【決着】神義論(悪の在る訳)
非善を悪と定義した、或いは、善が在る「から」
存在の方程式(「あおいのきせき」の知見)
に、つきましては以下のリンク先の過去記事も参考にして頂き、
「善」を方程式に入れて話を進めます。
「善」が在るとします。
神が存在し、神を「善」と同義と「決めた」のですから(でしたら)、
「善」は在る、
となります。
でしたら、「存在の方程式」は以下のようになります。
善 = 善 + 非善 +善と非善の境界
「善」(それ)だけしかない、という「場」はあり得ない、「善」(それ)ではない「なにか」がなければ善(それ)は絶対に存在し得ない、そしてその二物の間に境界が在る、というのが「存在の方程式」でした。
すると逆説的に、「善」は「善」ならざる「なにか」が在る為に、在る。となります。(但し、為は目的ではありません。原因でもありません。因果でも意味でもなく、理由です)
そうして、「善」ならざる「なにか」を「悪」と決めれば(名付ければ)、
こうなります。
善 = 善 + 悪 + 善と悪の境界
∴ 「悪」があるのは、「善」があるから。
「善」が在る限り、非「善」は在ります。
ただし、非「善」は、=「悪」でしょうか?
善ならざる「なにか」が、悪だけならば、そうなります。
ここから先は「意味論」になっていきます。
そう
「善と非善(⊃悪)の境界」
の出番です。
つまり
「意識」と「言葉」
の出番です。
意識と言葉「抜き」では「善」も「非善(⊃悪)」も存在し得ません。
善も悪も「彼岸」に立ってこそ「判別」がつくのでしょう。
「わたしの意識」が存在すれば、それを「中心」にして、相反する正反対の「なにか」が存在する。
という物言いも「存在の方程式」からわかります。
「なにか」は言葉により意味を持ち、いわば「善悪を意味する軸」は「わたしの意識」により分断され、「善」「悪」が「分かる」
のです。
ちなみに。
ちなみに、「善」と「悪」を「光」と「闇」に置き換えても「同じ」です。
光が闇に打ち勝ち、光だけになる、という物言いは、「ルビンの壺」で言えば、壺が横顔に打ち勝ち、壺だけになる、という有り得ない(オカシナ)話になります。
地なくして図はありえないのが、ことわりです。(逆もまた然り)
時空間宇宙があるのだから、何処かに時空間宇宙ならざる「なにか」があるのがことわりです。
非時空間宇宙が、意識であろうとわかれば、理にかないます。
意識が言葉により(時空間)に打ち勝ったから、
時空間が生じた、(対象性がやぶれた)と、「物語る」ことについては、
また今度。
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