変するほどの変化が生じる訳ですが、そのことを別の角度から眺めますと、

あおいのきせきの知見によって、

喚起された世界的な需要を満たすため、
又は、
喚起するモノゴトを作るための役割(要するにお仕事)がいっぺんに生じる、ということです。

しかも、誰に言われることなく、思いついた

あなた

が、それを行えるという、

歴史的に希な、

歴史の転換点にしか起きることの無い

またとはない機会が、

今訪れているというわけです!

(何か思いつかれましたら、是非ご一報をください)

これはまったく大げさではなく、むしろ控えめに申し上げております。

米国勢はすでに「文字通り」弊社をハサミにかけてきました●

これは、ふざけている訳ではありません。
まったくに真剣に申し上げていることなのです。

いま、世界は非常にきな臭くあります。

「世界経済」という大きな視点から言えば「戦争」は「経済を回すため(破壊して、またモノを売る)」為に行うのです。

逆さから言えば、世界経済を回せるほどのモノを作り出せば戦争は回避できます。

つまりこの「戦争というまったく愚かな行為」をやめる手立てに「あおいのきせき」の知見が役に立つのです。

まだ間に合います。

我が国を担う、世界を担う子供たちの未来は、この知見の普及にかかっているのです。

国道57号線から

普賢岳は、穏やかな山でした。
いつまでも穏やかでいて欲しい、そうして、豊かな恵みをわたしたちにいつまでも与えていて下さい、と、

心から願うのです。
心から祈るのです。

雲仙温泉の水蒸気

「祈り」にも真贋があるのはご存知かと思います。

「それ」を万人に理解可能な言葉でもって説明が可能な、

言いかえますと、

万人に共有可能な言語によって指示されるのが
「真」であり、

閉ざされた集団内でしか通用しない言語に縛られているのが「贋」
つまり、
「紛い物」となります。

「あおいのきせき」の「真」である事は、その「普遍」である事に担保されていて、また、故に
「贋」を頂く者たちから忌諱される訳になります。

逆さから申しますと、「真」の周知を妨害するのは「贋」である根拠となります。

普遍につきましては、繰り返しますが、是非。

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