長崎は、今日は。そして、「人知を超える何か」とは「あおいのきせき」の知見が世界に周知されること。
雲仙温泉を、朝、たちました。
歴史のある宿を後にして、再びのドライブです。車は、長崎の市街を目指します。
教会と寺院を往き来して。
僕が育った家の斜め前に、カトリック教会がありました。中学一年のとき建て替えられた我が家の自分の部屋の窓からは、桜の木々と重なって、教会の屋根の上に十字架が見えました。日曜日になる度に、信者さんたちの賛美歌が聞こえてきました。
教会の前を素通りして歩いて行くと、道は細くなり、突然下り階段となって墓場へと繋がります。鬱蒼とした木々をくぐって沢山の墓石たちを後にお寺の境内を通り抜けると、踏切を渡ったところが、祖母の家でした。
子供の足でも10分とかからなかったでしょう。
中学校に入るまで夜八時の就寝を義務づけられていた僕は、土曜になる度、教会の前と墓地とお寺を通って、祖母の家に泊まりに行くことを常としていました。
「ばばんち」では、なん時までだって、テレビを見て、起きていることができました。
そういう訳で、墓地は日常でしたから恐怖という感情と、特段結びついていません。日が暮れて、墓地を抜けることも、よくあったのです。
人気のない夜は何処であれ薄気味悪いですが、墓場も同じです。それでも住宅街の中に「とりこまれた異界」には、街灯もあります。人里離れた山の中ではないのです。
「うち」と「ばばんち」の境界に『「カトリック教会」と「墓地」と「お寺」』があったことは、幼い僕の意識をしない(この場合、「意識する」とは、「注意を向ける」の意)あたりまえ」でした。
「あおいのきせき」の知見、とは。
いままで「人類」が気付いていなかった「ものの見方」についての気づき。です。
様々な知的限界を突破する鍵です。
宇宙の謎は、「いまの見方」とは異なった「見方」をすることで「解決」へと進めます。
その鍵が「あおいのせき」の知見です。
無とは何か?
何故、善と悪があるのか?
何故ダークマターは存在するのか?
何故、存在は波であり粒であるのか?
ブラックホールとは何か?
その向こうに何が?
時空間の存在するわけ。
何故男と女がいるのか?
何故存在は増殖するの?
何故生と死があるのか?
何故、言葉はふと思い浮かぶのか?
エトセトラエトセトラ。
つまり、これらの謎を解決へと導く宇宙のありようを言語として正確に抽象化して表現できた事が「おいのきせき」のなによりの知見です。
「存在」についての原初(とはいえ、直線時間とは無関係の原初)について言葉で表現するに、これ以上「あたりまえ」のことはありません。
「あおいのきせき」の知見とは「存在のありようについて(言ってみれば)そうとしか言えない、そう」であることの限界です。
是非
是非、よくよく、ご自身で知見について、ご確認ください。
「あおいのきせき」の知見は、過去、偉人たちが「指摘」していたことを「端的に表現」したものです。
「物理法則」が無視していた「意識」を物理法則に組み込むことにも成功しています。
人類が、長いこと、この知見を得ることが困難であった理由は、例えて言えば、
自分で自分を見ることはできないから、と、なります。
比喩的に言えば、自分を自分で直接見るとするなら、自分の「外」に出なければいけないことになります。
この比喩で押し通しますと、
たとえ、自分の「外」へ出て、自分を見ることが叶ったとしても、自分の「中」へ戻れなくなってしまったら「知見」は手に入りません。
たとえ、自分の「中」に戻ってこられたとしても、見えた「何か」を忘れてしまっては、やはり「知見」は手にはいりません。
しかし、忘れるにも「程」があります。
人類は過去、おぼろげに覚えていることを、さまざまな形で表現してきました。
絵や、言葉でもって。
つまり、記号にしたり、物語にしたり、問答にしたり、
つまり芸術や宗教や科学にしたりして、表現しようとしてきました。
「と、いうこと自体」を映画にもしたり
二項対立に関しての言説・対称性についての言説
大抵の「それ」がそうです。
下は「ミロ」の絵です。
そうして、青山真治監督の「EUREKA」
【境界(例えば私の意識)】は【存在】と【非存在】の間 (存在の方程式=あおいのきせきの知見)
存在は意識に担保された相補性(対称性)を有する
例に挙げた言説や作品を是非、上の知見(と言う角度)から眺め直して下さい。
すっきりと「見えます」
それはそうです、存在のありようの根源を表現しようとする行為こそ、
広い意味での芸術だからであり、
本来の宗教だからであり、
学問(例えば現在では主に科学)だからです。
人は、
人類は、できるだけ正確に「それ」を表現しようと格闘してきました。
芸術であれば「美しく」
学問であれば「真(まことの言葉)」として
宗教であれば「善」として
すべて同じ事です。
1=3(三位一体)真善美
左右が存在するのは「自分」がいるからです。自分がいれば「右」と「左」が存在します。
空間に「主体(ここ)」を置くないなや、「こっち」と「あっち」が生じます。
時間に「主体(今)」を置くないなや、「過去」と「未来」が生じます。
「地」のない「図」はありえません。そうして「図」と「地」には「境界」があるはずです。(拡大してみてください。どうでしょう)
この「当たり前」を人は存在の根本原理として、「あおいのきせき」の登場をもって初めて正確に言説化出来たということです。
例えば「キリスト教」は「神」=(父・子・精霊)と表現しました。その意味について深入りするつもりも能力もありません。
が
「三身」「三尊(仏)」なども要するに「1=3(「あおいのきせき」の知見)」を指示しているとして、違和はおきません。
神器が三種である事に指示されている意味も、つまりは、この事でしょう。
人類が手にした過去の知見をもって例に持ち出すのがこの程度の量なのは、ひとえに僕の知識の浅薄なるによります。
科学については弊社ツイッターアカウントにていくつかつぶやいておりますのでご参考ください。
「あおいのきせき」の知見により、全ての知見が統合される
ことがご理解いただけたと思います。
原田武夫氏の現状分析と未来予測に寄せて
最新の週刊号の内容も、このブログの内容と併せて考えれば、すんなりと理解が進みます。
この意味は地球が滅んでしまうような大災害の発生だけを指す訳ではないことに気付きます。
いいえ。
いいえ。むしろそういった悲劇を回避する為に
是が非でも
「あおいのせき」という「(いままでの)人知を超えた」人知を全人類に普及させる事が急務であると「判る」のです。
「第三次世界大戦」という「人知を超える」人災や、
我が国や、最近ではトルコであったような天災を超えるような、SFでしか描かれなかった、
「小惑星の衝突」であるとかいった「人知を超える」ような天災を回避するためにも。
とは、「あおいのきせき」の知見です。
更には、IISIAの知見・音義。
長崎は、きょうは、
良い天気でした。車をとめて、まず、向かったのは大浦天主堂でした。
かつて長崎は「人知を超える」人災にあった場所です。
赤と非赤(青)とその境界にはサー・ポール・マッカートニー。偉大なるサーを挟んで綱引き。
「あおいのきせき」の知見によれば「どちらも」が答え、です。
そう、問うている「わたし」を併せて。
「君の名は、
」でした。
●「三」に関係するのだ、というところまでは、先人により数多く「記録されています」
●対義語に関係したり、対偶に関係することである、ということも、対称性と不可分という事も、イメージと併せて、人は、気付いていました。
ところで、そう。
もう「片方」の名は、原田武夫先生が。
ありがとうございます。春樹さん。
「非I(=YOU)」なしに「I」は存在し得ない、と今の時代なら、わかります。
ブライアン・ウィルソンさんも、「本質」をこのアルバムできちんと捕まえて、美しく、表現なさっていたんですね。
みんな、知っている。
知らないうちに、
わかっているのです。
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